「首のない兵士の死体を観たい」―吉野ヶ里遺跡(佐賀県)



 ある日、古墳・はにわ大好きなうちの娘が言いました。

吉野よしのヶ里がり遺跡に行って、首のない兵士の死体を観たい( ー`дー´)キリッ」

「えっ?Σ(゚д゚lll)ガーン」

 いったいどんな厨二病かと……ハハとして、一瞬不安になりましたよ💧


 しかし、動機はどうあれ、かの有名な吉野ヶ里遺跡を一生に一度は観てみたい。遺跡好きなら行かねばならんだろう、という妙な使命感にもえました。


『国営吉野ヶ里歴史公園』


 ……「国営」ですよ、国営。これまで観てきた遺跡と資料館は県立。国指定史跡でしたが、こちらは国指定「特別」史跡です。

 感が漂っていませんか(゚Д゚)ファビュラス~?🌟

 けれども自他ともに認める方向音痴な私……佐賀県がどこいら辺にあるかを知らず(佐賀県の方、ごめんなさい)、福岡県の下(南)か熊本県の近所に行けば辿り着けるだろう、くらいにしか考えておりませんでした(義務教育からやり直せって感じですね。ええもう、すみません、九州地方の皆様)。

 調べると、広島県からは山陽新幹線で博多まで行き九州新幹線に乗り換えてJR新鳥栖とす駅へ、そこから長崎本線で現地へ向かうのと、自家用車で山陽自動車道を西行し九州自動車道で向かう、二経路がありました。

 迷わず選びましたよ、カーナビw🚙(こら・汗)

 その後も準備や運転について紆余曲折がありましたが、結局、家族全員で仲良く出かけることになりました。「首のない死体」見学ツアーです(←誤解を招く表現ですなあ)。


        ◇◇


 玄界灘げんかいなだ背振せぶり山地の南にひろがる筑紫平野では、古くから土器や銅鏡の破片が出土していました。一九七〇年代になると農地や住宅・工業団地の開発のため、各地で発掘調査が行われました。当時は主に図面や写真などを残す「記録保存」でした。

 一九八二年、工業団地計画の事前調査で、吉野ヶ里丘陵の三六ヘクタールに遺跡が存在すると判明しました。八六年からは甕棺墓、人骨、深さ三メートルの巨大V字形環濠、巴形ともえがた銅器(スイジ貝を模した盾の飾り金具)の鋳型などが出土して話題になり、一九八九年二月『魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の住んでいた集落と環濠集落』と全国的に報道されました。同年三月、墳丘墓の朱塗りの甕棺のひとつから青色のガラス製くだ玉七九点と頭飾とうしょく付き有柄ゆうへい銅剣が出土するに至り、遺跡の保存が決定しました。

 一九九〇年五月に国指定史跡に、翌年五月に「遺跡のなかの国宝級」とされる特別史跡に指定されています。



 吉野ヶ里遺跡のある台地周辺の低地では、縄文時代晩期の土器やイネのプラントオパールが出土しています。早くから稲作が開始されていたようです。


◆弥生時代前期初頭~前半(紀元前五世紀~紀元前四世紀):

 丘陵南部に最初の環濠集落が築かれます。空掘からぼりを埋める土の中から壺型土器や高坏型土器、朝鮮半島南部の遺跡(松菊里文化)と同様の特徴をもつ石包丁などが出土しています。この頃の竪穴住居は円形で、朝鮮半島由来と考えられています。


◆弥生時代前期後半(紀元前三世紀):

 前述の集落の北約一七〇メートルの丘陵尾根に、大規模な環濠集落が出現します。南北二〇〇×東西一五〇メートルの範囲(約二・五ヘクタール)に円形の竪穴住居跡や貯蔵穴が複数確認されています。

 環濠からはカキ・アカガイ・アカニシ・タニシなどの貝や、イヌ・ニホンジカ・イノシシなどの獣骨、キジ・ガン・カモなどの鳥骨が出土し、当時の食糧事情が判ります。大陸系磨製石器(太型ふとがた蛤刃はまぐりば石斧せきふ柱状ちゅうじょう片刃かたは石斧・扁平へんぺい片刃かたは石斧・石包丁など)、縄文時代の流れをひく剥片はくへん石器、青銅器鋳造に用いた炉のふいご羽口はぐち取瓶とりべといった土製品、溶けた青銅の鉱滓こうさいなども出土しています。甕棺墓・木棺墓・土壙墓が作られ始めました。


◆弥生時代中期(紀元前二世紀~紀元後一世紀はじめ):

 これまでの集落を囲んで環濠集落が大型化し、面積は二〇ヘクタールを超えました。丘陵西側の斜面に貯蔵穴が並び、付近を流れる河川を運搬に使っていたようです。

 環濠の南西部、幅約六メートルの土坑から、銅剣と銅矛の鋳型や鉱滓・錫塊などが出土し、青銅器生産工房が近くにあったようです。この鋳型から作られた細型銅矛が福岡市の板付田端遺跡から、他の銅矛・銅剣・銅戈も玄界灘周辺の弥生中期の首長墓(甕棺墓)から出土しています。佐賀地方の他の遺跡からも青銅器の鋳型が出土しており、吉野ヶ里集落が独占的に製造していたわけではなかったようです。

 また、祭壇らしい南北四八×東西四五×高さ二・八メートルの盛土遺構があり、貝殻や動物骨を入れた壺型土器が出土しています。


 縄文系の打製石器と大陸系磨製石器が、合計二万八〇〇〇点以上出土しています。磨製石器は福岡市今山・飯塚市立岩・北九州遠賀川おんががわ下流域・対馬産のもので、製品として持ち込まれていました。打製石器の材料は佐賀県内の黒曜石や安山岩です。さらに、竹簡・木簡を削る文房具だった鉄刀子(青銅の環のついた小刀)や、壊れた鋳造鉄斧の破片を加工したノミ、鉄製の蝶番ちょうつがいなど、中国産の鉄器が出土しています。

 水田だった低地からは農具や工具の柄、容器、ネズミ返しなどの木製品が出土し、中でも船形木製品(半構造船を模したものか)が土器などに描かれたゴンドラ型の船に似ていると注目されています。


 *甕棺墓列*

 弥生時代中期前半から、環濠集落北方の丘陵尾根に、約六〇〇メートルの列状墓地が築かれました。全体で約一三〇〇基の甕棺墓が確認されています。列は二〇~四〇メートル前後で区切られ、一区画が一家族(血族集団)の墓域だったようです。それぞれの墓域には際立って大きな甕棺や祭祀土坑、小規模な墳丘を持つものがあり、階層差を表していると考えられます。銅剣や鉄製品、南海産の貝殻製腕輪などが副葬されていました。

 一〇基以上の甕棺墓から、日本産の絹布けんぷ大麻たいま片がみつかっています。日本あかね貝紫かいむらさきで染められ、布目の方向を変えて縫い合わせた「袖つきの服」もありました。

 吉野ヶ里遺跡全体では、三一〇〇基以上の甕棺墓、三八〇基の土壙・木棺墓、一五基の箱式石棺墓から、三〇〇体以上の人骨が出土しています(後世の破壊や、甕棺に流れ込んだ土砂や水の影響で、保存状態はあまりよくありません)。成人男性の平均身長は約一六二・四センチメートルと、同時代の朝鮮半島南部の遺跡から出土した人骨に近く、いわゆる高身長・高顔(面長)な渡来系人骨と判明しています(*第五話・土井ヶ浜遺跡を参照)。

 甕棺墓に納められた人骨のなかには、石鏃が刺さったもの、頭骨のないもの、刀傷が存在するもの、大腿骨が折れたもの、骨は残っていなくとも石鏃や石剣の先端部があり、戦闘の犠牲者と考えられます。佐賀・福岡地方では、弥生時代中期前半~後期の出土人骨にこうした犠牲者が多く、戦争が行われていたようです。


 *墳丘墓*

 弥生時代中期前半、一般の墓群とは隔たった丘陵の北側に、南北四〇×東西三〇×高さ推定四・五メートルの墳丘墓が築かれ、一四基の甕棺が埋葬されています。墳丘墓の東側の土坑には、祭祀用土器が廃棄されていました。

 墳丘墓の甕棺は一般のものより大きく(一般は平均高一メートル弱、墳丘墓の甕棺は一・三メートル前後)、すべて外面を黒く塗られ(漆?)、内側には朱(水銀朱)が塗られていました。うち八基の甕棺墓から細形銅剣七点(二点は青銅製把頭はとう飾りを伴う)と中細形銅剣一点が出土しています。墳丘墓の表土からも石製の把頭飾りが一点と、細形銅剣一点が採集されています。

 甕棺が成人用で銅剣が副葬されていたことから、墳丘墓に埋葬されたのは身分の高い男性で、吉野ヶ里集落だけの首長ではなく、この地方全体の「クニ」の盟主と考えられます(この時期の周辺集落の墓地から、銅剣を副葬した首長墓がなくなっています)。


◆弥生時代後期(紀元後一~二世紀):

 前期・中期の環濠集落と墳丘墓全体を囲む外環濠が掘削され、南北約一キロ、東西約〇・六キロ、広さ四〇ヘクタール超の大規模集落へ成長します。外環濠は最も深いところで幅六・五メートル、深さ三・三メートルもあります。

 この頃の竪穴住居は四方の角が丸い隅丸長方形で、次第に長方形へと変化しています。中央の炉の両側に柱を二本立てて屋根を支え、壁際に一段高いベッド状の場を設けていました。

 外環濠の内側には、内濠で囲まれた区域が二つつくられ、北部を「北内郭」、中部を「南内郭」と呼んでいます。内濠の断面は逆台形で幅一・五〜二・五メートル、深さ〇・七〜一・二メートル。掘った土を外側に盛って土塁とし、その上に柵を並べていました(中国式の「城柵」か)。

 南内郭は、四基の物見櫓と、溝や柵で囲まれた大型の竪穴住居跡(六・四二×四・五八メートル)、饗応に用いたらしい盃型土器や多数の鉄製品が出土しており、首長など高階層の人々の居住区と考えられています。

 北内郭は先端が丸いA字型をしていて、夏至の日の出(東北)―冬至の日の入り(南西)軸を中心に左右対称をしています。その基部と側辺に、物見櫓らしき掘立柱建物跡が四基存在します。他に大小の竪穴住居跡と掘立柱建物跡があり、最大のものは三間×三間、一六本柱の総柱構造重層建築です(規模は一二・三×一二・七メートルです)。柱の太さは四〇〜五五センチあり、高層建築に耐えられます。内濠跡からは銅戈(戈形青銅祭器)などの祭祀遺物が出土しており、吉野ヶ里のクニに君臨する最高司祭官が住んだ特別な空間だったと推測されています。

 南内郭の西方には七〇基以上の掘立柱建物跡群があり、重要な物資を納めていた高床倉庫群だったようです。少数の竪穴住居跡と総柱建物跡(二間×二間、二間×三間のもの)があり、広場様の空白地が四箇所あることから、市とそれを管理する市楼(中国の旗亭)だと想定されています。



 弥生時代後期前半以降、吉野ヶ里集落からは墓の数が激減しました。中国の漢鏡や鉄刀を副葬した墳墓が、弥生時代中期から後期にかけて吉野ヶ里から二塚山、三津永田へと移動しながら築かれており、地域を束ねるクニの首長が共立され、埋葬地が変化したと考えられます。

 吉野ヶ里遺跡からは、島根県で出土した「伝出雲出土銅鐸」と同じ鋳型で作った兄弟銅鐸が出土しています(*第一話・加茂岩倉遺跡を参照)。弥生時代中期の集落からは朝鮮系無文土器が、後期後半になると肥後や吉備・瀬戸内系の土器が、終末期には筑前・吉備・山陰・近江・丹後系の土器が南内郭から多く出ています。

 石器は中期中頃から減少し、後期には鉄製品が増加します。武器(鏃・剣)、工具(斧・刀子・ヤリガンナ・ノミ・タガネ)、農具(摘鎌・鎌・鋤先)があり、工具と農具が七割を占めています。建物の復元作業にあたった現代の大工さんたちが、出土した工具の種類の豊富さに感嘆した逸話が残っています。


      ◇


 国営吉野ヶ里歴史公園では、集落が最大規模だった弥生時代後期のようすが再現されています。大規模な外環濠、南内郭と北内郭、高床倉庫群と市場、墳丘墓、甕棺墓などです。北内郭の「主祭殿」は高床式で、二階が首長たちの会合の場、三階が祭祀官の祈祷(神託をうける)の場として、マネキンと映像で表現されています。楼閣、竪穴住居に入ることもできます。もちろん、娘希望の「首のない死体」にも、レプリカですが対面できました🌟


 なにしろ規模が大きいので、事前に下調べをして行くことをお薦めします(公式HPに写真が多数あります)。私達は途中まで園内を巡るバスを利用しましたが、うっかり内濠にはまって出られなくなったり、南内郭の出口を間違えて遠回りしたりしました(;^_^A

 最近、各地の史跡ではボランティア・ガイドの皆さんが催し物をして下さり、弥生時代の土器づくりや鉄器・銅鏡づくり、コスプレや火熾しなどを体験させて下さるので、そういうのに参加するのも楽しいです(新型コロナの流行で中止や延期されている場合があります。事前にご確認ください)。



国営吉野ヶ里歴史公園 HP:http://www.yoshinogari.jp/


参考図書:

「邪馬台国時代のクニの都―吉野ヶ里遺跡」七田 忠昭(新泉社)

「古代出雲の原像をさぐる―加茂岩倉遺跡」田中 義昭(新泉社)

「日本海を望む「倭の国邑」―妻木晩田遺跡」濵田 竜彦(新泉社)

「人は何故戦うのか 考古学から見た戦争」松木 武彦(中央公論新社)

「古代の住まい〜今と昔を結ぶ家のカタチを探る」島根県立八雲立つ風土記の丘(報光社)

「土井ヶ浜遺跡と弥生人」土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム・編(アフリク印刷)

「弥生時代の歴史」藤尾 慎一郎(講談社現代新書)


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