第49話
「ルツ、無事だね。ラグナル、走るの速すぎ。……っイーリス、なんて格好してんの!」
部屋の中を見回したノアは、まずベッドの上のルツに気付いて、安堵の表情を浮かべ、次にラグナルを見て文句を言い、最後に声をひっくり返して、フードを目深に被った。
――そういえば……
私は恐る恐る自分の体を見下ろした。襟を押さえていた手を離してしまっている。帯はさっき座っていた椅子の下に落ちていた。
つまりまた入浴着がはだけているわけで……
「イーリス。腕を放してやったほうがいい。茹で上がるぞ」
キーランがそっと顔を背ける。
胸に抱きこむように掴んでいた腕を辿ると、今までで一番赤くなったラグナルの顔。その目は虚ろなようで、一点を凝視している。
マーレイに裸を見られても別になんてことはなかった。だって彼が見ていたのは臍に刻まれた印だ。ラグナルに吹き飛ばされて気を失っている男も、つまらなそうな顔で腹を見ていたし、見張りに立っていた男は、あっというまに扉の下敷きになった。
だからなのか、羞恥はあまり感じなかったのだ。これからどうなるのだろうという不安や恐怖のほうが大きかったし。
――今が一番恥ずかしい……
「ラグナル、その、ごめんね」
私は慌てて腕を放し、再び入浴着をしっかり合わせて、帯を拾って巻きつけた。
ひとまず安心だ。
「なに、これでよし、みたいな顔してんの。それ入浴着だよ? 馬鹿なの?」
間近で声がしたと思ったら、緑色の布が体にかけられた。ノアのローブだ。ルツにはキーランが上着を渡している。
「ありがとう」
前面素っ裸に比べて格段に防御力が上がった気になってしまっていたが、確かに薄手の入浴着で安心はなかった。
「あのー、ラグナル? 誓ってわざとじゃなくて……」
ラグナルは腕を見詰めたまま動かない。
いきなり痴漢行為にも等しい真似をされては動揺もするだろう。何せ多感な年頃だ。
「ラグナル、鼻血出てるんだけど。引くわー」
ノアが嫌そうな顔で指摘する通り、つっと鼻から溢れた赤い雫が唇を伝って落ちて、服に染みをつくる。
……次々と彼に黒歴史を積み重ねさせている気がする。もう、ゼイヴィアが言っていた、記憶が戻ったら記憶喪失中のことを忘れていたって例に懸けたい!
「さっさと拭きなよ、いつまで呆けてんの?」
微動だにしないラグナルをノアが突くと、ふらり、とラグナルの体が前のめりに倒れた。
「は!?」
咄嗟にノアが手を出すが、体重を支え切れなかった。二人は揃って床に倒れこむ。
「いってぇ、ちょっとラグナルいい加減にしてくれる。いくらなんでも大袈裟でしょ」
ラグナルにのし掛かられる形になったノアは、文句を言いながらその体を押しのける。
最初に異変に気付いたのはルツだった。
「イーリス!!」
悲鳴に近い声で名を呼ばれ、私はハッとしてラグナルの傍に膝をついた。
シャツをめくり、息をのむ。
「印が……」
「なに、これ。再構築しようとしてるの? 嘘でしょ……」
ノアも気づいたようだ。床で打ったらしい腰をさすりながらラグナルの背中に目をやる。呟いた声はかすれていた。
ラグナルの背中に刻まれた印は急速に力を持ち始めていた。
「キーラン、短剣を!」
キーランは何も言わずに腰の剣帯から短剣を抜いた。私はそれを受け取ると、指先に刃を滑らせた。
解呪した印の再構築など、聞いたこともない。
けどこれがルツの言うように魔女のつけたものだとしたら、人間の常識など通じない。
血の滴る指先を印に押し当てた。
何が起きているのか探ろうと、目を閉じて意識を集中させる。
隣でノアがキーランに男たちを外に放り出してと指示している声が聞こえた。体を引きずる音。困惑するトリスタンの声。布の裂ける音。たくさんの物音が遠ざかっていく。
ラグナルの印を読み取ろうとすると、いつも渦巻く激流に身を投じるような底の見えない恐怖を感じる。引き摺り込まれそうになる意識をぎりぎりの縁で保たなければならない。長く細く息を吐き、綱渡りをするように慎重に慎重に覗き込み……
そっと目を開け、血のついた指を印から離した。
力と記憶を封じる部分には動きがない。支配の力だけが増しつつある。
――時が巻き戻ろうとしている。
原因は黒魔法を使ったことだ。
以前も感じた通り、力の封印は完璧じゃなかった。どうやら彼は封印を免れた己の魔力を使い、時の支配を押しとどめていたらしい。それが黒魔法を発動させたことにより支配に抗うための魔力が足りなくなってしまったのだ。
ずっと抱いていた疑問が解けた。
ラグナルがなぜコールの森の中で子供になってしまったのか。
以前から黒魔法を使わなかったことから、この印が最近刻まれたものではないのは分かっていた。
ずっと大人の姿を保っていられたのに、あの森で子供になってしまったのは、おそらく二角の灰熊獣のせいだ。狒々神を追う最中に遭遇して、黒魔法を使わざるをえなかったのだろう。
大人の状態から6、7歳に戻った。なら今の状態から逆行したらどうなる?
ルツは言っていた。城に運び込まれた人は逆行して跡形もなく消えたと。
――ラグナルが、消える?
森で見つけたときは何を考えているのかわからない子供だった。でも次の日には甘えん坊になって、その次はしっかり者になって、生意気になって、怒らせると怖くなって……
毎日、明日はどうなっているのだろうと、怖くもあったけれど、楽しみでもあった。
ゆっくりと、でも順調に解呪は進んでいた。
なのに、今になって、巻き戻って、消える?
力が抜けそうになる両手を、きつく握りしめる。
そんなこと、させてたまるか!
「ノア、ルツのワンド持ってきてる?」
魔術師の持つスタッフやワンドには力を増幅させる石や素材が組み込まれている。ワンドなら金平石が入っている可能性が高い。
「ルツのはない。僕のなら……」
私は思わずノアを見た。印術を嫌って家を出奔したノアが、ワンドを所持していることが意外だったのだ。
「素材は?」
「淡雪石、青丹石、金平石、松風の木」
高級素材ばかりだ。私が言うのもなんだけど、モーシェのぼんぼんめ。
「金平石、貸して」
「金平石?」
「いいから、貸して」
ずいっと手のひらを出すと、ノアは懐から小ぶりのロッドを取り出した。
先端に棒状の大きな青白い石が輝き、その根本にくすんだ緑色の石がはめ込まれている。
ノアはワンドを床に置くと、スタッフを手に持つ。ぶつぶつと呟くように詠唱し術を編むと、ワンドの柄の部分を突いた。木が砕けバラバラと金色の石がでてくる。
10粒ほどある金色の石の中から一番大粒のものを選ぶと、私はキーランの短剣を握りしめた。
皮膚の裂ける感触がする。
手を開くと、ぼたぼたと血が滴った。血まみれになった掌で金平石を掴み、ラグナルの印に当てる。
ぐっと握った拳に力を入れると、いく筋も血が溢れて流れ出し、ラグナルの背中を染めていく。
私は再び目を閉じて、印に意識を滑り込ませる。これまで私が解いてきた封印は無視だ。解呪で生じたほつれから、ラグナルの魔力によって食い破られようとしていた支配に焦点をあてた。解けたより紐が絡まり合おうとしているその先端をさぐり、ありったけの力でそれを阻む。
全身の血の力を掌に。掌からラグナルの印に流し込んだ。
介入を拒む印を力づくでねじ伏せ、弾かれ、またねじ伏せる。
そうやってどれほどの時間が経っただろうか。
私の意識は唐突に途切れた。
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