前兆


 モージから果たすべき使命について聞かされたジュチは、残された時間の殆ど全てを旅の準備に充てた。モージが語る旅の道行きを必死に記憶にとどめ、ソルカン・シラが手配した旅装に加えて乏しい知識を精一杯振り絞りながらの準備を進める時間だった。

 そしてほんの少しの時間だけモージと共にツェツェクの見舞いにも顔を出した。


「ツェツェク…」


 発症初期の対処を何もできなかったこともあり、ツェツェクの容態は他の皆と同じかそれ以上に悪かった。ひどく衰弱し、息を荒げている義妹の弱々しい姿に胸を締め付けられる。

 思わず漏れた声に気づいたのか、ツェツェクはジュチを見て微かに微笑わらった。そしてそれ以上のことは出来ず、ジュチ達も今以上にツェツェクのためにしてやれることが無い。


「必ず、御山から薬草を持ち帰る。だから」


 死なないでくれ、と言葉にならない懇願を絞り出すように祈る。ツェツェクの手を握り、小さな背中を丸めるようにして祈るその姿をモージだけが見ていた。


「行くぞ」

「ああ…」


 重い声音による促しに応じ、天幕を出ていく。


「……アゼル。まだ戻ってこないな」


 ポツリと漏れた呟きが示すように、いま畜獣達を肥やすため放牧に出たアゼルを呼び戻すための伝令が複数騎放たれ、彼らを探しに出ていた。


「焦るな。元より放牧に出れば、当分の間連絡は望めんものだ。だが予め放牧は近場で済ませるようアゼルには伝えてある。伝令に出た者がアゼル達を見つけ出すまでさして時間もかからんはずだ」


 出来る準備を全て終え、ジリジリと焦るジュチを宥めながらも時間が経ち…。


「族長よ、いるか!?」


 そしてアゼルは予想よりも早く放牧から帰還した、ただし誰もが予想もしなかった特大の凶報を携えて。

 戻ってきたアゼルは族長家の天幕に飛び込み、ソルカン・シラと対面するなりカザル族と縄張りを隣接する雲雀ボルジモル族が攻めてきたと大声で告げたのだ。


「……なに? ボルジモルの連中がここを攻めてくる?」

「そうだ。確かにこの両の目で見た。《狩人》として俺は皆の指揮を執らねばならん」


 常に寡黙で精悍な顔を崩さないアゼルが焦りを滲ませた声で族長家の天幕に集まった皆へ告げる。アゼルとともに帰還した若者たちも、口々にアゼルの言葉に同意を示し、戦支度だと叫んだ。


「お前の言を疑うわけではないが、真実まことか? 見間違いということはないのか」

「少なくとも彼奴等が武装した男達をまとめ、我らの縄張りを侵しているのは確かにこの目で見た。奴らに真意を問い質し、必要ならば応報の矢をくれてやらねばならん」


 少数ならばまだしも集団で武装して他所の部族の縄張りを駆け回るなど、最早宣戦布告とすら言えない蛮行である。敵対的な意思から来るものであることは明らかで、はっきり言えば喧嘩を売っている。


「我らが先んじて奴らを見つけられたのは本当に運が良かった。地の利も我らに味方したが彼奴らがこの営地まで辿り着くまでさして猶予もないだろう。放牧に出している畜群も略奪されていない保証はない。すぐに男達をまとめ迎え撃つべきだ」

「確かに、な。むう…奴らに一体何があったというのか」


 ソルカン・シラの呟きに同調するように周囲のざわめきも戸惑いの色が強い。確かにカザル族とボルジモル族は決して良好な関係とは言えず、少し前にはちょっとした揉め事も起きた。だがそれでも戦が起きるには前触れが無さすぎる。


「我らと奴らの間にそれほどの遺恨を持った覚えはないぞ…!」


 何かしらの大義名分を出して敵対部族に難癖を付け、時に周辺の諸部族を巻き込んで、言葉の殴り合いから始めるのがこの一帯におけるの戦争である。交渉の窓口を持つこともなくいきなり襲い掛かるというのは奇襲の優位を得られるため一見有効に見えるが、実際は戦争の結末が互いが互いを族滅させるしかないという崖っぷちに追い込むリスキーな選択だった。ソルカン・シラの困惑も当然と言える。

 もちろん周囲の皆と同じように驚きと焦りに襲われたジュチも苦々しく何故と呟いていた。


「なんでよりにもよってこんな時に―――……待てよ?」


 部族の子ども達の命運が本当にギリギリの瀬戸際にあると知っているジュチは苛立ちも露わに文句を吐き捨てようとしたが、ここで脳裏にもしやと閃きが走った。


(思い出せ)


 直近であったボルジモル族との関りと言えば、やはり過日の両部族の馬群が混じった一件が記憶に新しい。

 ボルジモル族とカザル族の馬群が混じった際に、両部族は警戒して遠方から話し合いながら、血を見ることなく馬群を過たず分けた、はずだ。これはアゼルから聞いた話だから確かである。

 ジュチの頭の中ではアゼルからこの話を聞いた時点で、既に終わったこととして片付けられていた。上手くアゼル達がコトを処理し、これ以上の揉め事に発展する可能性は低く、また目下最大の危機である《子殺しの悪魔アダ》が蔓延した感染源であるとも考え辛かったからだ。


(だけどもしそうじゃなかったとしたら?)


 もしも過去のジュチが疑ったように《悪魔》はボルジモル族の方から忍び寄ってきていて、ボルジモル族もカザル族同様に《悪魔》の脅威に晒されていたのならどうだろう。彼らはカザル族以上に貧しい部族だ。自然と備えは少なく、受ける被害も大きいだろう。

 そしてその推測を補強する知識がジュチの中にあった。


! もしかして馬たちが《悪魔》の取り憑く媒介になってたのか!?)


 人畜共通感染症。人と畜獣の双方が感染し、互いに感染源となりうる病である。

 《悪魔》の感染源は人ではなく混ざり合った両部族の馬群だった。こう考えれば突然悪魔の蔓延が始まったことにも納得がいく。馬群は個々の家族ではなく、部族全体の馬たちをまとめた群れだ。放牧後にはそれぞれの持ち主たちの元へ戻されるから、そこから一気に部族全体へ広まったと考えられる。

 恐ろしく強引な仮説だがそうと考えれば辻褄が合ってしまうのだ。つまりは、


「《悪魔》に襲われて困窮したボルジモルの連中がやけっぱちになって俺たちを襲ってきた…?」


 下らない邪推と片付けるには、この草原の大地は物騒すぎる。面子や困窮、些細ないざこざ。あるいはもっと下らない、どうしようもない理由でも戦は起きる、起きてしまうのだ。この辺土に生きる者たちは実体験としてそれを知っていた。


「ジュチ、なにか思いついたことがあるなら言え」

「……分かった」


 悩まし気な顔を見咎められたのだろう。モージに問いかけられ、一呼吸分だけ迷うがすぐにこの思い付きを伝えることにきめる。この時点ではあくまで推測の段階だが、と前置きをした上で自らの考えをざっとだがモージへと伝えた。


「ふーむ…」


 ジュチの推測を聞かされるとその顔を険しく歪め、少しの間思案に耽るモージ。だがすぐに決心したように顔を上げると、部族の戦士たちへ矢継ぎ早に指示を出しているソルカン・シラへ近寄り、ボソボソと言葉を交わした。

 モージと顔を突き合わせて短いやりとりを終えたソルカン・シラの眼光が一瞬炯炯と危険な光を宿し、部族の皆に聞かせるように声を張った。


「皆よ、聞け! モージが言うに、ボルジモルの彼奴等もまた子らを《悪魔アダ》に憑りつかれたのだ! それ故に困窮し、我らの財産を奪い、我が物とするために奴らは弓矢を取ったのだろう!」


 困惑が渦巻く部族の者たちにソルカン・シラが語る言葉が少しずつ染み透っていく。全員の間で腑に落ちたような空気が共有され、次いで少しずつ怒りの気配が湧き出てくる。そしてソルカン・シラはそれを宥めるのではなく、煽り立てる方向へと更なる言葉を重ねていく。


「しかもだ、我らを襲う《悪魔》は過日の騒動でボルジモルの者どもから齎されたものである! 喜べ、復讐の機会を奴ら自らが差し出しに来たぞ! 天神テヌンも我らに微笑んだ、アゼル達がいち早く彼奴等に気づき、警告に現れたのもその顕れである!!」


 ジワジワと感情のボルテージが上昇していく。熱気が周囲に立ち込め、老いも若きも、男も女も怒りを込めて拳を握りしめた。


「馬に乗り弓矢を取れ、男達よ! 女たちは戦に備えよ! 急げ、時間はさほど無いぞ!」


 その瞬間、喚声が爆発した。応、と部族の老若男女全てがソルカン・シラの檄に応えて天へと拳を突き上げ、大声で咆哮したのだ。

 みな《悪魔》に憑りつかれた子供たちを見守る日々に鬱屈とした思いを貯めこんでいたのだろう。それを爆発させるキッカケを与えられた人々はいっそ狂騒と表現するのが適切なほどに荒れ狂っていた。


「モージ、あれは…!?」

「騒ぐな。皆に聞かせてはならぬ」


 だがジュチはその狂騒から取り残され、困惑の声を上げた。あくまで思い付きに過ぎない考えをさも確定した事実であるかのように演説でぶち上げられれば自然な反応だった。


「どの道戦は避けられぬ。ならば皆にを与え、存分に力を発揮させることこそ部族を導く者の務めだ」

「……」


 確かに、とモージの語る理屈に理性では理解を示す。何らかの行き違い、誤解ではないかと困惑と迷いを抱えたままでは弓矢を取る手は定まらないだろう。だがジュチのこねくり回した理屈が皆を戦に駆り立てるきっかけとなる事実にどうしても気後れしてしまう。結局のところ、前世でも今世でもジュチに戦争へ赴いた経験が無いための戸惑いだった。


「お前の知識を我らが良いように使っただけのこと。お前が責任を感じる所以は何一つとしてない。深く考えないことだ」

「……ああ」


 きっとで悩む時点で草原の男からすれば異端なのだろう。だが少なくとも今すぐに迷いを振り捨てることは少年には出来なかった。

 そんな風に少年が懊悩を抱えている間も迫りくるボルジモル族の脅威への対処はノンストップで進んでいく。


「族長、俺が男衆を纏め奴らを迎え撃つ。貴方は他の者たちを纏めて戦場から遠ざかる指揮を―――」

「アゼルよ。生憎だがお前には別の役目がある」

「……いまなんと? 《狩人》たる俺に別の役目を果たせと言われたか?」

「然様。お前にしか果たせぬ役目だ。《悪魔》を討つための、部族の命運を賭けた役目だ」


 《狩人》とは部族全体の狩猟、戦争を指揮する地位を指す。いままさにその職責を果たすべき地位にあるアゼルへ別の仕事があると告げれば困惑と怒りを示すのは当然の成り行きだった。


「詳細はモージに聞くが良い。すまぬが《狩人》の役割はこのひと時は私が預からせてもらう」

「馬鹿な!? 如何に族長と言えどそのような無体な話があってたまるか!」

「お前の武勇を頼れぬのは痛手だが、最早奴らにかかずらっている時間さえ惜しいのだ。行け、アゼル。お前にしか果たせぬ使命がある。部族の子らの命運、お前に預けたぞ」


 声を荒げるアゼルにも怯むことなく淡々と言葉をかけ、目線でモージとジュチを示す。その視線の先を追ったアゼルは訝し気な気配を隠さないものの、敢えてそれ以上逆らおうとはしなかった。


「……それが族長の命ならば従おう。《狩人》の位を一時返上させて頂く」

「うむ。《狩人》の位、お前が戻ってくるまでの間は私が預からせてもらう」


 周囲が見る中で指揮権の移譲は恙なく完了した。突然の出来事に周囲も困惑が隠せないが、ソルカン・シラが指揮を執るならば大した混乱も起こらないだろう。


「ではボルジモルの一党の始末はお任せする。さして数は多くないようだが、どうかご油断なされぬよう」

「なに、雲雀を追い散らす程度、この老骨であってもどうにかこなせようさ」


 一見好々爺にしか見えないにこやかな笑みの中に一筋、危険な気配が混じる。それは部族きっての若武者が一瞬気圧されるほどに凶悪な殺気だった。


「……には無用の心配であったようだ。では俺は俺の仕事に取り掛からせて頂く」

「頼む」


 普通戦の直前に指揮権を移譲するなど混乱の種にしかならない。それを危惧したアゼルの忠告であったが、ソルカン・シラが返した無言の回答に思わず苦笑が滲んだ。流石は先代狩人、流石は部族一の勇者と。

 常識的に考えて当然の危惧だったが、ソルカン・シラに限っては話が別だ。部族の縄張りの地理も、男達を一個の軍へと纏め上げる器量も十分すぎるほどにある。

 なにせソルカン・シラは先年狩人の位を継承したアゼルよりもはるかに長くその地位に在り続け、周囲の脅威から部族を護り、時に打ち倒し続けた部族きっての勇者なのだから。

 後ろ髪惹かれる思いをきっぱりと振り切ると、アゼルは足早に部族の長老の元へと赴いた。


「モージ、俺が成すべき仕事について、どうかお聞かせ願いたい」

「よく戻って来た。お前の帰還を待ちわびていたよ」


 と、問いかけに応じたモージが素早く、しかし要点を射た説明を述べる。旅慣れない子どもを連れて精霊の山へ向かい、闇エルフとも交渉し、特別な霊草を採取して戻ってくるという大難事。普通ならば無謀だと切って捨てるのが当然のに対し。


「承知した」


 と、短く承諾の一言だけを返した。傍で聞いていたジュチがあっけにとられるほどの潔さだった。


「詳しく話を聞きたい」


 と、更にそのまま遅滞なくマナスル、《天樹の国シャンバラ》へ向かうにあたっての旅装や道程について問いかけ始める。流石は遠隔地への放牧で旅慣れた騎馬の民と言うべきか、ジュチはもちろんかつて《天樹の国シャンバラ》への旅を踏破した経験のあるモージが感心するほど的を射た問いかけばかりだった。


「……叶うならばもう少し時間が欲しかった、が。これも天神テヌンの思し召しであれば是非もないか」


 と、呟く。


「モージ、旅支度の用意に感謝する。ジュチよ、これから共に向かう旅路はお前が思う以上に困難な道程だ。生半な覚悟で進むことは能うまい、心変わりをするならば今この時をおいて他にはないぞ」

「知ってる。その上で言うぜ、絶対ヤだね!」

「……なるほど」


 それなりに圧をかけた問いかけに返された生意気な子供の虚勢にフ…、と笑いを零し。


「確かにこれは貴女の息子だな、モージ。随分と鼻っ柱が強い」

「どういう意味だい? ん? 言ってみな」

「ハハハ、部族一の賢者に俺如きの言葉など必要ないだろう?」


 笑う、つまりは一番おっかない状態のモージの怒りを平然と躱した。義母の恐ろしさを骨身で知る少年がアゼルすげえ、と素朴な尊敬を抱いた瞬間である。


「一度口から出した言葉を違える者を俺は男とは認めん。ジュチ、例えこの旅路がお前の身に余るものだとしても、最早弱音を吐くことは許されないと知れ」

「……応」


 だが先ほどの問いかけに倍する圧力をかけられ、応じる声も流石に緊張したものとなった。


「その上で旅路とは仲間同士助け合うものだ。俺の力が必要ならば言え、俺もまたお前が必要ならば声をかける」

「応!」


 そしてもちろん委縮したままでいるような可愛げをこの少年は持ち合わせていない。すぐに気を取り直すと、直前の返事と同じ言葉で、直前よりもずっと威勢よく応じるのだった。

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