ツェツェクという少女


 太陽が山々の影に隠れつつある頃、暗闇が覆いつつある草原に向けて足を進める。

 そこには羊と向かい合って遊んでいたのだろうか、夕日に照らされて長い長い二つの影がこちらに向かって伸びてきていた。

 その少女の後姿を見ると、ああ、帰ってきたのだとジュチの胸の内に感慨が一気に湧いてきた。少年にとって彼女こそが家と日常の象徴だった。


「おーい!」


 今少し距離が二人を隔てていたため、注意を惹くために大声を上げた。

 振り返った幼い少女が目を細めてこちらを見ると、やがて寄ってくるジュチを認め、遠間からでもわかるほどパッと顔を明るくし、大声を上げた。


「ジュチー!」


 ブンブンと両手を頭の上で勢い良く手を振るのは十二歳の割に痩せたジュチよりもさらに幼く、小さい少女だった。素朴だが可愛らしい顔立ちで、その笑顔は子供らしい天真爛漫な明るさに満ちている。周囲から自然と可愛がられる愛嬌があった。

 そして手を振るだけでは収まらず、ぐんぐんと勢いよくこちらに駆けてくる。そのまま走り寄ってくる勢いを殺さずに真っ直ぐにジュチに向けて突っ込んだ。

 突っ込んでくるのが体重が軽い少女とはいえ中々の衝撃だったが、走り寄ってくる姿に心構えをしていたこともあり、なんとかその勢いを抱き止めて抑え切った。

 少女はそのままえへへと無邪気に笑み、抱き着いたジュチのお腹にぐりぐりと頭をこすりつけ、全身で親愛の情を表してくる。その様子は人懐っこい子犬さながらだった。

 対するジュチもしょうがないなと口だけは仕方なさげだが、口元は言葉に反するようになんともだらしなくやにさがっている。

 この人なつこく幼い少女こそ、ジュチの義妹ツェツェクであった。


「どこ行ってたの? わたし、ジュチがいなくて寂しかったんだよ」


 ひとしきり体を触れ合わせてしっかり堪能したあと、ツェツェクは若干の不満を込めた非難を義兄に向ける。対するジュチは今日の自分が大いに馬鹿をやった自覚があり、義妹にあまり強く出ることが出来ない。


「……んー。ちょっと野暮用があってな?」

「やぼよー?」


 難しそうに首を捻るツェツェクに思わず苦笑する少年。正体不明の膨大な知識に目覚めつつある義兄と違って彼女は見た目通りの幼子おさなごであるため、語彙がまだまだ足りていないのだ。


「ちょっと行きたいところがあったんだ。ああ、そうだ。それにお土産があったんだった」

「お土産? なぁに?」


 子供らしい舌っ足らずな声音でこてんと首をかしげた仕草にやはり俺の義妹は世界一可愛いと兄馬鹿全開な妄言を脳裏で漏らす。


「ほら。この辺りじゃ中々見かけない種類だろ」

「……お花!」


 ジュチは例の岩窟から採取してきたそこでしか咲かない鮮やかな青色の花弁を束ねたものをそっと差し出す。決して派手ではないが、よく晴れた青空のような深みのある色合いだった。

 なお全く関係ないがこの辺りの年頃の青年が婚約者と会う時に度胸試しと求愛のため、贈り物を求めてしばしばアレッポの岩窟に挑戦することがある。もちろん目的は岩窟の入り口にそっと咲く青の花弁だ。

 とはいえそんな風習など一切知らない二人のやり取りに妙な思惑はない。あくまで義理の兄妹の微笑ましいやり取りに過ぎなかった。

 ゆっくり差し出された花弁を受け取ったツェツェクはパッと花咲くような笑みを浮かべた。


「とってもきれい! ジュチ、ありがとう!」


 ジュチの首ったけに抱き着くように全身で喜びを示し、無邪気に笑う義妹にジュチはほっと肩の力を抜いた。こちらの好意を無碍にするような子ではないが、やはり喜んでもらうのは嬉しいものだった。


「おっと」


 そういえば例の火蜥蜴はどうなったと肩を見るが、見当たらない。周囲を視線で見渡しても見当たらず首を傾げたが、すぐに所在を示すかのように目の前を小さく火の灯る尻尾がぷらぷらと揺れる。その割に頭に重さを感じないのだから不思議なものであった。

 色々と自由すぎる珍獣にこの野郎いい度胸だなと思わないこともないが、ジュチにとっては目の前のはにかむように笑っている義妹の方がはるかに優先順位が高い。さりげなく頭を振って火蜥蜴を振り落としつつ、義妹に笑いかける。


「ツェツェクに似合うと思って、取りに行ったんだ。うん、やっぱりよく似合ってる。綺麗だ」

「そうかな? わたし、きれい?」


 胸の前で大事そうに花弁の小束を抱え、舌足らずな声で嬉しそうに問うツェツェクにもちろんだと頷き返す。 

 義妹の名であるツェツェクは草原の言葉で『花』を意味する。

 少女の名前に引っ掛けた贈り物であり、思いついたときはなかなかいい考えだと自画自賛したものだった。本当は花冠にして送りたかったのだが、飛竜に襲われて大半が散ってしまい、贈れたのはほんの数本のささやかな花束に過ぎなかった。

 だがそれでも義妹の目を楽しませ、喜ばせることは出来たらしい。

 それを見て、まあと今日一日の苦労が報われたような気がした。もちろんもう一度同じことを繰り返す気は起きなかったが。どう考えても飛竜に丸焼きにされて食われるか、さもなければモージに喉首を絞め上げられて窒息死させられる未来しか見えない。

 と、ここでああそういうことだったのかと今日己がしでかした愚行について奇妙な納得が腑に落ちた。

 要するに、己は義妹ツェツェクに喜んでほしかったのだなぁ、と。

 そのためにあんな馬鹿な真似をしてしまったし、迷惑や心配をかけたことを反省しているが、正直あまり後悔はしていない。精神がスレた影響で無意味な浅慮は慎むつもりだったが、自身を動かす胸の衝動が治まった気配は無かった。

 ジュチがこの時自覚したのはこの子をきっと幸せにするのだ、という使命感に似たナニカだ。そして己ならばそれが出来るとこの時根拠なく少年は思っていた。

それはこの時分の少年が抱く無根拠な全能感に近かっただろう。飛竜の襲撃と死に瀕して垣間見た前世 (?)の記憶という非日常が少年の頼りない理性を揺るがしていたということもある。

 とはいえこの雄大なる大地に生きる少年としてとても自然な反応とも言えた。前者は一生自慢できる武勇伝であり、後者は自分を特別な存在ではないかと錯覚するには十分な神秘体験だ。

 十二歳と考えると少しばかり早いが、この年代特有の厨二病よくあることといえた。


「ツェツェク、帰ろう。モージが待ち草臥れて夕餉を全部食べてるかもしれない」

「もう、モージはそんなに食いしん坊でも怒りん坊でもないよ! なのにそんなこと言ったらまた怒られちゃう」

「良いんだよ。あれも俺とモージのこみゅにけーしょんって奴なんだから」

「こ、こみゅ…?」


 ここらの言語とは語感からして異なる異国の言葉に訳が分からないと言った顔をするツェツェクに何故かどや顔になるジュチ。これも、自分自身意味がよく分からない知ったばかりの言葉を使いたがる厨二病の症状の一つだった。

 やがて二人は手と手をつなぎ合わせて少しだけ足早にモージのいる天幕へ向けて歩き出した。


「んふふっ…」

「? どうかしたか?」

「なんでもないっ」


 やけに機嫌の良さそうなツェツェクの様子を伺うと歌うように語尾を跳ねさせて答えた。

 

「ねえ、ジュチ」

「なんだ?」

「楽しいねっ」


 突然の言葉にはてな、と首を傾げるがなんとなくツェツェクらしいなとも思う。日常のふとした何気ないことにも喜びと幸せを見つけることが上手い少女なのだ。


「わたしね、ジュチが好き」


 出し抜けに義妹の口から飛び出た告白に少しだけジュチの心音は早くなった。


義母さんモージも好き。部族の皆が好き。皆と居る此処が好き!」

「俺も……。うん、俺も、そうだ」


 無邪気な義妹の言葉に言葉少なく、しかし確かに共感を示すジュチ。

 自分たちは決して恵まれた境遇ではない。縄張りが痩せた土地ばかりの部族はそもそも養える家畜の絶対数が少なく、あらゆる面で余裕がない。

 天神テヌンの気まぐれ一つで大地の実りは大きく左右され、悪い方に転べば飢え死にかはたまた戦争かといった苦境に追い込まれるだろう。 

 ―――そう、それでも。


部族ここで生きている俺たちは、本当に幸せだ」


 自分たちは幸運だと、誰憚ることなくジュチは心の底からそう主張する。

 モージという特殊な立ち位置の重鎮の養子、という点から察せられるがジュチもツェツェクも訳ありの子供だった。他所の部族を見渡せば幾らでも見受けられる程度の事情だが、訳ありには違いない。実のところ部族の奴隷階級である隷民ハランに落されても誰も文句を言う者がいない、そんな境遇だったのだ。

 それでも義兄妹達は部族の一員として迎えられ、今を生きている。

 それは辺境の弱小部族であるからこそ、だったのだと思う。周囲を厳しい自然に囲まれ、苦境には団結して協力をしなければ生き残れない。一つの事実としてこの大地は決して人に優しい土地ではなかった。

 厳冬には燃料の節約のため部族の皆が集まって一つの大天幕で身を寄せ合って過ごし、秋頃にはたっぷりと脂肪を蓄えた野の獣たちを協力して巻き狩りで追い込む。春と夏には男たちは家畜たちを放牧に何日も遠出し、女たちはその間一切を取り仕切り、家を守る。

 それでもなお全体のために切り捨てられる犠牲はどうしても出る。だがその選別は合理的に、あるいは公平に行われ、ジュチたちに殊更に貧乏くじが回されることはなかった。

 尤も幼い子供らがそうした事情を完全に論理的に理解していた訳ではない。

 保護者モージはぶっきらぼうだが優しく、部族の皆も暖かかった。越冬期には族長の大天幕に一堂に会しての大遊戯大会が開かれ、そこでは誰も彼もが隔てなかった。暮らし向きが苦しくても、人の情は通じ合っていた。

 彼らが理解していたのはそれくらいで、そしてそれだけで十分だった。


「ずっと皆と一緒にいたいな……」

「馬鹿、なに言ってんだ」


 縁起でもない、と呟くと首を傾げられた。本当に思ったことをそのまま言ったという感じで、話のまとまりのなさがなんとも幼子ツェツェクらしかった。


「大丈夫だ」


 根拠などないけれど、それでもジュチは言う。


「きっと、大丈夫だ」


 夕日が山々の陰に隠れた空を見ると、暗闇が忍び寄りつつあった。

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