遊牧少年、シャンバラを征く

土ノ子

山羊と飛竜の追いかけっこ


 此処は天険竜骨山脈。西方臥龍山脈、あるいは世界の壁とも呼ばれる場所。

 土地は貧しく、気候は寒冷。地の恵みである牧草や森林も豊かとはいえず、決して人に優しくない雄大なる大地だ。

 だがそんな大地にも人は逞しく生きている。


「クソッ、クソっ、クソッたれ!」


 そう、ここにも一人。

 美しい三日月形の角を有する山羊に跨った幼い少年が必死に乗騎をけしかけ、天空から迫りくる狩人から逃げまどっていた。その背には鞍が、顔には手綱が巻かれ、意外としっかりした装具なのが分かる。


「なんで、花を…、摘みに来ただけなのに…!」


 愚痴る、なじる、悪態をつく。

 非生産的と分かっていても罵詈雑言を吐き出さずにいられない。


「よりにもよって飛竜ドゥークに追いかけられてるんだあぁぁっ!」


 飛竜ドゥーク

 竜骨山脈に生息する最大級の肉食竜類。銀嶺を統べる覇者、天から襲い掛かる災厄、頂点捕食者の一角である。

 爬虫類特有の鋭角的な顔付き、前肢と一体化した翼は悠々と巨大な体躯を覆うほど、筋肉の盛り上がった後ろ脚は鋭く曲がった鉤爪を備え、獲物を捕らえる時を狙っている。

 少年はこの時点では知る由もないが、その姿はこの大地とは位相の異なる世界でワイバーンと呼ばれる幻想生物に酷似していた。

 とはいえ少年が起居する移動集落の付近では目撃すらここ十数年なかったという。その生息域は竜骨山脈の奥も奥。本来行儀の悪い子供に対して「いい子にしなければ空から飛竜がやってきてお前を攫ってしまうよ」と脅し文句に使うような、そんな遠い存在なのである。

 ちょっとした野暮用の帰り道に突如そんな怪物と遭遇して目を付けられ、延々と追いかけ回される羽目になった少年達は間違いなく不幸であった。


「マズイ…。、来るぞっ!」


 悠々と天を飛翔する飛龍がぐっ、と巨躯に力を溜める動作と共に無数の火球が何の前触れもなく出現する。

 明らかな異常。人智を超えた現象であったが、幸か不幸か少年はそれが《精霊マナス》に依る呪術だと知っていた。少年の保護者である老呪術師も似たような真似が出来るのだ。尤もその規模は桁違いというも生温いものであったが。

 少年は乗騎の上から必死に視線をあちこちに走らせ、なんとか己と相棒が逃げ込めそうな隠れ場所を探す。だが山肌には僅かな灌木と砂礫が覆うばかりであり、彼ら一対が潜り込める隙間など到底望みようもない。

 しばらくは相棒に負担を掛けるのを承知で逃げ回るしかないと悟り、少年は慰撫するように山羊の腹を軽く叩いた。

 機を同じくして飛竜の咆哮を合図に空高くからつるべ打ちに打ち込まれる爆炎の雨。その火力が決して虚仮威こけおどしではないことは少年と山羊が逃げ惑う過程で山肌に刻まれた無数の傷跡が証明していた。

 着弾、爆裂。

 荒涼とした山肌に鮮やかな紅蓮の華が咲いた。

 その猛威から逃れるため、少年を乗せた山羊は余力を振り絞って起伏に富む岩肌を跳ねるように駆けていく。人の腰ほどもありそうな大岩を連続で駆け上がり、飛び石を渡るように岩から岩へと跳躍を続ける三次元的な機動であった。

 飛竜に狙いを絞らせないための必死のあがきであったが、幸運に助けられたこともあり、今のところ少年と山羊には汚れこそ目立つものの大きな傷は無い。

 仮に追い掛ける獲物が集落の男たちの騎乗する馬であればこれほどまでに飛竜の狩りが長引くことはなかっただろう。とっくの昔に大岩に道を阻まれるか、窪みに足を取られて立ち往生した挙句に飛竜の手繰る炎に炙られ、焼死体になっていた可能性が高い。

 よく騎手の意を読み取る山羊であること。

 騎手が体重の軽い女子供であること。

 そして、騎手が名手であること。

 この3つの条件を兼ね揃えるのならばこと山岳に限り、山羊の瞬間的な機動は馬すら凌駕する。山羊は本来高所を好む獣であり、山岳はまさに彼らの庭と言っていい。馬が苦手とする段差も軽快に駆け上がり、人間にすら登攀困難な断崖絶壁を悠々と登りきる潜在能力を有しているのだ。 

 だが―――、


「ああっ、ヤバイ…。エウェル、もっと早く…!」


 頭上から迫り来る巨大な影を仰ぎ見た少年は己が跨る相棒の山羊、エウェルに呼びかけ、危機を知らせた。

 遠間からの火吹き芸では埒が開かないと飛竜も悟ったのだろう。

 《精霊》に命じ、獲物を追い込みながらも上空から山肌を跳ね回る獲物の挙動を見極めていた飛竜が遂に直接の襲撃を仕掛けてきたのだ。飛竜は上空から一気に下降すると地面にぶつかる直前で風を受け止める翼の向きを変え、鉤爪で山肌を抉るように飛来する。

 そうして獲物に背後から襲いかかり、その鋭い鉤爪で捕らえるのだ。そこから先は膂力に任せて握り潰すも良し、上空から放り投げて墜落死させ新鮮な亡骸をゆっくり啄むも良しだ。

 その最高速度は山羊が如何に山岳に長けていようと、騎手の体重分の劣位を負って覆せるものでは到底ない。

 引き離すのが無理ならば機を計り、迫りくる爪牙を躱す他ない。

 もちろん無理無茶無謀と分かっているがやらねば己らは死ぬのだから無茶でもなんでもやらねばならない。少年は生存本能に従って躊躇わず騎獣の腹を蹴り、一層足を速めるようにけしかけた。

 山羊の眼球は顔の横に付いており、瞳も横長に広い。視界の広さは人間など及びもつかないほどだが、流石に上空の飛竜までは捉えられない。

 故に飛竜の挙動を捉えるのは少年の役割であった。


「右だ!」


 己が頭上に飛竜の影の端がかかるのをいち早く察知した少年は、進行方向の障害物と飛竜の襲来する軌道を見極め、素早くそして迷いなく手綱を右に引き絞る。

 意を察した乗騎もまた寸毫の遅滞も見せず、直角に近い角度で横っ跳びに跳んだ。

 捉えた機は最上に近く、乗騎もよく応えた。だがそれ以上に飛竜が襲いかかる範囲は少年の予想を超えていた。

 一度は襲いくる鉤爪から危うくも身を逃れさせることに成功したが、僅かに翼を傾けることで飛竜は滑空の軌道を修正し、その巨躯で小さな獲物を押しつぶさんと試みる。何もわざわざ鉤爪で捕らえずともその巨体を利用した体当たりを決めるだけで十分な致命傷になるのだ。野生に備わった天性の狩猟勘とでも言うべき追い込みのキレであった。

 詰んだ、と絶望が少年の脳裏を掠める。

 だが天空に座す最高神、草原の民が崇める天神テヌンはまだ少年を見放していなかったらしい。急速に接近する飛竜の巨体が唐突に


『———、——————っ! ———!』


 風に裂かれ、切れ切れになった音が耳に届く。声のように聞こえるのは気のせいか。

 グラリ、と体勢を不自然なほど片側に崩した飛竜の飛翔軌道は少年達から逸れ、少年の肩に人間の小指一本ほどの鉤爪の先端を引っかけるに留まった。


「ッ…!?」


 だが彼我の体重差は何十倍も差が開いており、疾走する速度も相当なもの。騎乗したままで安定した体勢など望めるはずもなく、滅茶苦茶な力を背中に加えられた少年は容易に騎獣の背から


「うっ、…そだろおおおぉぉっ!?」


 グルグルと視界が回る。唐突な空中浮遊へ強制的に招待された少年は目を丸くしながら奇妙なほどゆっくりと動く世界の中を不思議な心地で眺めていた。

 これは死ぬかもと直感するや否や、少年の頭の中で不思議な現象が起きた。

 竜骨山脈の一角を縄張りとする遊牧部族の中で暮らした十年間が走馬燈のような形で脳裏に上映されていく。少年的にはその不思議な体験は何とも新鮮味があって面白ささえ感じたのだが、この走馬燈は幼少期から今まさに飛竜に襲われたところまで上映されても終わらなかった。

 なんと映像まで再生され始めたのだ。

 天を衝くような大きさをした石造りの摩天楼が屹立し、ギラギラと光を反射する鉄で出来た車輪付きの箱が石でできた道に並び、連結した巨大な箱からは見たこともないほど多くの人間が絶え間なく吐き出されていく。


(なん、だ…。俺は何を見ている?)


 見覚えがないのに馴染みがあるという何とも薄気味悪い感覚を伴いながら再生される映像はやがて唐突に終わりを告げる。

 残ったのは変わらずクルクルと空中を回転しながら放物線を描いて浮遊する己だけ。脳裏に移る奇妙な光景はジュチに何も変化を齎すことはなかった、今この時は。

 吹っ飛んでいく先には少年に倍する大きさの岩塊。山々を転がる内に角が取れたのか、尖った箇所がないのが救いか。

 あ、という間抜けな声を漏らした少年は吹き飛ばされた勢いのまま大岩に肩からぶつかり、次いで額に火花が散るような衝撃が走り抜けた。

 激痛、暗転。

 頭部に食らった強烈な衝撃に少年の幼い肉体は耐えきれず、速やかに意識は闇の底に沈んでいく。消え行く意識の中、少年は自分自身すら意味不明な呟きを漏らした。


「最期がドラゴンの餌とか…。ファンタジーかよ」


 世の無常に向けたボヤキ。

 風に巻かれて消えるだけの言葉に、しかし応える者があった。


『―――! ―――――。―んな、――で』


 声の位置はやけに近い。視界の端に金の輝きがちらつくが、すぐに全ての輪郭が失い、溶けていく。

 飛竜に食われるぞ、逃げろ。そう思う意思すら形にならず、心地よい安寧の闇に微睡んだ。


『———ごめんなさい』


 最後の言葉だけはやけに明瞭に耳に残った。


 ◇


 そして無傷のまま目覚めた少年の眼前には、


「メエエェ」


 大丈夫か、という風に鳴く相棒のエウェルともう一匹。


Qurururuキュルルル


 よく分からない鳴き声を発する、尻尾に火を灯した手のひら大の蜥蜴が呑気に欠伸をこぼしていた。


「……なんぞ、こいつ」


 力のない、しかし誰もが同意するだろう呟きは、誰に聞かれることもなく山嶺の颶風に吹き飛ばされ、消えていくのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る