三流調剤師と一期一会

第50話

 さらりとしたものが頰に当たっていた。

 くすぐったくて、頭を振ると、さらさらとしたものは首筋に流れる。

 皮膚の上をぱらりぱらりと落ちていくその感触に、眠りが妨げられる。

 ――まだ眠っていたいのに。

 まるで沼の中にいるかのように、体は重たく、指一本とて動かしたくない。

 でもくすぐったくてくすぐったくて、どうしても我慢ができなかった。

 腕を持ち上げ、首の上にあるそれをどけようとする。しかし、手が触れる前にさらさらとしたものが離れた。


「イーリス?」


 聞き覚えのある声が名を呼ぶ。

 兄の声より高い。少女の声のようにも少年の声のようにも聞こえる。心地よい声だった。


「イーリス? 気がついたのか?」


 ゆっくりと瞼を持ち上げる。

 間近に迫るのは褐色の肌に銀の髪の……ダークエルフ?


「ラグナル?」

「良かった。イーリス」


 私はまじまじとラグナルを見つめた。長く尖っていた耳が、少し小さくなって丸みを帯びている。

 もっと長かったはずなのに。それに声も高くなっている。

 ――どうして?

 そう思った瞬間、どっと記憶が押し寄せてきた。

 風呂場にあった隠し通路。娼館にマーレイ。ラグナルの黒魔法と垣間見た容赦のない一面。そして彼に刻まれた印の再構築。


「ラグナル、戻ってる!? どれだけ戻った?」


 慌てて起き上がろうとしたけれど、うまく力が入らず後ろに倒れそうになる。


「馬鹿! 急に動くな」


 ラグナルは怒鳴りながらも手を伸ばし、私の体を支える。

 細い絹糸のような髪が頰にあたった。

 ――ああ、あのくすぐったいものはラグナルの髪だったのか。

 目の前にあるラグナルの顔に大きな変化は見当たらない。けれど声と耳には如実に違いが現れている。

 黒魔法を使う前より戻ってしまったのは間違いないが、城へ来た日よりは大人びて見えた。あの時、私に出来たのは解呪というより、再構築の妨害だった。介入しては弾かれを繰り返していたが、一応食い止められたようだ。少々戻ってしまったけど……


「えーと、ラグナル、黒魔法を使ったこと覚えてる?」


 肉体が戻った分の記憶はどうなっているのだろう? 気になって尋ねると、ラグナルは悔しそうな顔をして、手元に視線を落とす。


「ちょっと加減が上手くいかなくて……イーリスに迷惑をかけたって聞いた。ごめん」


 あるらしい。

 再構築に動いていたのは時の支配だけだった。力と記憶の封印には動きがなかったのだから、当然と言えば当然か。


「いや、元はといえば私を助けようとして黒魔法を使っちゃったわけだし、こっちこそごめん」


 そう言うとラグナルは首を横に振った。


「いや、俺が悪い。頭に血が上って、俺には使えない術を使った。もっと魔力を使わない術があったのに、あいつが、あんな格好のイーリスを……あんな……」


 ラグナルの声はどんどんしどろもどろになっていく。

 そこらへんは忘れてくれて良かったのに。


「俺、見てないから。絶対に見てないからな! 感触とか…も覚えてないから! ……っ、医術師呼んでくる!」


 叫ぶようにそう言うと、唐突に立ち上がり、ラグナルは脱兎のごとく部屋を出て行った。

 いや、本当に忘れてくれて良かったのに。



 ぽつんと取り残されて、周りを見る余裕ができた。

 ラグナルと私に割り当てられた部屋だ。二台あるベッドのうち窓側の方に寝かされている。

 外から入る光はない。バルコニーの向こうは月もない闇夜だった。魔術による光球がほのかに室内を照らしている。

 ――どれだけ時間が経った?

 風呂に入ろうとしたのはまだ宵の口だった。解呪の修行を始めたころに、今回と同じ経験を一度だけしたことがある。自分の限界を超えて倒れたのだ。あの時は確か一刻ほど気を失っていたはずだ。兄に『三度目は命がないと思うように』と釘を刺されたのを思い出す。これで二度目。次はない。

 はあ、とため息をついて力を抜くと、右手がじくじくと痛みを訴え出した。白い包帯に血が滲んでいる。剣を強く握りすぎたのだ。しかも利き手でやってしまっている。

 もう一度、ため息をついたとき、扉がノックもなしに開いた。

 ルツとノアが顔をだす。


「イーリス! 気がついたのですか」

「おはよー、イーリス。どうせなら朝まで寝ときゃ良かったのに。あれ? ラグナルは?」


 ルツはホッとした顔で、ノアはあくびをしながら部屋に入ってきた。


「ご心配をおかけしたみたいで、すみません。ラグナルは医術師を呼んでくるって出てったけど」

「あら、じゃあ行き違ったんですね」

「あの、私どれぐらい気を失ってましたか?」

「一刻半ぐらいです。目を覚ましたラグナルが、心配して傍を離れようとしなくて……」


 ルツがふふっと笑ってそう言ったのを最後に、しんと部屋に沈黙が降りた。

 なんともいえない微妙な空気が漂う。

 彼らの目の前で解呪の力を使ってしまったのだ。もう言い逃れはできない。


「その、イーリス……」


 言いにくそうにルツが口を開いて、しかしすぐに閉じてしまう。

 なんと切り出したものか、切り出していいか迷っているらしい。


「イーの解呪ってへんな力を使うんだね」


 気遣いの人である姉と違って、ノアには全く遠慮がない。


「魔力切れでぶっ倒れたと思ってさ、いろーんな魔力回復薬を試したけど、効いてるのか効いてないのか全くわかんなかったんだけど」

「効いてない……です」


 イーの解呪の力は血に宿る力だ。魔力回復薬を飲んでも意味はない。不便だけれど、だからこそ解呪は支配を免れた。


「こないだ手に入れたばかりの狒々神の角から抽出したやつも使ったんだけど、無駄だったってこと?」


 私は慄きながら首を縦にふった。原材料が狒々神の角の回復薬などいくらするのか見当もつかない。


「あとこれ。この金平石どうなってんの?」


 ノアはローブをごそごそと探ると、小さな石を取り出した。もとは澄んだ蜂蜜色だった金平石は濁って輝きを失っていた。


「あー、ごめんなさい。それ、もう使えない」


 力を通しやすくするために、とにかくでっかいの! と思って選んだけれど、よくよく見れば親指の爪ほどもある。これを粉にして使えば、何回分になっただろうか。


「イーリス、僕に貸してって言わなかった?」

「言った……ような気がする」

「ふーん」


 ノアの視線が痛い。


「えーと、弁償します。いくらぐらい?」


 龍涎石を売ったお金で足りるだろうか? 冷や汗をかきながら返答を待っていると、ノアは石をローブにしまった。


「まあ、いいや。見物料ってことにしておいてあげる」


 なんて太っ腹! さすがモーシェのぼんぼん!

 そう私は素直に感謝したのに、なぜかノアは眉をしかめてしまったといった顔をした。


「……一応、言っておくけど、解呪に対しての見物料だから」


 言われなくても分かってます。

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