老女傑と蜥蜴もどき


 夕暮れ時。

 既に山脈の向こう側へ太陽が隠れ、暗闇が忍び寄って来た頃に少年は目を覚ました。目覚めてすぐに自らのすぐそばに置かれたあるものに気づくと、少年は解けない疑問と共に懐にそれらをしまった。


「何があったんだかな…」

「メエエエェ…」

QuAaaクアァァ


 疑問を零すが、答える者は言葉を解さない相棒と珍妙な蜥蜴トカゲもどきのみ。

 声が聞こえた、それは覚えている。どこか音楽的な響きの綺麗な声だった、それも覚えている。視界の端に煌めく金糸のような髪が舞っていた気もする、これは自信がない。顔に至っては恐らく見てもいない。

 誰かがいた、確かなのはそれだけだった。解けない疑問が、顔の無い誰かの存在に妙に胸がざわついた。


「帰るか…」


 しかしそのざわつきを収める術もなく、少年に出来たのはただ一言呟いて帰路に就くことだけだった。

 昼間散々飛竜に追いかけまわされ、疲れた体に鞭打ちながら相棒の山羊エウェルとともに何とか集落へ帰ろうとするその途中。家畜たちの遊牧に出ていた部族の男たちに発見され、手荒いながらも保護されたのは間違いなく幸運だった。

 見るからに疲労困憊といった風情の少年と山羊には水と少ないながらも乾酪チーズが与えられた。そうして人心地付いたところで事情を聴きだされ、結果なんとも判断しがたいという顔をした男たちによって、少年の保護者が住む天幕ゲルにまで連行されたのだった。

 そうして天幕から億劫そうに出てきた老女は男たちから話を聞いてから一言、


「入りな」


 とだけ少年に告げると、矍鑠とした動作でさっさと天幕に戻ってしまう。足取りに淀みはなく、老女とは思えないほどの健脚の持ち主なのだった。

 男たちは健闘を祈るととばかりに少年の肩を叩くとさっさと家畜たちの様子を見に、馬を飛ばしたのだった。

 その行動には元々の仕事に戻るということもあったろうが、それ以上にかの老女に関わるのを避けたに違いない。怒った彼女がとんでもなくおっかないことは部族の誰もが知る事実だった。


「……で」


 低く落ち着いた声が天幕ゲルに響く。天幕の内側では貫禄ある老婆と妙な落ち着きを持った少年が小さなかまどを挟み、真剣な表情で向き合っていた。


「もう一度、言ってみな。どうやら老いぼれの耳は遠くなったみたいだ。誰が、何に遭って、どうなったって?」


 飛竜に襲われ、命を拾った少年に嵐の前の静けさを思わせる落ち着いた語調で問いかけるのは齢六十を迎えようとする老女である。

 老女は少年の属する部族の呪術師を務め、周囲からはもっぱら肝っ玉母さんモージの渾名で呼ばれる老女傑だ。部族の最長老、現族長の叔母という立ち位置も合わさり、部族内でも強い発言力を持つ。

 少年にとっては物心つく前からの養母であり、決して頭の上がらない存在だ。独特の民族意匠が刺繍された遊牧衣装を厚く着込み、天幕の東の上座に鎮座するモージの迫力は見た目以上のものがあった。


「……朝からアレッポの岩窟に花を摘みに出かけた。花は摘めたけど、帰り道に飛竜ドゥークに襲われて、喰われた……と、思ったけど何故か生きてた」


 だが怒れる老女に対する少年もまた幼い見た目に不似合いな落ち着きがあった。訥々と語る姿からは反省はしているが、畏れてはいない。そんな雰囲気が読み取れる。

 少年が自然と醸し出す奇妙な空気に訝し気な目をしつつ、老女は少年の親代わりとしての言葉を紡ぎ出す。


「ジュチ、この大馬鹿め。お前の小さな頭は何のためにある? 崖に向かって突き進む鼠でももうちょっと考えを持っているだろうよ」


 神妙な顔をした少年ジュチへ向ける呆れと怒りがたっぷりと籠った老女の声は落ち着いていながらも辛辣そのものだった。


「あの岩窟はこの辺りで一番の難所だよ。大方エウェルの力を借りて何とかといったところだろう? 一歩踏み外せばあっという間にこの世からおさらばだ」


 彼らの言うアレッポの岩窟は集落からかなり離れた断崖の中腹にある洞穴を差す。洞窟の入り口には珍しい花が咲き、奥に行けば美味な茸の類も取れるのだが、間違っても子供一人が山羊を頼みに挑戦していい場所ではない。

 そして少年の腰帯にはその岩窟でしか採れない花がしっかりと括られていた。飛竜との生きるか死ぬかの遁走劇を経ても、幾らかの花弁は振り落とすことなく持ち帰れていたのである。

 故に少年の言を信じた老女モージの怒りは全く妥当なものであり、ジュチにも返す言葉は無かった。いや、本当に当時の己は何を考えていたのだろうと深刻な疑問を覚えるくらいである。


「挙げ句の果てに飛竜ドゥークに襲われた、だぁ? 阿呆、吐くならもう少しマシな嘘を吐きな!」


 伝法な口調で吐き捨てるモージだが、普段の彼女は不愛想ながらも周囲から慕われる人格者である。だが今はフドウミョウオウとかいうおっかない顔をした神様のようだ、とジュチは思った。

 モージも少年の様子から何かただならぬことが起きていたことは察していた。だからこそ少年が苦し紛れの嘘を吐くのが苛立たしくてならない。

 何故なら飛竜に襲われて人が無事に生き延びた例はほぼ無い。それが幼い少年なら尚のことであった。少年の証言は到底信じられるような内容ではなかったのだ。

 しかも衣服の汚れや身体の傷も元からなかったかのように消えており、それが一層少年の言の信憑性を損なっていた。少年自身目が覚めた直後はそれこそキツネにつままれたような気持だったのだ。飛竜の吐息が山肌に刻んだ傷跡がなければ、白昼夢を見たのかと半信半疑に納得したかもしれない。


「嘘じゃない」

「ジュチ、いい加減に…!」

「モージ、本当なんだ」

「馬鹿を言うんじゃない。飛竜に狙われて逃げ切れる獲物なんて西方辺土を逆さに振っても出てきやしないよ」


 経験に裏打ちされた言葉であり、実際にその脅威を体感した少年もまったくもって同意見だった。

 羆すら凌ぐ巨体から振り出される膂力、その吐息はひと一人を容易く丸焼きにするだろう火力を誇り、始終冷静に獲物ジュチを観察し、対応し続けたことから相当に高い知性を持っていると推察される。しかもあの巨体で空を飛ぶという反則的な能力まで持ち合わせているのだから、かの魔獣こそ竜骨山脈の覇者と主張しても殆ど異議が出ないであろう。

 言葉では説得出来ないと悟ったジュチは、懐から物証を取り出し、モージに差し出した。最初はいぶかしげなモージであったが、手にしたそれに目を落とすと途端に血相を変えた。


「これは…!?」


手渡したのは真っ赤な布に加えて砂金の粒。ただし布切れの方は真紅がまだらに広がっており、未だに鉄錆に似た匂いを振りまいている。砂金もそうだが、まず布切れを汚した真紅の正体にモージの意識は集中した。


「血だね。それも結構な量だ。額でも割ったのかい?」

「頭を打ったところまでは覚えているけど、起きたら。代わりにコメカミ辺りにそれが巻かれてたよ。その粒は俺の手の平に握らされていた」


 方形の小布……形状から見るに手巾ハンカチだろうか。赤色のまだらのせいでなんとも不吉そうだが、よくよく調べると手触りは極上。見た目も何とも言えないぬめる様な光沢があり、妖しさを覚える程に美しい。


 (……なんだったっけ。覚えがあるような、ないような)


 とはいえジュチはシャンバル山脈から離れたことのない生粋の田舎者だ。羊毛製の布以外を知るはずがない。ならばに蘇った、見知らぬはずの記憶がこの既知感の源泉か。

 あの走馬燈の中で見た光景は少年の頭脳に深く焼き付けられ、知らないはずの知識が頭蓋の中に山ほど詰め込まれていた。その影響か、少年自身の精神年齢も著しく上昇し、結果として年齢不相応の奇妙な落ち着きを備えるに至っていた。


(二ホン……だったっけ)


 おぼろげな記憶を探り出し、あの奇天烈な光景に溢れていたクニの名を脳裏で呟く。


(あれが前世……ってやつなんだろうか)


 この大地にも死んであの世に還った霊魂がこの世に何度も生まれ変わる、いわゆる輪廻転生の概念は存在する。走馬燈で見た光景の出どころは前世の記憶であるという考えはこの山脈と草原にまたがる西辺の大地に生きる無学な少年にも馴染みやすく、納得のいく結論であった。

 とはいえ、今の段階では少年をよく知るモージが多少訝しむ程度の変化であり、頭蓋に溜め込まれた知識もなにがしかのきっかけが無ければ中々思い出すこともない。今のところは毒にも薬にもならない代物であった。

 一方でその生涯で深く智慧を蓄えた老女もまた、なにやら差し出された物品を見てなにがしかの考えを巡らしているようだった。


「砂金粒は街に持ち込めば結構な値が付く。この手巾もよくよく見てみれば生地が普通じゃない。少なくともこの辺りで出来るもんじゃない。かといって南や西の方からたまに流れて来る麻や綿でもない……。お馬鹿の傷のこともある」


 可能性を一つ一つ潰していくように呟いている。しばらくの間モージはジッと血に濡れた手巾を眺めていたが、やがて得心したように頷いた。


「……どうやら、お前の言うことは信じていいらしい。滅多にないことだが、山の奥から飛竜がこの辺りまで迷い出たんだろう。とはいえわざわざ長居するとも思えないが……念のため、皆に伝えておくかね」


 話を打ち切るように結論を下すモージだったが、今のジュチにはあまりに一足飛びに話が飛んだように聞こえた。飛竜のことはさておき、手巾の存在について何も説明されていない。

 いや、恐らくモージは敢えて話を飛ばしたのだろう。年老いた賢女は幼い少年が知らない知識を持っており、その上で今の結論を下した。そしてそれ以上のことを少年に伝える気がないのだ。

 両者の立場を考えれば妥当な対応であり、いまこの場で食いついても養母の機嫌を損ねるだけで何の得もないと計算を働かせ、ジュチは沈黙を選択した。昨日までの少年であれば素直に口に出して雷を落とされていただろうが、いくつも段階をすっ飛ばして精神年齢が上昇しつつある少年は世渡りや処世術と呼ばれる術を拙くも身に着けつつあった。

 そうした養い児の気性を知悉しているのだろう。モージは予想よりも大人しいジュチに不可解な面持ちをしていたが、わざわざ問いただすようなことでもない。すぐに気を取り直すと、少年に愚行の報いを与えた。


「馬鹿な真似をした罰だ。当分お前の分の朝餉は抜きだよ」

「……ちょっ、そんなことになったら俺が死ぬんだけどっ!?」

「やかましい。自業自得だよ。これに懲りたら勝手に命を投げ捨てるような真似は慎むんだね」


 さして裕福でもないこの部族では食事は当然朝と夕の2回だけだ。出される食事の量も決して多くはないのにそれが半分になるというのは、飢えて死ねといわれているのに等しい。血相を変えた少年の反応をしばし伺った後、モージはゆっくりと言葉を継いだ。


「それとしばらくの間は族長の天幕ゲルで『白い食べ物ツァガーン・イデ』を作るのを手伝ってきな。これも罰だ、怠けたら本当に飢え死にさせるから覚悟しておくんだよ」

「…………。あっ」


 ふた呼吸ほどの間、養い親の言葉の意味を考え、その言葉の裏を悟ると安堵から間抜けな声を漏らした。

 モージの言う『白い食べ物ツァガーン・イデ』とは家畜から搾った乳を加工した乳製品の総称であり、加工する過程で保存が利かずその場の人間だけで楽しむしかない食べ物もそれなりにできる。

 要するに抜いた朝餉の分は族長の天幕ゲルの仕事を手伝うことでそれらの食べ物を何とかして譲ってもらってこいということであり、モージが話を通しておくと言っているからには何らかの配慮はしてくれるだろう。

 もちろん罰であるのだから手を抜けば本当に餓死の恐れもあるが、モージのを生まれた頃からよく知っている身としては彼女の堪忍袋の緒の限界に挑む愚を犯すつもりは毛頭ない。

 思わず安堵から胸を撫で下ろしたジュチだったが、異様なほど察しが良い養い児の様子にモージは相当な不信感を覚えたようだった。

 ジッと見つめてくる養母に気まずげな思いが過ぎったが、今日己の身に起こったことをうまく説明できる自信がない。中途半端に信じられては逆効果となるかもしれなかった。

 そのまましばらく無言の時が流れたが、やがて目を瞑ったモージがフンと鼻を鳴らしたことで気まずい沈黙は晴れることになった。


「……ツェツェクを外に迎えに行ってきな。姿を見せないお前のことを随分と心配していたよ」


 目に入れても痛くないほど可愛がっている義妹の名が出ると、少年は弾かれた様に動き出した。気まずい空気から逃れたかったのもあるが、それ以上に義妹と言葉を交わしてその不安を晴らしてやりたかったのだ。

 ゲルの垂れ幕を潜って外に出ていこうとする少年の背中に老いた義母が声をかける。


「———ジュチ」

「? なに?」

「よく、帰ったね。……それだけだ、さっさと行きな。この馬鹿息子ロクデナシ!」


 前世的知識で言うを見事に披露してくれた義母に感謝と親しみの籠ったやや意地の悪い忍び笑いを漏らしながら少年は足を早める。

 そしてその途中でピタリと立ち止まり、養母に振り返ると出し抜けに問いを発した。部族で唯一の呪術師、最もその道に長けていそうな老女ならばとささやかな期待を込めて。


「ところでさ、モージ」

「なんだい」

「これ、見える?」


 肩のあたりを指差して問いかけるとモージは馬鹿を言うんじゃないとばかりに鼻を鳴らした。


「訳が分からない冗談を言っている暇があったらさっさとツェツェクの前に顔を出してきな。さもなければ今日の夕餉も抜いてしまうよ」

「……そっかー。そいつは困ったなー」


 どこか乾いた口調で相槌を打つ少年が改めて自身の肩を見ると、そこにはふてぶてしいまでにリラックスした火蜥蜴がうつらうつら舟をこいでいる姿があった。

 ジュチにははっきり見えるし鳴き声も聞こえるのだが、何故かこれまで会った部族の皆は無視するばかり。業を煮やしてジュチから問いかけてみても不可解な面持ちを返されるだけ。

それでもこの呪術師にして老賢女ならば何か存在の片鱗でも悟ってくれるのではないかと期待をしていたのだが、やはり返ってきたのは皆と変わらない反応だった。

 置き去ろうが追い払おうがいつのまにかジュチの周囲にシレッとした顔をして居座っているこの珍生物について相談したかったのだが、そもそもその存在を誰も認知してくれない。これでは相談しようにも誰も真剣に取り合ってくれないだろう。

 別段害意があるようでもないし、もう放っておいた方がいいのだろうかという諦観の念に支配されつつもやはりこの火蜥蜴の正体が無性に気になって仕方ない。

 意味が分からないと言うかこうなった経緯すら分からないが、どうにもよく分からないモノに憑かれてしまったようだった。

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