賭けに張り込んだモノ


 その凶報が二人にもたらしたのはやはり、という納得と何故、という疑問だった。ツェツェクが《悪魔》に憑かれたところまでは納得できる、だが何故倒れるまで誰も気付かなかったのか。


「モージ、ツェツェクは…!?」

「静かにおし。いま診ている」


 自分が一番可愛がっている義妹が倒れたと聞いて平静でいられないジュチが強い焦りの滲む声をかけるが、応じるモージの声もいつも以上に平静で固い。つまり普段の余裕が見られなかった。それだけ強烈な衝撃がモージを襲っていた。

 《悪魔》に罹患した子ども達の致死率は大よそ三割程だとモージは過去の経験から語った。だが同時に貧しい生活をしていたり、持病を抱えていれば最悪の数字は跳ね上がるという。その点で言えばツェツェクに限らずカザル族の子ども達は決して栄養状態が良好だったとは言えない。十分に起こりうるの予感がジュチの脳裏を過ぎった。


「……間違いない。この子も《悪魔》に憑りつかれておる。我が子が倒れるほど衰弱していたというのに見抜けなかったとは、この節穴が憎らしいわ…!」

『…………』


 血を吐くようなモージの言葉に周囲も軽々しく慰めをかけられない。モージと心情を共有するジュチは爪が掌に食い込むほど握りしめ、自責の念で頭が一杯になっていた。


(気づけたはずだ…! ツェツェクがこの病に罹りうることも、ツェツェクの性格上それを隠そうとすることも…!)


 子供たちの看病に駆け回る二人を見て、家族思いのツェツェクは恐らくこれ以上の負担をかけまいとしたのだろう。咳が出るようならすぐ伝えるようにと言いつけていたが、それを無視した。いや、言い出せなかった。この病の初期症状は軽い。これくらいなら我慢できると思ってしまったのかもしれない。

 だからもし気付けるとしたら自分だった。少なくとも最も子供たちの看病に追われるモージよりも顔を合わせる機会が多かったのだから。ツェツェクと一番繋がりを持ち、何を考えるか想像がつく自分こそが気が付くべきだったのに…!


「あまり己を責めるな、ジュチ」

「モージ…でも」

「戯け、十二の小僧が年長者の私を差し置いて己を責めるなど五十年早い」


 ポンと励ますように頭に手を置いてかけた不器用な慰めにもジュチは唇を引き結んだまま、自責の念を解くことは出来なかった。その姿を見て胸の内だけで嘆息する。


(あの夜語り合った、あるいは現実となるやもしれんか…)


 叶うならば乗りたくなかったハイリスク・ハイリターンな賭けの内容をモージは思い返す。その賭けに負けた時、老女はツェツェクのみならず、ジュチも失うかもしれない。その事実を受け止めると酷く気の重い胸中へさらに憂鬱さが混じり、抑えきれないため息を吐き出すのだった。


 ◇


 数日前、ある夜の一幕。

 部族に《悪魔》が襲来し幾日か経ち、族長家の天幕でモージと族長ソルカン・シラの間で《悪魔》について話し合いがもたれていた。


「モージよ。《悪魔》退治に多大な働きをこなし続けていること、バヤンから聞いている。改めて感謝の意を示す。この通りだ」

「止しておくれ。巫女の務めを果たしているだけだ」

「だとしてもだ。出来ることがあれば何でも言ってほしい。叶う限り力を尽くす」


 《子殺しの悪魔》の名で知られているが、大人でもこの病に罹る事実をソルカン・シラも当然知っている。モージがそのリスクを呑んで誰よりも病に倒れた子供たちの近くに身を晒している勇気を称賛し、頭を下げずにはいられなかった。


「そこまで言うならば、まあ、男衆も精々こき使わせてもらおうかね」

「放牧に出している男衆を除いて残らず呼び戻しているところだ。力仕事ならば任せても良かろう」

「看病なぞは信用できんので任せられんがね。全く男どもの杜撰さと来たら…!」

「男達は外へ向かい、畜獣を肥やすのが生業。天地を相手にする仕事なれば細やかさは求められん。勘弁願いたい」


 捻くれた物言いに苦笑いの混じった言葉が返される。互いに視線を送り合った両者が同時にフ、と苦笑を漏らし合った。気を取り直すように表情を改めたソルカン・シラが、真面目な話題へと切り替える。


「族長として此度の《悪魔》退治の見立てを改めて聞きたい」

「悪くない…。いや、良くはないが思っていたよりもずっといい。南方亜大陸エネトヘグの行商人から仕入れた黒砂糖と我らの牛酪バター、シャンバルの岩塩を適量混ぜて処方した薬膳湯が大分利いたね。量を使った分部族の貯えを随分と費やしてしまったが…」


 ジュチの意見を取り入れ、部族の貯えを惜しみなく使って作り上げたそれは身体の弱った子供でも飲みやすく、高カロリーかつ各種ミネラルと水分をまとめて補給できる高栄養食だった。バター茶とスポーツドリンクを組み合わせたような代物で、慢性的な栄養不足に陥っていたカザル族の子ども達には覿面に利いた。


「子らは明日の戦士であり、母だ。止むを得まい。だが《悪魔》に憑かれた子ども達は増え続けている。いまの貯えで病が収まるまで果たして持つか?」

「……ギリギリ。いや、足りまい。を行わねばならぬやもしれぬ」

巫術ユルールでは何とかならぬか?」

「難しい。元々病の治癒は巫術ユルールの苦手な分野でね…。下手にまじないをかければ悪化することすらある。怪我ならばお手の物なのだが」

「そうか……そう、か」


 フゥ、と二人は示し合わせたようにこの夜で最も重苦しいため息を漏らした。


「口惜しいことだ。もし我らがもっと豊かであれば、救える子らの数も増えただろうか?」

「恐らくは。だがそれは死児の齢を数えるのと同じことだよ」

「そう、なのだろうな。だがどうしても考えるのだ、他に手はなかったのだろうかとな」


 悔いるように自らの掌に目を落とすソルカン・シラ。掌から零れ落ちる命の数を数えているような視線に対面に座るモージも同じように視線を落とした。


「別の手も、無いでは無い…。だがそれは…」


 ほんの数日前までならば不可能と断じ、思考の隅にすら浮かばなかっただろう考え。だが誰もが予想していなかっただろう奇縁が微かな可能性を紡いだ。

 だがモージにとってその腹案は決して無条件で部族を救う福音などでは無かった。


「取る手があるならば聞いておきたい。如何なる風向きに皆を導くかはさておき、向かえる道先の数は多いほど良い」

「……良いだろう。どの道簡単に向かえる道行でもないからね」

「聞かせてもらおう」


 一言断りを入れてからモージが語り始める。《悪魔》退治の特効薬の存在、そしてそれを手に入れるまでに踏破せねばならない障碍の数々。そして最も困難な障害を乗り越えうるかもしれない、ささやかな可能性を。


「――――――。―――――――――、――――――」

「―――…。――、――――――――。――――」

「――、――――――…」


 詳細を聞いたソルカン・シラはしばらくの間、ジッと虚空を見つめたまま思索に耽る。少なくない時間が経ち、やがて一息ついて姿勢を崩した。リスクとリターンの釣り合いを考え、少なくともいまモージの提示した道先へ向かうわけにはいかないと納得したために。


「……なるほど、確かにモージの言う通りだ。失敗すればただ無為に人を失う結果に終わるか」

その道を選ぶならば、ソルカン・シラよ。任にあたうのはジュチだけだ。奴だけが僅かな希望を掴めるかもしれん。だがそれは余りに険しい道行きだ。希望と言えば聞こえは良いが、余りにもか細い光だよ」


 故に軽々しくその道を選ぶべきではない、と忠告する。それこそ部族の宝、次期舞い手であるツェツェクが倒れ、瀕死であるような状況でもなければ…。加えて病に憑かれた者の数が増え続け、許容限界を超えるような状況にならなければ…。一か八かに挑まねばならない状況に陥らなければ、賭けるべきではないと。


「そもジュチだけでは難行に挑むことさえ叶わんだろう。旅慣れた同行者が要る。それも《天樹の国シャンバラ》までの旅路を知る者が望ましい…」

「モージよ、念のため聞くが貴女はどうだ? 一度とはいえかつてかの国を訪ねた貴方ならば」

「足萎えの老人に多くを期待するもんじゃない。今更山を幾つも越える道行きは私には荷が重いさね」

「確かにな」


 呆れたようにモージが言葉を返すと、応じるように苦笑いが一つ零れた。


「だが《天樹の国シャンバラ)へ向かった経験がある者など本当に僅かだ。存命なのはそれこそ私くらいだろう。やはり、難しいやもしれん…」


 そう否定的な見方を示されるが、幸か不幸かソルカン・シラには心当たりがあった。


「……当ては、ある。アゼルだ」

「アゼル? いや、そうか。アゼルは兄御にひと際可愛がられていたな」

「然り。モージ、かつての旅路、貴方とともに挑んだのは…」

「兄御だ。友好から程遠い闇エルフとも体当たりで通じ合う、我が兄ながら不思議な男だった。別れる時には心を通じ合わせ、昔からの同胞はらからのように馴染んでいた」


 今は亡き親族の面影を思い出し、懐かしさに僅かに心を和ませる二人だが、迫りくる現実がすぐに意識を引き戻す。


「我が父にしてアゼルの祖父。叔母御、貴方の兄でもある先代からアゼルは薫陶を受けて育った。奴で叶うかは分からぬが、奴が叶わぬならば他の誰も叶うまい」

「ならば向かうとすればアゼルと、ジュチの二人…。もう一人、誰かしら付けるか」

「厳しい。男手も決して足りているわけではない。部族の男衆を束ねる立場としては、余り長期の間二人の若者を他所に取られるのは辛い」

「ましてやその旅路が危険に満ちたものならば、かい?」

「……言いたくはないが、分の悪い賭けに張り込み過ぎる訳にはいかん」

「皮肉な話だ。恐らくは賭けに張り込んだ少額の財産を、最も重く感じるのはきっと我ら二人なのだろうな」


 二人は再びフゥと深くため息を吐き合った。それは賭けに失敗した時に失われるの重さ。それも部族の行く末を預かる者として、失われる命と親しい者として感じる重さから来る長いため息だった。


「……そのような賭けに踏み切ることが無ければ良いのだがなぁ」

「そのためにもまた明日から働かねばならん。ソルカン・シラよ、貴方もだ。男衆の引き締めは任せたぞ」

「なに、承知しているとも。こう見えて私はそういうのは大得意なのだよ、叔母御」

「ハ…! 失笑すら湧かぬほど知っているさ、我らが族長。戦士殺しのソルカン・よ」

「勘弁してくれんかね。若気の至りという奴だ、それは」


 若い頃のやんちゃを取り上げられたソルカン・シラの頬に苦笑いが浮かぶ。それを見たモージも皮肉気だが楽しそうな笑みを浮かべ、丁々発止とやり取りが続いた。わずかに緩んだ空気のまま、天幕の時は過ぎていく。


 ◇


 そしてこの夜のささやかな願いは成就することなく少年ジュチ青年アゼルははるか北方、黒き妖精族アールヴ達が住まう《天樹の国シャンバラ》へ向こうこととなるのだった。

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