渇望する者
「はぁっはぁっ……!」
薄暗い路地をブルーノは必死に駆けていた。
少女を助けに来た、あの青年から逃げるために。
自分に向けられた冷たい双眸。
そこに込められた悍ましいほどの怒気に、ブルーノはとてつもない恐怖を抱いた。
「はぁ、はぁッ! ……くうっ、だからやめた方が良いって言ったのに! 毎回やり過ぎなんすよ、
そう、全てはハインツの邪な感情が発端であり原因だ。
それでも彼が少女にした仕打ちを思えば、自分だけ見逃してもらえるはずもない。
計画の首謀者ではないにしろ、その場に居合わせ彼の手助けをしたのは紛れもない事実なのだから。
きっと自分は殺されるだろう……いや、それ以前の問題だ。
たとえ彼に殺されなかったとしても、違法奴隷に手を出した時点で死罪は免れない。
どう転んでも彼に待ち受ける結末は──死。ただ、それだけなのだ。
「……は、早く街を出ないと! きっと明日にはお尋ね者扱いだ……!」
故にブルーノは、逃げ出すことにした。
あの場からだけではなく、この街からも。
とにかく遠くへ逃げよう。ただそのことだけを考えた。
「はぁ、はぁっ……ぜぇぜぇ……」
一心不乱に走っていたせいで息が苦しくなったブルーノは、足を止め路地の影に身を潜めるようにへたり込んだ。彼は大きく息を吸って、乱れた呼吸を整える。
(ハインツさん……大丈夫っすかね……)
少しだけ冷静さを取り戻したブルーノは、見捨ててきたハインツの事を思い浮かべた。
両足を切り落とされ、逃げる術を失った彼は今頃どうなっているのだろうか。
(今頃、あいつに八つ裂きにされているんじゃ……)
最悪の光景を想像したところで、彼は首をぶんぶんと振った。
(あ、あの人にはあの薬があるから、きっと大丈夫だ……)
先日ハインツと共に訪れた怪しげな魔道具店。
そこで彼が購入したのは、〝強化の秘薬〟と銘打たれたポーションだった。
薄紫色の液体が入った見るからに怪しい薬だが、店主の男から聞かされたのは一時的ではあるが最低でも10レベル分以上ものステータスを底上げしてくれるという、冒険者からすればまさに夢のような効能だった。
もちろん当時は詐欺商品ではないかと疑っていたが、今は違う。
なぜなら同じ店で購入した〝弱化ポーション〟は正真正銘の本物で、あの少女の怪力を見事に封じてみせたからだ。
(弱化ポーションだって本物だったんだから、きっとあの薬も本物に違いない……だからハインツさんは、だ、大丈夫だ……何も持ってない俺が逃げるのは、仕方ないよな……仕方のないことなんだ)
ブルーノは自分にそう言い聞かせると、ゆっくりと立ち上がった。
それからまた走り出そうとした、次の刹那。
「あがッ!? ごほおぉぉぉっ!?」
彼の胸から黒い何かが喰い破るように飛び出した。
肺に強烈な痛みを感じたブルーノは、悲鳴よりも先に血を吐き出す。
彼はそのまま、ふらふらと蹌踉めくように膝をついた。
(ああああぁ!? い、痛てぇ……いったい何が……)
いったい自分の身に何が起こったのか。
それを必死に理解しようと痛みを堪えるブルーノの目の前に、一人の男が姿を現した。
フードを目深に被った背の高い男だ。
そしてその傍らには蝙蝠のような飛膜を生やした不気味な生き物の姿も。
血に濡れたその生物を見て、ブルーノは自分が彼に攻撃されたと悟った。
「ど、どう、しで……あんだが……?」
ブルーノはその男に見覚えがあった。
フードの男は魔道具屋の店主だ。
ハインツに違法な魔道具や薬品を売りつけた張本人。
得体の知れない雰囲気を醸し出す謎の人物。
そんな彼がブルーノに向けて──不敵な笑みを見せていた。
「はぁ、残念。実に残念ですね……」
理解できない。そんな表情を見せていたブルーノに向けて、男は悲しそうに吐露した。
目深に被ったフード。その奥で、山羊のような不気味な瞳が薄っすらと輝いた。
「折角この私が、貴方たちの欲望を叶えるお膳立てをしてあげたというのに。まさか欲望よりも恐怖が勝ってしまうとは。ですが──演者は、最後まで演者として振る舞って頂かないと困りますよ」
意味深なセリフを吐き出しながら男は、ゆっくりとブルーノに近づいていく。
彼との距離が縮まるにつれて、胸の奥から湧き出す得体のしれない恐怖心。
ブルーノは声を出すことができなかった。
そんな彼の顎に手を添えて、フードの男は囁いた。
「ですから、貴方はもう要りません。愛しき我が権能の餌になってもらいましょう」
それだけ伝えると、男は背を向けた。
その次の刹那、男の傍らにいた不気味な生き物がブルーノに喰いかかった。
「かはッ……」
一瞬で喉を噛み千切られ、悲鳴をあげることすら許されず。
ブルーノという存在は、瞬く間に肉塊と成り果て。
その血の一滴まで、残さずに喰らい尽くしていった。
「はぁ、やはり
フードの男は不敵に笑いながら、また後方へ視線を向けた。
たった今、ブルーノを食い尽くした漆黒の異形へ。
「くく、まさか零の権能とは──彼なら君に捧げる対価として申し分ない。そうでしょう?」
漆黒の異形は、彼の言葉に呼応するかのように、その姿かたちを変質させてゆき、やがて少女の姿を象った。
『えぇ、そうね。十分だわ。彼を私にくれるなら──貴方のその願い、そろそろ叶えてあげてもよくってよ』
男にそう伝えた後、少女は血のように赤い唇を歪めた。
『──ふふ、とっても楽しみだわ。
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