第120話
『──グオォォォォオオッッ!!』
野獣の雄叫びが響いた。
その声の主である漆黒の魔獣──ハインツは、その拳を力の限り叩きつけた。
「がはッ……!!」
メキメキと骨が砕ける音。臓器が押しつぶされる感触。魔獣の凄まじい力で押し潰され、ケントは吹き出すように血を吐きだす。
──確実に仕留めた。
見るも無惨にへしゃげたケントの肉体を見て、ハインツは確信した。
魔獣になったとはいえ、元々は人間だ。
獲物を仕留めたかどうかを判断する程度の知性はまだ残っていた。
殺した。殺した。殺した。
その言葉だけが、彼の脳内を埋め尽くす。
目の前の結果を脳内で反芻する。たったそれだけの幼稚な思考。
だが、それでもその言葉の繰り返しが心地良く。
それは次第に喜びの感情へと変化していった。
『ゲへッ……!』
憎き男の死は、魔獣に成り果てたハインツに感情というものを取り戻させた。
知性の大半を失った彼にはそれが何なのかを客観的に理解できない。
ただ、その心地良さだけは確かに胸の奥で感じ取っていた。
「ゲへッ、ゲへへへへッ!!」
彼は牙の並んだ口を大きく歪ませると、ひどく醜い笑い声をあげた。
──邪魔者、消えた。次はアイツ。
ひと通り笑い終えたあとハインツは、次の獲物の事を考え始めた。
引き裂く、潰す、もぎ取る、殺す……殺す、殺す。
浮かぶのは、そんな言葉ばかり。
人間だった頃にあった性欲も、支配欲も、今ではすっかりおとなしい。既に彼の思考は、殺戮衝動に支配されていたのだ。
『アァ……ゴ、ゴロス……ッ! ゴロスッ!!!』
思考すればするほどに湧き上がる衝動。それが抑えきれなくなったハインツは、
その刹那──彼の太い腕に手が添えられた。
今しがた仕留めたはずの男の──血に塗れた手が。
「くっそ痛ぇ……ったく。もうちょい良いやり方はねぇのかよ……あの神様モドキめ……」
まるで何事も無かったかのように、悪態をついたのは死んだはずの男。その身体は半分ほど押し潰されており、とても生存できるような状態ではない。だが、それでも彼は生きていた。
──なぜ喋れるのか。なぜ生きているのか。
『グルルゥッ……』
矛盾した現実。
その理解不能な光景は、狂獣の拙い知性を大いに混乱させた。
目の前の未知に対する警戒、畏れ。
生存本能にも近しいそれは、彼を無意識に後退させた。
「そう怯えるなよ。この
唸り声を響かせ、警戒するハインツに向けて、ケントはにやりと笑いかけた。
「こいつはただ俺の残機を増やすだけだ。ちっとばかり代償はでけぇが──別に
そして彼の唇は紡いだ。新しくも懐かしい、そんな
「
次の刹那、彼の砕かれた骨が、潰された臓物が、失われた血が、瞬く間に再生し始めた。
先ほどハインツが死肉を食らって再生した時のように。彼もまた、逆再生したビデオの如くその傷を修復していく。
「これが十三番の真の力ってか……あの魔族野郎も放ってたらこんなチート能力を身につけてたのかと思うとゾッとするな」
肉体を完全に再生させたケントは、確かめるように拳を閉じたり開いたりしてみせた。
「……おっと、こんな事してる場合じゃなかったな。待たせたな、ケダモノ野郎」
身体の確認を終えた彼はおもむろに【収納】ポーチを開く。そして中から一つのアイテムを取り出した。
「──やっぱ、ぶん殴るにはこれじゃねぇとな」
彼が手にしたのは白銀に輝く金属製の杖だ。
その先端には土星のような球状の物体がついており、杖というより
これこそが彼が最も得意とする武器であった。
『グ、グオォオォッ!! ゴロスッ! ゴロスッ!!』
先ほどの瀕死状態がまるで無かったかのように、不敵に笑うケント。そんな彼に向けてハインツは怒りにも近い感情を剥き出した。
──それは恐怖から来る感情だ。
目の前の異質な存在に、魔獣としての生存本能が警鐘を掻き鳴らしている。だからこそ彼は自らを昂らせる事で恐怖に抗おうとしたのだ。
『ガアァァアアァッッ!!!』
雄叫びを上げながらハインツは拳を振り下ろした。それも一度だけではない。何度も、何度も。執拗に拳を振り下ろす。
その度に砕けた床材が瓦礫となって飛び散った。
もう一度潰せばいい。再生されるなら、何度も潰せばいい。それだけ、ただそれだけだ。
しかし、ハインツには自信がなかった。
もう一度押し潰せば、それで奴は簡単に死ぬ。頭では、そう理解しているのに。
なぜだか、そうはならない気がして仕方がなかった。
不安だ。
不安が、彼をより凶暴に変えていく。
心に纏わりつくそれを振り払うべく、ハインツは腕の力を強めた。
圧倒的な暴力を振りかざせば、必ず奴を殺せる。そんな希望を抱いて。
「──何してんだ?」
だが、そんな彼の希望も虚しく。
不安は現実のものとなった。
「いくら殴っても意味ないぞ。殴るしか取り柄のないお前には悪いが、今の俺は物理無効なんでな」
あれほど殴打したというのに、ケントは傷一つ負っていなかった。
だからといって回避した様子もない。彼は先ほどの位置から一歩も動いていない。
それもそのはず。彼が使用したナンバーズスキル──その十三番目の数字が司るのは〝死〟なのだから。
〝死〟とは〝静止〟だ。
それは時空すらも干渉する事のできない、絶対的概念。
実体が無いから、当たらないのではない。
静止しているから、変化しないのだ。
それこそが〝死〟の本質。物質的な変容を一切拒絶する力。
それ故にハインツの拳は、彼には届かない。
『ア、アァ……ッ!』
何が起きているのか、今のハインツの知能は理解しきれない。
理解したのは己の攻撃が一切通じてないという事実だけ。その事実が彼の身体を強ばらせた。
「さて、次はこっちの番だ……お前を倒すには、ちょいとステータス不足だからな。その力、ちょっと借りるぜ?」
そんなハインツに向けて、ケントは杖を突きつけた。そして次なるスキルを解放する。
「
刹那、周囲の景色が真っ黒に塗り潰された。
先ほどまで彼らが立っていた倉庫は、終わりのない暗闇にぽつりと満月が浮かぶだけの奇妙な世界へと変わり果てた。
『ガアアアアァァァァァッ!?』
変貌した世界に驚く間もなく、ハインツは苦悶の叫びと共に膝をついた。
淡い月光が、彼の肉体から何かを奪い取っていく。
「流石にこの時間帯は本領を発揮できないか……ま、それでもこれだけありゃ十分だ」
そんなハインツとは正反対に、ケントの周囲には多数の魔力が集まっていた。
彼は周囲の魔力を感じ取りながら、慣れた様子でスキルを発動させた。
「虚ろなる世界、禁忌の理を我が手に。
周囲を覆っていた闇が消え、世界に色が戻った。
苦痛から解放されたハインツだが、もはや体力という体力は残されていない。
凶獣の口腔から漏れるのは、咆哮ではなく苦しげな息遣いのみ。
『ガアッ、ガハァ……ゴロ、ス……』
それでも殺戮衝動に支配されたハインツに、〝逃げる〟という選択肢はなかった。
不安も、畏れも感じる。されど、立ち向かうほかない。それ以外に、それらを解消する方法を知らないからだ。
だからこそ彼は、息も絶え絶えに相対する敵へと視線を向けた。
だが、その瞳に映ったのは──赤熱を通り越して、輝白色に染まった長杖だった。
「……どうやって魔獣になったのかは知らん。何だかキナ臭ぇし、もしかしたらお前も不本意なのかも知れねぇ。けど、かといって見逃すわけにはいかないからな。悪く思うなよ」
一本の杖に、極限まで溜め込んだ火属性の魔力。
僅かに揺れ動かすだけで熱風を吹き出すそれを、ケントは大きく振りかぶった。
「──【破天砕月】ッ!」
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