第115話

 第五街区、通称貧民街。

 タロッサの街の北西。防壁付近に位置するそこは、無茶な増改築を施した家がひしめき合うように建ち並び、昼間でも日当たりが悪い場所だ。

 薄汚れた路地の奥深く。廃棄された倉庫の中でモニカは意識を取り戻した。


「う……ここは……」


 ゆっくりと目を開く。彼女の視界に映ったのは見覚えのある顔だった。


「はは、ようやくお目覚めかい?」


 ニヤリと笑みを見せるのは、以前にモニカが医術師送りにした金髪の冒険者ハインツだった。


「……っ! あんたの差し金ってわけね!」

「あぁ、その通りさ。この場所も彼らも僕が用意したのさ。それも全て君のためにね」

「ちょっ……触んないでよ!」


 言いながらハインツは、モニカの顎を引き上げた。そのあまりの不愉快さに彼女は抵抗しようとするが、両手首を拘束されているために上手くいかなかった。


(何なのよこれっ……力が入らない……)


 モニカの手首の自由を奪うのは鉄製の枷だった。それも魔法などが一切付与されていない普通の手枷だ。

 普段なら容易く壊せるはずだが、なぜかびくともしなかった。


「このっ……!」

「あははは、無駄だって! 君に与えた弱化ポーションはステータスを封じるんだ! これは高レベルの犯罪者に使われるアイテムだからね。効果は王国のお墨付きさ」


 天職という概念が存在するこの世界では、犯罪に手を染めた冒険者を取り締まる手法が発達していた。

 その一つが弱化ポーションと呼ばれるマジックアイテムだ。これは弱化の魔法を濃縮して付与した薬品で、主に強力な天職を持つ犯罪者に対して使用される。

 本来ならば一般人の手に渡るような代物ではないのだが、どういうわけかハインツはこの弱化ポーションを手に入れていた。


「ふんっ……そういうこと。けど、それでよく笑っていられるわね! 要するにそんな薬を使わなきゃいけないほど、あんたが雑魚ってことでしょ!?」

「あはは、何とでも言えばいいさ。僕は今、すごく気分が良いからね……この後君をたっぷり可愛がってやれると思うと、その強がりも可愛く見えて仕方ないのさ……ふひひ」

「いっ……!?」


 歪んだ笑みを見せるハインツ。その瞳に宿る歪んだ欲望を感じ取ったモニカは思わず身を引いた。


「おいおい、楽しむ前に先に報酬を払ってくれよな」


 興奮したハインツがモニカの足に触れようとするのを低い声が止めた。

 倉庫の入り口付近で腕組みする彼は、先ほどモニカと対峙した男だった。


「ん? どういうことだ? 報酬は先払いしたはずだろ? 追加料金なんて聞いてないぞ」

「そのガキ、聞いてた話より高レベル……それに等級も橙ときた。そのせいで手下が一名負傷してる。その分、金を弾んでもらわなきゃ困る」

「橙級だって? そんな馬鹿な!? 昨日、南門で見かけた時にはまだ白級だったのに……」


 モニカに目を向け、信じられないといった表情を見せるハインツ。彼がそんな風に驚くのも無理はなかった。

 昨日──門を出る前のモニカは確かに10レベル前後の白級冒険者だった。

 しかしながらその後の探索でB級ゴーレムの討伐や二体の竜討伐を経験し、そこで得た経験値によって、通常ではありえないほどのレベルアップを果たしている。

 その出来事からたった一日しか経っていないのだから、ハインツが知らないのも当然だった。


「お前がいつ見たかは関係ねぇ。払えんのか? 払えないのか? もし払えないならその女はこっちで回収して奴隷商に売る。もちろん手出しはさせねぇぞ。価値が下がっちまうからな」


 凄むように問いかけるならず者の男。力で勝てないハインツは冷や汗を垂らす。


「か、金は無い……け、けど、この女の身につけてる防具を全て渡すってのはどうだい? 回収してきた武器もだ。見たところ高級素材で出来ているようだし、売れば大金になるんじゃないか?」


 ハインツは壁に立て掛けてある槍を親指で示しながら答えた。その武具の価値を理解しているのか。男はハインツの提案に迷いなく頷いた。


「それなら問題ねぇ。あの装備の方がよっぽど金になる。奴隷商どもは違法奴隷ってだけで足元見てきやがるしな」

「ひひ、じゃ、じゃあ取引成立ってことで……」

「ちょっと! それはあたしの槍よ! 勝手なこと──」

「ちっ、話が纏まりかけてるってのにうるさいなッ! もうお前は僕のものなんだよ!」


 苛立ったハインツがモニカの頬をパンッと叩いた。


「痛っ……!」


 それから彼女の髪の毛を掴んで顔を引き上げると愉快そうに笑う。


「ふひひ、それじゃ防具は脱がさないとな! あぁ、でも拘束したままじゃ脱がせられないな。先にさせるか……おいブルーノ!」


 ハインツが呼びつけると、脇で待機していたブルーノが緊張した面持ちで近寄る。


「は、はい……ハインツさん」

「あれを出せ」

「……ど、どうぞ」


 ブルーノが手渡したのは古めかしい首輪だった。

 これは隷属の首輪と呼ばれるもので、その用途は奴隷契約だ。

 本来なら国に認可された奴隷商しか扱えない魔道具。それをなぜか彼は手にしていた。


「な、何よそれ……!」

「ふひ、見るのは初めてかい? これは隷属の首輪というやつさ。奴隷契約に使われるアイテムなんだ。要するに装着すれば君は僕のモノってわけ……嬉しいだろ?」

「はぁ? ふざけないで! あんたの奴隷になんか死んでも──ぎっ!?」


 吐き出そうとした言葉を、ハインツが拳で遮った。容赦なく振るわれた殴打は彼女の鼻筋に当たり、鼻孔から血が垂れ落ちる。


「え……あ……?」

「……うるさいなあ。そろそろ自分の立場を理解しなよ」

「い゛っ……痛っ……やめ、やめて……」


 苛立ったハインツは、モニカの顔を何度も、何度も殴打する。その度に響く鈍い音と、小さな悲鳴。


「あーあ、これから犯す女によくやるよ……ま、人の性癖なんざ、知ったこっちゃねえが」


 不安そうな顔をするブルーノも、モニカを連れ去ったならず者の男も、誰もハインツの暴虐を止めようとはしない。

 この場にモニカを守る人は誰ひとりとしていなかった。


「ご、ごめんなさい……謝る、謝るから……もう、殴らないで……うぅ……」


 初めて受ける、人間の純粋な悪意と、暴力。

 それは、小さな田舎の村で無垢に育った少女の心を折るには十分過ぎた。


「ふひ、ふははは……いい……とてもいい気分だ……」


 大粒の涙を鼻血と共にぽたぽたと垂らすモニカ。その腫れ上がった顔を見てハインツは嬉しそうに笑った。

 弱化ポーション、隷属の首輪。

 彼が用意したアイテムは、どれも非合法な手段で手に入れたものだった。

 もし捕まりでもすればその罪は重い。それでもハインツの心は満たされていた。


 目の前の美少女を好き放題にできる。自分の顔に傷をつけた憎たらしい女を、己が望むままに。

 ただ、それだけでハインツのちっぽけな自尊心が満たされた。 


「高かったんだ……だからその分、たっぷりと楽しませてもらうよ」

「ひっ……!」


 モニカの肢体を我が物にできるという興奮から、ハインツはねっとりとした笑みを見せた。それから首輪をつけやすいように、また彼女の頭を強引に引き上げる。


「や、やだ……! そんなの嫌! 助けて……助けて、ケントっ……!」


 目の前の気色悪い男に、これから奴隷にされて犯される。その恐怖を想像したモニカはぼろぼろと涙を流しながら叫んだ。


 ──その刹那、何かが倉庫の屋根を突き破った。


「ひぃっ!? な、なんだ!? 」


 轟音に驚いたハインツはその場で腰を抜かす。


「……お前ら俺の幼馴染みかぞくに手を出すなんざ、随分と舐めた真似しやがるじゃねーか」


 ガラガラと崩れ落ちる瓦礫。砂埃の奥から声が響く。

 砂塵に映し出された人影は、まるで伝承に伝わる竜人族を思わせた。

 なぜなら、その人影には大きなが備わっていたからだ。魔獣の中でも最強に分類される竜種が持つそれと同じ、強靭な飛翼が。


「……おい、悪党ども。こんな事して、ぶん殴られるだけで済むと思うなよ?」


 ──そして彼の瞳に赫怒が宿った。


 彼は、目にしてしまったのだ。

 少女の太腿に滲む血を。

 何度も殴られて鼻血まみれになった、その泣き顔を。


「覚悟しろ──【風姫竜フィノーラ嬰鱗オルギ】」


 そして、暴風が解き放たれた。

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