永遠の花


(死にてぇ…)


 ツェツェクが《悪魔アダ》に憑かれた事実が明らかになって一晩が経ち、どん底まで落ち込んだ気分で起床したジュチ。

 目を覚ました少年を真っ先に迎えたのは目元に隈を浮かべながら眼光だけは爛々と輝かせるモージだった。正直寝起きに見たくないくらいには怖かった。


「ジュチよ、《精霊の山マナスル》へ向かえ」

「何言ってんだ。ボケたのか、モージ」


 間髪入れず返した暴言に応じて手が霞むほどの勢いで平手にはたかれ、ジュチの軽い頭はスパーンと快音を鳴らした。


「相変わらず礼儀の知らん小僧め…!」

「そっちこそ手の早さは前以上じゃないか」

「なにを…?」

「なんだよ…」


 にらみ合ってやや険悪なやり取りを交わす二人だが、どちらからともなく視線を外した。普段ならば冗談混じりに交わすやり取りであるが、大切な家族が倒れた二人は互いを気遣えるほど余裕がなかった。

 息を吐いて一緒に怒りも吐き出したモージが真剣な表情で語り掛ける。


「ツェツェクを助けるためだ」

「!? それを早く言ってくれ」

「言おうとしたところで貴様が話の腰を折ったんだ」

「う…」


 ここぞとばかりに睨みつけられて怯む。全くの正論であった。


「お前は《精霊の山マナスル》についてどれほど知っている?」

「《精霊の山マナスル》って言ったら…ちょっと待った、えーと……アレだろ?」


 ジュチが腰を上げて天幕の入り口にかかる毛氈フェルトを脇によけ、ひょいと指さした、ジュチらカザル族が縄張りとする大平原西部のほぼ全域からその雄姿を眺めることが出来る雄大な霊峰こそが《精霊の山マナスル》。すなわちシャンバル山脈最高峰に連なる大霊山である。

 当然成人も迎えていない少年が挑めるような代物ではない。登頂を踏むどころか、真夏に山壁を横断した者を勇者と呼んで称えるような特級の難所だ。


「《精霊の山マナスル》に登れとか死んで来いって言われてるようなもんだと思うんだけど」

「戯け、誰がと言った。私はと言ったんだ」

「……ああ、なるほど。で、目的地は?」


 一呼吸分ほど時間をかけて微妙なニュアンスの違いを汲み取り、改めて問いかける。


「《天樹の国シャンバラ》…辺土の霊峰に根付いた闇エルフ達が住む山の上の王国だ。正確にはその端っこにある《精霊の山マナスル》だが」

「フィーネ達の…? 昔話で聞く、あの御伽の国か…」

「御伽噺などではない。大分誇張が入っている部分もあるが、語り部が語るのはれっきとした事実ばかりだよ。」


 この辺りに住む部族の子ども達は闇エルフ達についてまるで御伽噺のように昔語りを聞いて育つ。語り部たちが話す闇エルフは闇に潜んで獣を狩り、山から黒鉄クロガネを掘り出す。気性は偏屈で血を好み、天神テヌンではなく天に届くほど巨大な大樹に祈りを捧げるという。高山帯であるこの一帯に巨木と言えるほどの木は育たないから、最後の言い伝えは恐らく間違いだろうとジュチは勝手に思っている。

 《天樹の国シャンバラ》の住人であるフィーネにはもっと話を聞いておけば良かったなと今更ながらに思う。きっとためになっただろうし、何よりとても面白かったはずだ。


「昔から外部とほとんど交流のない国でねぇ。確か邦長クニオサが各々の集落を治め、邦長クニオサ妖精王フレイ・イン・フロージが緩やかに纏める形で国を率いていたはずだ。

 民の気質は閉鎖的で血統主義、おまけに余所者には警戒心が強い。だが奴らの礼儀を知る者には一定の待遇で応じるし、蓄えた智慧は私などよりもよほど深く広い。気に入らぬところ、反りが合わぬところも多いが、大した国であることは間違いない」

「モージはそこに行ったことがあるのか?」


 自分の目で見たことがあるような言葉に思わず問いかけると。


「若い頃に一度な」


 と何でもないことのように頷かれた。おお、と思わず感嘆の声が漏れ、好奇心がうずうずと疼き出す。

 騎馬民族というと根無し草のような自由に移動する漂流生活を想像するが、実際のところは決まった縄張りの群営地を季節ごとに巡る回遊生活と言った方が実態に近い。緑の絨毯が地平線の果てまで続く大草原であっても、其処に住む騎馬の民は意外なほど縄張り意識が強いためだった。さながらパズルのピースのように、縄張りの境界は曖昧に重なり合いながらもきっちりと区切られていた。

 故に騎馬の民は外部から思われているより行動範囲は限られる。そこに闇エルフの王国、天上に築かれた妖精達が暮らす御伽の国などという好奇心がくすぐられるワードを目の前に垂らされれば食いつくのは自然な成り行きだろう。今が非常時でなければ目を輝かせてモージから根掘り葉掘り聞きだしていたはずだ。


(《悪魔》さえいなければな…)


 これまでとは全く別の理由で《悪魔》に対して腹立ちを抱きながらも、胸に疼く好奇心をグッとこらえて己が取り組むべき事柄について問いかける。


「それじゃ俺は何をしてくればいいんだ?」

「《精霊の山マナスル》はその名の通り、精霊が好む特別な霊峰だ。そこでしか咲かないある花は《悪魔》退治に特効となる霊薬の材料になる。それを採取して来てもらいたい」

「……その花の名前と、特徴は?」

「花の名は永遠の花ムンフ・ツェツェク。闇エルフ達は高貴な白とも呼ぶらしい。一度見れば忘れられない純白の花弁を持つ、美しい花だ」

「ツェツェクと、同じ名前か…」

「逆さ。あの子の名は永遠の幸せを願って、あの花から取った。ま、あの子の名前自体はありふれたものだからこれまで由来を話す機会も無かったがね…」

「…………」


 フ…、と僅かな刹那、モージは過去に浸るような遠い目を見せた。ぶっきらぼうな態度に反して意外なほど愛情深い彼らの養母が見せた回顧の念にジュチは軽々しく相槌を打てず、ただ沈黙を守る。

 数瞬訪れた沈黙の後、かぶりを振ったモージが話を再開した。


「過去のことは良い。お前も聞きたいことがまだまだあるだろう?」

「……ああ。何故俺なんだ? 俺よりももっと旅慣れて、腕の立つ奴は幾らでもいるだろう。やっぱりフィーネが関係してくるのか」

「理由は二つある。一つ目、永遠の花ムンフ・ツェツェクはマナスルの極めて峻嶮な岩壁に根付く。私が知っている群生地ははっきり言って人が登れる代物じゃない」


 それではどうしようもないだろう、と普通ならば食って掛かるところだがジュチはピンときた。


「だから大角エウェルに乗れる俺なのか」

「その通り。本来なら私が行きたいところだが、皆を診る役目を疎かにするわけにはいかぬでな」


 山羊である大角エウェルが持つ登攀とうはん力は人間を大きく上回る。彼らは岩璧に僅かな罅や突起などの取っ掛かりがあれば、例え垂直に近い角度でもと登り詰めてしまう達者なのだ。


大角エウェルではないが、かつて私自身が相棒を頼りに岩壁を登り詰め、かの霊草を摘み取った。困難ではあるが、不可能ではない」


 頼りになる言葉によし、と手を握り意気を高めている少年。だがその燃えるような気合いに水を差すように、モージは冷静な声で続けた。


「二つ目、察しているようにお前が友誼を結んだフィーネなる妖精族の少女だ。はっきり言えばお前が彼女と縁が無ければこんな博打を打つことすら無かっただろう。勝ち目のない博打に張り込むほど馬鹿らしいことはない」

「と、いうと?」

「……あそこはとにかく閉鎖的で厄介なお国柄でねぇ」


 過去を思い返すような沈黙を挟んだ、心なしか苦い口調での呟きだった。


「どれくらい?」

「一概には言えんが……仮に何の伝手もないまま、国境へ向かえばたちまち囲まれて弓を向けられてもおかしくない。私も過去一度訪れたことがあるとはいえ大分昔のこと。伝手などとうに消えていようしな」

「どうしてそんなに外から来る奴らに厳しいんだ?」

「奴らは縄張りを見知らぬ輩がうろつくのを特に好まんのだよ。彼奴等が生み出す産物の多くは遠方からでも求める者が後を絶たぬ。黒鉄クロガネ造りの工芸品に絹、《魔獣》の馴致技術…まさに宝の山よ。加えて闇エルフ達は見目も良く、いつまでも若い。盗みたく、攫いたくなるのもたくなるのも頷けると言うものさ。

 欲望にそそのかされて悪心抱く者も一人や二人では済まん。奴ら自身がごまんと富を生む手腕に長けていながら内に籠りたがるのはそのせいだ。奴らとの交易はごく限られた者しか許されず、国内に足を踏み入れて無事で済む者は少ない」

「ダメじゃん」

「そこでお前がフィーネから授かった懐剣の出番だ」

「これが?」


 と、肌身離さず懐に忍ばせている懐剣に触れながら言う。


「ああ。この際だから話しておくが、フィーネは恐らく妖精王の系譜に連なる王族だ。それも現王直系の王女である可能性が高い」

「うっそだろモージ」


 あの天真爛漫で頭の中身が軽そうな少女が一国を代表する高貴な身分とは…。

 モージがいい加減なことを口にするとは思えないが、それでも信じがたい話だった。


たわけ。冗談でこんなことを言えるものか。念押しするが他の闇エルフ達がいる前で貴族の姫を相手に軽口を叩けば下手をすれば捕らえられるか矢を向けられてハリネズミになるぞ」

「……気を付けるよ」


 正直まだ信じられないものの、忠告はしっかり受け取ったことを示すために頷く。


「その懐剣に彫られた紋章は《天樹の国シャンバラ》の国章だ。お前があちらの貴族階級にある者と友誼を結んでいる証明となる。闇エルフ達に懐剣を見せればそう無下には扱われまい。

 奴らは排他的だが一度懐に潜り込めばまるで身内へ接するかのように手厚く遇する一面もある。其処から先は……もう臨機応変にとしか言いようがないね」


 ほへー、と感心したような声を漏らす呑気な養い子に不安を募らせるモージ。

 試すか、と心の内で決断し、いつもの何倍も厳めしく、威厳のある声を出した。


「ジュチよ、よく聞け」


 張り詰めた空気を纏うモージがそう切り出す。するとス…、と眦を鋭くしたジュチが応じるように身を正した。


「既に悟っているだろうが、この旅は決して楽なものではない。《精霊の山マナスル》へ辿り着くまでに数多の危険を掻い潜らねばならぬ。険しい山道は弱者を容赦なく振り落とすだろう、道中に潜む獣どもは狡猾だ。お前を千里付け狙い、隙を見せれば瞬きの間に命を落とすと思え」


 どこか脅すように、諭すように低い口調で旅路に潜む危険について語り聞かせていく。


「先ほども語ったように闇エルフ達は己の縄張りを侵す者に容赦がない。懐剣があるとはいえ、どれほど頼りになるかは実際に試さねば分からん。一手対応を間違えれば即ち身体に風穴が開くと心得よ。何よりも彼奴らは我ら騎馬の民すら上回る弓達者。加えて山岳の陰に潜み、谷を峰を縦横無尽に踏破する手練れ揃いよ。その縄張りで奴らを怒らせ、生きて帰った者はいないと聞く」


 長広舌を連ねて、闇エルフの脅威が語られる。老女の気性を考えれば恐らく多少の誇張はあれど、嘘はないだろう。間違いなく危険な旅路となる。

 不安と恐怖に凡庸な少年の心は揺れた。


「それでも、行くか」


 その揺れ動く心を見定めるかのように鋭く問いを発した。 

 いっそ諦めた方が良いのでは、と怯ませる厳しさを滲ませた問いかけに、


「ああ」


 少年は簡にして単、ただ一言の意思表示を持って応えた。

 恐怖がない訳がない、そして恐怖を乗り越える勇気の持ち主でもない凡庸な少年はそれでも諾と頷いたのだ。


「……そうか」


 それはどこか憂鬱さを含んだ声音での相槌だったが、モージはすぐに気を取り直して話を続けた。元より彼らに許される選択肢はそう多くなかった。


「ソルカン・シラと昨晩話を詰めた。悪魔に憑かれた子らは増え続け、遂にツェツェクまで倒れた。このままいけば早晩我らカザル族の幼子たちの多くは次の季節を迎えることが叶うまい」


 悲観的な予測を敢えて淡々と語るモージ。彼女と共に病床の子らの看病を続けていたジュチも薄々その不穏な未来に感づいていたから、部族の命運を背負う重圧は感じても驚きはない。


「最早一刻の猶予もない。旅装の準備と並行して道先案内人とするためアゼルを呼び出しているところだ。準備が整い次第、お前たちはマナスルへ迎え」

「何故アゼルなんだ? 他の奴らじゃダメなのか?」


 決してアゼルを厭うているわけではなく、時間短縮の意図を持ってかの《狩人》の位を持つ若者を呼び寄せる理由を問いかける。


「アゼルはかつて私とともに天樹の国シャンバラへ赴いた先代族長から薫陶を受けて育った。自然、かの王国へ向かう旅路や闇エルフ達の風習に詳しい。奴の力が必ずやこの旅に必要になるだろう」


 老女の説明になるほどと頷く。住みつく地域に人種すらも違うのだから、文化や風習が異なるのは当然だろう。特に今しがた散々聞かされたように闇エルフは排他的で一筋縄ではいかない種族だという。

 間違いなく危険だ。そしておそらく頭で理解できる程度の危険など、現実として降りかかる困難の一端でしかないのだろう。そうと知りつつジュチは精々不敵に見えるようにニヤリと笑った。尤も幼い見た目もあって良く言って小生意気な悪ガキの笑みだったが。


「でも行くよ。なあに、飛竜に追われたって生きて帰れたんだ。闇エルフとやらの国の隅っこにお邪魔するくらいへっちゃらさ」


 飛竜に追われて生き残った悪運、天神テヌンの寵児として目覚めた実績に思春期特有の自意識過剰な思い込みが絡まり合ったから出来る大言壮語。だが偏屈な物言いから想像できないほど家族思いなモージを少しでも安心させるためという思いもまた嘘はなかった。

 義息を見て何となくその心情を悟った老女傑は嬉しさと微笑ましさ、不安を渾然一体に感じ取りながら何とも言えない苦笑を漏らした。


「本当ならば私が行ければければ一番いいのだがな…」


 何気なくモージの口から零れ落ちた、やるせなさを感んじる力ない言葉に敢えて軽い口調で応じる。らしくない、といつも矍鑠として豪快でさえある老女へ語り掛けるように。


「おいおい、モージが幾ら見た目よりも元気だからって何でもかんでも自分でやってちゃ後が育たないって。聞いた皆が羨むような大冒険だ、若い俺らに譲ってくれよ。天神だって強欲の不徳でバチは当てたくないだろうからさ」

「こやつめ…大口を叩くものだ!」


 スパーンと再びの快音。

 ジュチは冗談めかして言ったが、実際モージは歳の割に矍鑠としているとはいえ高齢だ。山々を幾つも越えるような過酷な旅路に耐えられないだろう。モージ本人がそれを分かっているからこそ、義息の軽口に応じた平手も八つ当たりの意味を込めて強く、そして複雑な思いを込めて放たれたのだった。

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