霊験
モージの言葉に応え、己が思い出した前世の知識を一通り吐き出し終えた後、少年の養母が零した言葉は疑問ではなく納得だった。
「なるほどね…まさかとは思っていたが、やはりあたしの子から
それらは全て辺境遊牧部族の最底辺出身の
「……俺がデタラメを言っているって疑わないんだ?」
「ハッ! これだけ良く出来た大量の作り話を捻り出せる頭があんたにあったと考えるよりは、
モージらしい捻くれた物言いに苦笑いを返す。
「
「水も余裕はあるけど贅沢に使えるほどじゃないからね…」
「そういうことだね。あんたの話は理屈が通っているように聞こえるが、そもそも
この辺境北辺の片隅と前世の
水と安全はタダ、などという妄言が罷り通るほど清潔な水をたっぷりと使えた二ホンとは違って、ここは北方のシャンバル山脈。水場の近くに縄張りを抑えてはいるが、水汲みの手間などもあって贅沢に使い捨てられるほどではない。
水を使った手洗いや清拭はそれなりに効果が見込めそうだが、子どもが倒れて働き手の減った一家が水汲みの量を倍にしろと言われても厳しいだろう。似たようなことは他に幾つも思い当たる。
「しばらくあんたは私の傍に付いて看病の手伝いだ。不明なことが出来れば分かるまで問い詰めるから覚悟してな」
「了解」
だがむしろ厳しい見通しを語る老女傑の姿にこそジュチは頼もしさを覚える。前世の知識なぞあったところでジュチ自身は経験の浅い小僧に過ぎない。ジュチが頭を捻って絞り出した知識もいまいち効果に自信と実感が持てない生兵法だ。それらを神託、天啓と鵜呑みにすることなく目の前の現実に合わせて一つ一つかみ砕いて実行に移そうとする地に足の着いた姿勢こそジュチにとって尊敬に値した。
「それでジュチ、あんた自身はどうなんだ?」
「はい?」
「微熱と咳さ。ゾリグ達以外でトヤーと一番多く接した子どもは間違いなくあんただよ。とすれば次に《悪魔》に憑りつかれるのはあんたってことも十分にあり得る話さ」
「ん、今のところ自覚症状無し。とはいえモージの言う通り、俺も感染しているって考えて動いた方が良いかな。それに…」
次の言葉は流石に躊躇いがちに口を出す。ジュチが感染しているならば、同じ天幕で寝食を共にしている二人も当然ジュチから感染している可能性が考えられる。
「モージとツェツェクも、多分もう…」
「だろうね。今は亡き我が師も過去皆を診る中で《悪魔》に憑かれ、一度倒れたことがある。今の私より若い時分だったから私が罹らないという道理は無いだろう」
神妙な顔で静かに覚悟を語るモージ。その眼はただ真っ直ぐに前だけを見据えていた。惹きつけられるようにジュチの視線も前を向く。
「…………」
「気にすることはないさ。老いた者から逝くのが世の摂理…。その摂理を守るためにも《子殺しの悪魔》なんぞを好き勝手のさばらせてちゃいけないね」
《
「可哀そうだがツェツェクはしばらく天幕に一人で籠ってもらうことになるね。ジュチ、お前は欠かさず様子を見に行くんだよ」
「もちろん、任せてくれ」
そう胸を叩いて請け負う。モージが子供たちの看病に手を取られて動けない以上、ツェツェクの面倒を見るのはジュチの仕事だった。とはいえモージの手伝いとの二足の草鞋となれば中々難しいだろう。バヤンにも頼るべきかもしれない。
やがて族長家の天幕が近づいてくるにつれて天幕を出た時の人だかりに倍する人が集まっている光景が目に入った。
「……また人が増えているね」
「
邪魔だね、とだけ呟くとモージは人ごみに近づくや否や言葉通りに彼らを追い散らしにかかる。治療の邪魔だからさっさと自分の天幕に戻れと大声で怒鳴り始めたのだ。老女とは思えないとんでもない大喝だったが、《悪魔》来訪に動揺した人々の不安を鎮めるには一喝では足りなかった。
しばらくの間モージと不安に駆られた部族の者達との間で押し問答が交わされたが、しばらく時間を使うとやがて人々は自らの天幕に向かって三々五々に散っていった。事の経緯と各家の天幕で《悪魔》に憑かれた者が出た時に取るべき行動について説明するだけならそれほど時間は必要ではなかったが、漠然とした不安に襲われた部族の皆が現実を受け入れるまでモージの大喝が再三繰り返されたのだった。
「まったく、一刻も早くトヤーの容態を診なければならんと言うのに…」
「皆の気持ちは分かるからなぁ…」
頭痛をこらえるように額に手を当ててぼやくモージに苦笑を零すしかないジュチだった。明確な対処が出来ない漠然とした不安に襲われた時、人は縋りつく何かが欲しくなってしまうものだ。
そしてツェツェクだが、モージとジュチがトヤーや新たに運び込まれてくる子供たちの看病をこなす間は族長家の天幕から少し離れた場所に再度設営された天幕で過ごすことになった。
「モージ、ジュチ…」
「ツェツェク、聞いての通りだ。《悪魔》に憑かれないよう、天幕に籠って大人しくしているんだ。いいね?」
「私も二人を手伝う」
『ダメだ。絶対にダメだ』
と、二人で声を重ねてツェツェクの申し出を退ける。珍しく強い調子で声を荒げる二人にツェツェクはビクリと体を震わせた。
「でもジュチは…」
「ジュチは恐らくもう病に罹っている。倒れるまでの間ちょっとばかり働いてもらうだけさ」
「なら私も…」
「ダメだ、お前はもしかしたらまだ《悪魔》に憑かれていないかもしれない。それならじっと大人しく天幕で過ごしていた方が《悪魔》が見逃す見込みがある」
「でも…」
「頼むよ。聞き入れてくれ、ツェツェク」
懇願するようにジュチが頼み込むと、ツェツェクは酷く苦しそうに胸を押さえて言葉を絞り出した。
「ジュチ…。でも、嫌だよ。私、二人と離れたくない…。ジュチも、これでお別れなんて嫌…」
「馬鹿言うな、俺が死ぬもんか。
「
「うん…」
ツェツェクは最後まで寂し気にしていたが、最後にはしっかりと頷いたのだった。
◇
そして瞬く間に時間が過ぎ去っていく。日が経つにつれて仮設の救護所として増設した天幕に運び込まれる子どもの数は増えていった。
「今度はバト・バヤルのところの次男坊か…」
「すまないね。私たちももっと手伝えればいいんだが…」
「気にするでないよ、バヤン。皆も日々の仕事があるんだ。とはいえ人手はいくらあっても足りないからね…」
二人が多忙を極めるのと反比例するようにツェツェクと顔を合わせる時間は減っていく。バヤンを筆頭に手の空いた大人が代わる代わる面倒を見、ジュチもまた一日に一度は必ず天幕に顔を出したがやはり寂しそうな顔を隠せない様子だった。その寂しげな様子に心を痛めながらも日々増える《悪魔》に憑かれた子供たちの介抱に少しずつ心の余裕が削れていく。
「きっつい…な」
「ここが踏ん張りどころだ…。皆懸命に《悪魔》に打ち勝とうと頑張っているよ」
弱音を漏らす義息を叱咤するモージの声にも力が無い。だが不幸中の幸いと言うべきだろう。ジュチの知識とそれを生かすモージの智慧が組み合わさり、倒れた子供はいても未だに天に召された子供はいない。
「それにしてもお前だけは倒れる予兆もないね。これだけは私も驚きだ」
「俺が一番驚いているよ。何でだろうな?」
「さてね。
「
二人して首を傾げているように何故かジュチだけは当初の予想を裏切って病に倒れることもなく、朝から晩までモージに付きっきりで子供たちの看病を手伝っていた。これには二人揃って疑問を覚えたが、すぐにそういうものだと受け容れた。たまたまこの病に対して耐性やら免疫やらがあったのだろうとジュチは考え、モージはごく稀だがそういう子どももいないわけではないと経験則からの受容だった。単に気にしている余裕がなかったとも言う。
「……それでも髪を持っていくのは勘弁してほしいけどな」
「小僧っこの髪なんぞが《悪魔》避けの御守りか。中々出世したじゃないか。その内生き神様として崇められる日が来るかもしれないねぇ」
「勘弁してくれよ。お陰で髪の長さはバラバラ、皮膚は引っ張られてヒリヒリするしで散々だ」
モージの揶揄いにブスッとした顔で応えるジュチだが、ぼやくだけの理由はしっかりあった。
《悪魔》が好む子どもでありながら平気の平左で働き続けるジュチに部族の皆は
「なに、人は意外と些細なことでも気持ちが救われるものさ。病と闘ううえで何よりも大事なのは気力だ。病に倒れた者だけではなく、周囲の者もね。そう考えればお前の髪にも確かな霊験が宿っているとも言える」
「……ま、効果があるなら良いけどさ」
痛い思いをした元は取れてるのかね、と養母譲りの捻くれた口調で零すジュチだった。
ちょっとした休憩時間に些細な軽口を交わし合い、せめてもの息抜きにしていた両者だが、飛び込んできた凶報に目を剥いた。
「モージ、ジュチ! ちょっとこっちに来てくれ…!」
「何事だい、騒々しい…!」
「ツェツェクが…!」
耳に飛び込んできた名前に不吉な予感が
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