第48話

 マーレイの隣に立っていた男が、すっと剣を抜いた。

 扉の前にいた男は、巻き添えを食って倒れている。

 マーレイは立ち上がり、驚きの表情を浮かべてラグナルを見ていた。

 そういえば外にも一人いたはずなんだけど、どうなったのだろう?


「イーリス、許可を」


 ラグナルが静かな声で許可を求める。その平坦さがかえって怖い。

 腐ってもマーレイは貴族だ。殺してやると言われた後に、許可を求められても、とても困る。あとあと面倒なことになるのは必須である。ああ、でも彼らには私の出自がばれてしまっているのだった。なら、いっそのこと……って、駄目だ。混乱しすぎて、馬鹿な考えしか浮かばない。

 私がオロオロしている間に、剣を抜いたリーダー格の男が、ラグナルに向かって足を踏み出した。

 長い刃が灯りを反射して鈍く光る。

 それを見て私は叫んだ。


「こ、殺さない程度に許可します!」


 ラグナルは小さく頷くと、左手を男に向かって突き出した。

 ドンッと衝撃音が鳴り、男の体が宙に浮いたかと思うと、背後に飛び壁にぶつかって止まる。

 魔術具も詠唱も必要としないダークエルフの黒魔法。構築の時間でさえ一瞬だ。その威力を目の当たりにして、室内の人間は誰一人動くことができなかった。


「そんな……。黒魔法は使えないはずでは……」


 マーレイが呆然と呟く。

 ラグナルを捉えて売り払おうとしていただけあって、彼の情報を集めていたらしい。

 吹き飛んだ男は壁に体を預けたままピクリともしなかった。

 虫けらを見るような目をしたラグナルの視線は、マーレイを素通りし、私を背後から拘束している男で止まる。


「その手を離せ」


 ごくりと唾を飲む音が、耳のすぐ横で聞こえた。

 男は、私の右腕の拘束を解くと、左腕を強く自分に向かって引いた。

 背中が男の付けている胸当てに当たった。


「動くな!」


 鞘から剣を引き抜く音がする。私が邪魔で左腰の長剣は抜けないから、おそらく右腰に差していた短剣を抜いたのだろう。顎の下に風を感じて、目だけを動かすと銀色の刃の端が見えた。

 喉元に剣を突きつけられて、恐怖を感じないほど豪胆な人間ではない。足の裏から悪寒が突き抜け、私は震え上がった。冷たい床の上に裸足で立っている上、ほぼ裸なせいもちょっとあったかもしれない。


「手を離せ」


 ラグナルの声はどこまでも凪いでいた。


「う、動くな! この女がどっ……ひっ、な、なんだ、これは」


 カタカタと男が震えだす。その気持ちはわかる。ラグナルの影がずるりと伸びて男の足元に這い寄ったのだ。その光景は軽くホラーだった。でも……腕の震えだけは頑張って抑えて!

影は男の体を這い上り、私に短剣を突きつけている腕にも絡みつく。


「やっ、やめろ、出て行け、やめてくれえっ」


 何をどこから追い出そうとしているのか、男は私を突き放すと、我武者羅に腕を振りまわす。と、次の瞬間にかくんと膝が折れて前のめりに倒れた。影はとっくに消えており、男には傷一つついていない。なのに、男は小刻みに痙攣して白目を向いていた。その光景は完璧にホラーだった。

 マーレイは血の気を失った顔で呆然と佇んでいる。

 多分、私も似たような顔色をしているだろう。

 室内は静まり返っていた。

 壁に激突して死んだように動かない――死んでないよね!?――男の前を横切り、床で伸びている男の傍に来ると、ラグナルはその腹を蹴りつける。


「うひっ」


 喉が引き攣れて変な声が出た。

 男を見下ろしていたラグナルがゆっくりと顔を上げた。黒い瞳が私を映す。


「遅くなって、ごめん」


 褐色の指が伸びて、はだけていた入浴着をそっと合わせる。


「あ、ありがとう」


 私は襟を掴んでしっかりと体を隠した。思わず、後ろに引きそうになった足をなんとか止める。

 助けに来てもらっておいてなんだけど……

 ――ダークエルフこえええええええ

 そう思ったのは私だけではないはずだ。マーレイは立っているのが不思議なぐらい真っ青だし、ベッドの上のルツは固まっている。


「少し後ろを向いててくれ」


 ラグナルは微かに目を伏せると、硬い声で言う。


「あの、ラグナル? どうして短剣を抜くのかな?」


 いつの間にか帯に差した鞘にしまわれていた短剣を、抜き放つラグナル。その切っ先が向けられた先にいるのはマーレイだ。


「黒魔法では殺せない」


 殺さない程度に許可しますと言ったから、命をとるときは剣でって……そんな解釈あり!?


「ま、待って、殺すのはちょっと……」


 一瞬、私も血迷ったけど、すっかり抵抗する気力を喪失している今のマーレイをどうこうするのは寝覚めが悪い。何より、まだ少年のラグナルにそんなことをさせたくなかった。


「そうですよ。殺すのは勘弁してください。その人、一応大事な証人なので」


 ――え?

 聞き覚えのある声がした方を見れば、扉のあった場所に誘拐犯その二ことトリスタンが立っていた。

 ラグナルは無言で左手を男に向ける。


「ちょっ、ちょっと、話をっ」


 男はうろたえながらも、廊下に出て壁の後ろに逃げた。

 直後に、男がいた場所の背後の壁に何かがぶつかる音がする。リーダー格の男を吹き飛ばした黒魔法と同じものだろう。


「あの、俺はマーレイ様の配下じゃありませんから。さっき、道を開けてあげましたよね!?」


 壁からひょっこりと顔だけを出したトリスタンは涙目だ。


「お前がなんだろうと関係ない」

「そんな殺生な!」


 ラグナルの眼差しは、しつこい油虫を見るそれだった。

 再びラグナルが左腕をトリスタンに向けたとき、階下が俄かに騒がしくなったのに気づいた。悲鳴に混じって聞き覚えのある声がする。

 彼らの声を聞いて、これほど安堵したことはない。


「ラグナル、ちょっと落ち着こう」


 トリスタンはマーレイの配下ではないという。思い返せば彼の言動に首を傾げるところはいくつもあった。どこの誰かは知らないが、敵ではないらしい。


「俺は落ちついている」


 ラグナルの声はどこまでも冷淡だった。その声音は、確かに冷静なように感じるが、どう見ても静かに切れている。


「うん、じゃあ、一回その手を降ろそうか」


 ラグナルは動かない。ならば仕方がない実力行使だ。

 私はラグナルの腕を両腕で掴んだ。そのまま下に……降ろそうと思ったのに、動かない。

 ほんの数日前は抱え上げられたのに!

 私はラグナルの腕を強引に抱え込んだ。これなら黒魔法を放てまい。……私ごと吹き飛ばそうとしない限りは。

 ぐっとラグナルの腕を抱き込みながら冷や汗をかいていると、階段を駆け上る音が響く。


「ルツ、イーリス、ラグナル、無事か?」


 そう言って部屋に飛び込んできたのは、思った通り、長剣を手にしたキーランと息を切らしたノアだった。

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