第86話

「おはよーっす」


 管理局の応接間。

 来客用の柔らかいソファに腰掛ける瑠璃子の姿を見つけると、星奈はいつものように声をかけた。


「あ、おはよう。やっぱり星奈ちゃんも来たんだね」


「まぁ……パイセンからメッセ来てなかったっすからね。まだ中でバトってんだと思って」

 

 少し恥ずかしそうに答えながら星奈は、瑠璃子の隣へ腰を下ろした。

 それから持っていたコンビニ袋をおもむろに漁り始める。

 中から取り出したのは、彼女のお気に入りの一つ──ゴリラのマーチだった。

 パッケージに描かれた逞しいゴリラが印象的な人気のスナック菓子だ。


「瑠璃子も食べるっすか?」


「ううん、私は大丈夫だよ。朝ごはん食べてきたし」


「そっすか」


 そんな短く些細なやり取りを終えて。

 星奈は慣れた手付きで内袋を破ると、その一つを口に放り込んだ。


「むぐ……それにしてもパイセン遅いっすね。ホントに大丈夫なんすかねぇ」


「うん、そうだね……」


 都内に出現した、特異なダンジョン。

 賢人がその攻略を開始してから、既に二十五時間が経過していた。

 その内部がどうなっているのか。彼女らが知る術はない。

 しかしながら、丸一日以上ダンジョンに篭もるのというが普通でないことくらい、同じ冒険者として理解していた。


「でも、さっきユーノちゃんに見てもらったら、九十九階層目に挑戦中だって。だから、もうすぐだとは思うよ?」


「おー、かなり進んでるじゃないすか。てか、ユーノも来てたんすか?」


「うん。さっきまでは一緒に居たんだけど……野暮用があるって言って出てっちゃった」


「そっすか……ま、おやつでも買いに行ったんじゃ無いすかね。つか、クリア目前ならウチも家でゴロついてれば良かったっす」


 賢人が高層まで攻略を進めてると知って、安堵したのか。

 普段のようなそっけない態度を見せ始める星奈。

 そんな彼女に向けて、瑠璃子は優しく微笑んだ。


「あはは、そうかもね。でも、星奈ちゃんも心配だったんでしょ? だったら、別にいいと思うな。想うのは──恋する女の子の特権だから」


「……そんなこっ恥ずかしい台詞、さらっと言える瑠璃子が羨ましいっす」


 なんだか胸の内を見透かされたような気分。

 だけど反面、瑠璃子になら見透かされても悪くないなとも思う。


「でもまぁ……そっすね」


 その言いようのない気持ちが、星奈の唇を尖らせた。


「ふふ、星奈ちゃんはシャイだもんね」


「うー、うるさいっす! べ、別に進展がないわけじゃないっすからねっ! 変なダンジョンのせいで中断されたっすけど、今回はウチなりにちょっと頑張ったっす!」


「そ、そうなんだ……なら、いよいよ私たちも本格的に恋敵ってわけだねっ!」


「……いや、なんで嬉しそうなんすか。恋愛漫画なら友情ブレイクして泥沼の展開になる場面っすよ、そこ」


 可愛らしくファイティングポーズをしながら、キラキラした目で笑う瑠璃子。

 そのあまりのお人好し加減に、星奈は呆れながらツッコミを入れた。


「ふふ、でも正直、星奈ちゃんなら別にいいかなって思っちゃうんだよね。大好きな人同士がくっついて幸せで、失恋したはずの私がそれを祝福して……そんな場面を想像しても、なんだかいいなって思えちゃう」


 苦笑しながら瑠璃子は吐露した。

 彼女にとって、恋愛とは必ずしも自分が幸せになるものではないのだ。

 例え自分の恋が叶わずとも。自分の好きな人が幸せなら、自分も幸せ。

 本気でそんな風に思えてしまうのが彼女──雨宮瑠璃子という人物だった。


「ぶっちゃけ、それって恋愛感情なんすか……? 親族とか家族に向ける好意なんじゃ?」


 そんな彼女の特異な価値観に、星奈は思わず疑問を口にする。

 すると瑠璃子はふるふると首を振って否定した。


「賢人さんのことは、やっぱり好きだよ。人としてじゃなく異性として……初めて助けてもらったあの日から、ずっと同じ気持ちなんだ。もしも賢人さんが星奈ちゃんの事を好きになっても、この気持ちは変わらない。私は一人の男性として──賢人さんが好きだよ」


 決して無理をしているわけではなく、心の底からそう思っている。

 柔らかくもハッキリした瑠璃子の言葉からは、そんな感情が読み取れた。


「……多分、瑠璃子は生まれてくる時代を間違えてるっすね。第二、第三王妃とか大奥的な価値観っすよ、それ」


「うーん、やっぱり変なのかな?」


「ま、ぶっちゃけ変すね。奇人レベルっす」


「ふえぇ!? そ、そこまでかな!?」


「ふふ、でも瑠璃子らしいと思うっすよ。それに……瑠璃子ならウチもギリオッケーっすから、何となく気持ちわかるっす。ま、瑠璃子ほど笑って祝福できる自信はないすけど」


 もし賢人と瑠璃子がくっついたら。

 きっと自分は瑠璃子みたいに笑顔で祝福する事はできないだろう。

 けれども、どこかの変な女に彼が取られるよりかは、まだ許せるし諦めもつく。

 それくらい瑠璃子は魅力的な女の子で、それでいて自慢の親友なのだから。

 星奈はそんな事を頭に浮かべながら、またスナック菓子を口に放り込んだ。



 ──それからしばらくして。


 応接間に、乾いた音が響いた。瑠璃子が「はい、どうぞ」と返事する。

 部屋に入ってきたのは、この管理局の局長──狐塚だった。

 細身で飄々とした身体にパリッとしたスーツを纏い、特徴的な細い目を笑みでさらに細める彼は、いつもの胡散臭い口調で話し始めた。


「おはようございます、お二人とも! どうです? 昨晩はよく眠れましたか? が心配で一睡もできなかったなんてことがあれば、どうぞ気兼ねなく仰ってください。管理局特製の活力ポーションをご用意しますのでねぇ……!」


 そう言って栄養ドリンクのような薬瓶を掲げて、ニッとした笑顔を見せる狐塚。

 本当にこちらの身を案じているのかも疑わしいほどの胡散臭さに、星奈は呆れた視線を返した。


「や、大丈夫っすよ。ウチらもそこまで豆腐メンタルじゃないっすから」


「おや、そうですか? 最近発売したばかりの自信作なんですけどねぇ……


 両眉を八の字にしながら、残念そうに栄養ドリンクもどきをポケットに仕舞い込む狐塚。

 だが、それも刹那の間。すぐに胡散臭い笑顔へと戻した。

 

「ですが、元気と聞いて安心しました。ちょうどお二人には、お仕事をお願いしようと思っていたところですからねぇ」


「お仕事……ですか? どこかで魔獣氾濫スタンピードでも起きたんでしょうか?」


 瑠璃子が不思議そうに聞き返した。それは、あまりに唐突な依頼だったからだ。

 ましてや、現在このパーティーは前衛役である賢人が不在で、アンバランスな状態。

 それを承知で依頼を持ちかけてくるとあれば、それなりに緊急性の高い依頼とも推察できた。


「えぇ、まぁそんなところです。……というより、正確には起きるんですけどねぇ」


「これから……? いったいどういう意味っすか?」


 意味深な言葉に疑問符を浮かべる星奈。

 そんな彼女へ、狐塚は神妙な面持ちで説明を始めた。


「そのままの意味ですよ、星奈さん。これから、この世界──つまり、ダンジョン外の魔素濃度が段階的に上昇していきます。そうなれば何が起こるか──優秀なお二方でしたら想像も容易いでしょう?」


 糸のように細い双眸。

 それを交互に向けながら、狐塚は二人へ問いかけた。

 瑠璃子は、そんな彼へ確認するように問い返す。


「それは魔獣が……ダンジョン外に出てくるという事でしょうか?」


「えぇ、その通り。ですから全国──いや、全世界の冒険者の皆さんには、それらの魔獣による被害を、できるだけ最小限に留めていただきたいのですよ」



 ◇



「むぅ……おかしいのぅ。確かに気配を感じたのじゃが……」


 一方、その頃。

 ユーノは管理局の内部を一人で彷徨い歩いていた。

 まるで探しものをするように。きょろきょろと周囲を確かめながら歩む。

 

「妾の気のせい……? いやでも、あれは……あの魔力は……亜人ヒュムノスで間違いないのじゃ」


 彼女が探しているのは、自分や朱音以外の亜人ヒュムノスの存在だった。

 実を言えば昨日の時点で何となくその気配を感知していた。

 だが、獣人種である朱音が傍にいた事もあって、そこまで深く気に留めていなかった。

 きっと自分の気のせいだろう。

 僅かな疑念はあれど、そう思い込んでその場をやり過ごした。

 

 しかしながら、本日。

 また同じ気配を感じ取った事で、その疑念は確信へと変わった。

 この世界の大多数を占める人間ヒュムや、朱音の種族──霊狐族フォクシーとは異なる性質の魔力が、確かにこの建物に存在すると。

 

(……妾の種族はそこまで魔力探知に長けとらんからの……やはり具体的な位置は掴めぬな)


 ユーノ自身の魔法的技能は、あくまでも固有ユニークスキルによって強化された知識がもたらすものだ。その種族が持つ魔法適性は低い。

 故に、別の亜人の存在を感じ取ったまでは良かったが、その居場所を掴めずに難儀していた。


「あれ? 仮面の人……?」


「む?」


 顎に手を当てながら歩いていると、不意に声を掛けられてユーノは振り向く。

 そこには、かつて【大神殿】で救出した人物──東條あやかの姿があった。


「お主は確か……あの時の……久しぶりじゃな。もう大丈夫なのか?」


 ユーノは彼女が冒険者装備を纏っている姿を見て思わず尋ねた。

 というのも、【大神殿】で救出した直後、彼女は相当なショックを受けていた。

 何せ、他のメンバーは目の前で魔獣に殺されてしまったのだから。


「うん、あれから──しばらく経つから。元気とまではいかないけど……また探索できるくらいには気持ちも落ち着いたよ」


「そうか、それは何よりじゃの。じゃが、くれぐれも無理はせぬようにな」


「えぇ、ありがとう。ところで、さっきからウロウロしてるみたいだけど……誰か探してるの?」


「あぁ、ちと気になる事があってな。確証は無いのじゃが──んむ?」


 そこまで言い掛けてユーノは、ある事に気がついた。

 さっきまで探していた魔力の気配──それが、目の前の少女から感じる事に。

 ユーノは無言であやかの傍まで近寄ると、その微かな魔力を確かめるように嗅ぎ取り始めた。


「くんくん……」


「ひゃっ……!? な、なになにっ!?」


「お主……におうぞ」


 もちろんこれは『人間ヒュム以外の魔力を感じるぞ』という意味合いで放った言葉である。

 しかしながら、その真意が彼女に伝わるはずもなく。


「に、にお……っ!? ええええっ!? そ、そうなの!? わ、私って臭い!?」


 案の定、あやかは相当な衝撃を受けていた。

 非常にデリケートな話をストレートにぶつけられ、涙目になる彼女。

 思わず、自分の二の腕をすんすんと嗅ぎ始めた。


「うむ。お主というより、お主の身体に染み付いてるといった感じかの? ほのかに匂うのじゃ」


「や、やっぱり臭いんだっ!? そ、そうなんだ……しかもほのかに臭いんだ……」


 追い打ちとも受け取れる肯定の言葉に、さらなるショックを受けるあやか。

 もはや彼女の頭の中は、匂いの事でいっぱいである。

 え、そんなに? 仮面越しでもわかるほど、私って臭いの?

 そんな思考が彼女の脳内を埋め尽くす。


「ま、匂うと言ったが、正確には魔力の──」


「うぅ……ごめん! 私、があるから、もう行くねっ!?」


「あっ! お主、どこへ行くのじゃ!? ちょっと待つのじゃっ!?」


 ユーノの制止も聞かず、あやかは脱兎の如く走り去っていってしまった。

 彼女も年頃の乙女だ。体臭について指摘されれば、それはもう気になって仕方がない。

 それこそ、即帰宅してシャワーを浴びたくなるくらいには。


「あぁ、行ってしもた。なんじゃ、忙しないやつじゃのう」


 指摘した張本人は、そんなあやかの心境を知る由もなかった。


「まぁ、良い。別に急ぐ事でも無いからの……さて、妾も戻るか。そろそろ賢人もクリアしてる頃じゃろう」


 ぼそぼそとぼやきながらユーノは、固有スキルを発動させた。

 言うまでもなく、賢人の攻略状況を再確認するためだ。


 だがしかし、彼女は脳裏に表示された鑑定結果を見て──


「なん……じゃと?」


 驚愕を、吐露した。



 ◇


 

 ──そして、場面は応接間へと戻り。


「──詳しい説明は後ほど致しますが、依頼の概要は以上です」


 狐塚の説明に、瑠璃子と星奈は二人して唖然としていた。

 当然と言えば、当然の反応だ。

 魔獣とは基本的にダンジョン内でしか生存できない生物であり、滅多に外へ出てくることはないというのが、これまでの冒険者社会における通説だったのだから。


 だからこそ人々は非現実的な現象ダンジョンを受け入れ、さらには内部の資源を利用するまでになった。

 それもこれも、生活において絶対的な安全が約束されていたからに他ならない。


「それが本当なら、日本──いえ、世界中がパニックになるんじゃ……」


 だがしかし、先ほど二人が狐塚から受けた説明は、その前提を揺るがさん内容だった。

 それが起こり得るという事実が国民に知れ渡れば、大混乱は必至である。


「ええ、ですから政府も情報開示は慎重に行う予定です。それに、魔素上昇はあくまでも段階的に起こるものですから──『5分後には街中魔獣だらけに』なんてパニック映画さながらの事態は起こりませんので、その点はご安心ください」


「そう、ですか……。わかりました。でも、どうして魔素が……?」


 瑠璃子の疑問はもっともだった。

 そもそも、なぜ魔素が増えるのか。

 先ほど狐塚から受けた説明の中には、それが無かったからだ。


「瑠璃子の言うとおりっすよ。局長の言う事が本当なら、それは異常事態っす。なら、尚更そこはちゃんと説明してもらわないとウチらも困るっすよ」


 瑠璃子に同調するように星奈が指摘する。

 すると、狐塚は少しだけ困ったような表情を見せた。


「えぇ、もちろん理由は説明させて頂くつもりですが……その、今のタイミングでは少しお伝えしづらいといいますか……士気に影響があるかなと思いましてですねぇ……」


「はぁ……? 何が言いたいのかさっぱりっすよ」


「わかりました。ここは私も覚悟も決めて、お二人に伝えましょう。実はですねぇ──」


「──たたた、大変なのじゃっ!!」


 悲鳴にも近しい声が、狐塚の言葉を遮った。

 バンッとドアを乱暴に開きながら飛び込むように入ってきたのはユーノだった。

 走って戻ってきたのか。

 仮面越しでわかるほどに息を荒げながら彼女は──衝撃的な一言を放つ。

 

「け、賢人が……賢人が死んでしまったのじゃッ!!」

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