正体不明
「んゆ……」
すっかり夜も更けて、街の住人が寝静まった頃。
宿のベッドの中で、エトは目を覚ました。
まぶたを擦りながら、窓の外へと視線を向ける。
(こえ……?)
静まり返った室内。聞こえるのは、隣で熟睡するモニカの寝息だけだった。
他には何も聞こえない。しかし、エトは確かに聞き取っていた。
(くるしいの……?)
夜に染まった街のどこかで、苦しみ悶えるその声を。
見知らぬ誰かの、その嘆きを。
(待っててね。すぐに行くから)
エトはベッドからそっと降りると、壁にかけてあったマントを羽織って部屋を抜け出した。
「汝、黒夜に我が身を溶かせ……【
真っ暗な廊下に溶け込むように、エトの身体が黒いモヤに包まれていった。
彼女が発動したのは自らを暗黒に包み込む魔法だった。
見た目にしか作用しない低級の闇魔法だが、それでも灯りのない深夜なら十分な隠蔽効果が期待できた。
夜と同化した彼女は、慎重な足取りで玄関へと向かった。
建物から出ると、月明かりがエトの輪郭を微かに映した。
この【
暗闇の中に、より一段と黒い影が浮かぶ光景は言うまでもなく不自然だ。とはいえ、建物で月光を避けていればほとんど視認されることはない。
エトはなるべく建物の陰を通りながら、夜の街を進んでいった。
「……こっちにいるの?」
何かに導かれるかのように、エトは路地裏に入っていく。細い路地を進むにつれて、じわじわと腐臭が漂ってきた。
ガサゴソと何かを漁るような物音。奥にいけばいくほど、そこにいる何かの気配が明確になっていった。
「あなたは……だれ?」
エトは路地裏の奥にいた何かに声をかけた。すると、それまで生ゴミを漁っていたそれは這うように近付いてきた。
『あ、あぅあ、あぁ……』
それは奇妙な魔獣だった。
四足歩行で獣のように見えるが体毛はない。剥き出しの地肌には血が滲み、茶色い膿をぽたぽたと垂らしていた。
その顔はコウモリに似ている。しかし、眼球や唇といった部位には妙な人間っぽさがあった。
「ひっ……」
そのあまりにも悍ましい姿を目にして、エトは思わず後ずさった。途端に湧き上がってきた恐怖が、彼女の身体を強張らせたのだ。
自らの意思でここに来たとはいえ、まだ幼い彼女からすれば、この魔獣の容姿はあまりに衝撃的で恐ろしかった。
『あ、うああ、ぅ……』
正体不明の魔獣は、そのへしゃげた口腔から触手のようなものを伸ばした。
「ひあっ……!?」
恐怖で竦むエトの頬や手を、触手がゆっくりとなぞっていく。その様子は、まるで品定めでもしているかのようだった。
「やっ……だめ……」
一通り肌に触れたあと、今度は彼女の腕や足に絡みついてきた。触手はねっとりとした粘液に包まれており、するすると衣服の中へと侵入していく。
エトはあっという間に触手に囚われ、身動きが取れなくなってしまった。
『あ、うあ……うあ゛……』
魔獣はうめき声をあげると、ゆっくりと触手を引き戻す。
小柄なエトの腕力ではその力に敵うはずもなく。そのまま、ずるずると魔獣の方へと引き寄せられていった。
腐臭と膿の匂いが漂う、夜の路地裏。
そこに残されたのは、乾いて白くなった粘液の跡だけだった。
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