「麦パンだ? むきパンダ?」―妻木晩田遺跡(鳥取県)



 住んでいる場所に近いというのが一番の理由ですが、毎年、家族で鳥取県の大山だいせんへ遊びに行っています。

 大山は鳥取県西部にある休火山、中国地方の最高峰(1,729m)です。日本百名山に指定されている美しい山で、特に西側(米子市側)から眺める山容は伯耆ほうき富士ふじと称賛されています。中学校時代には頂上まで登り、学生時代にも何度か行ったことがありますが、当時はその良さが解っていませんでした。大人になると素晴らしさが分かります。

 近隣の温泉(重要!)に泊って麓の『とっとり花回廊』へ出かけたり、子ども達を森林アスレチックで遊ばせたり、乗馬クラブで馬たちに相手してもらったりと、国立公園の自然を満喫しています。

 

 数年前、その大山麓の道路に不思議な標識をみつけました。『』と平仮名で書いてあります。ナニアレ?

 近眼+老眼の夫婦、自動車運転中に空目そらめして

「麦パン🍞だ?」

「え? パンダ🐼がいるの?」

「パン🥖じゃないね。ばん?」

「むきパンダ🐼?」

という会話をくり返しました。道路標識には四隅突出型墳丘墓(*第三話参照)の図があり、これが観ようによってはパンダの顔に見えるので、さらに話がややこしくなったのです。

 とにかく行ってみようと初夏の緑に萌える森の中を進み――信号なんて全くない一本道です。――駐車場に着くと、なにやら人が集まっています。

 平屋建ての建物『弥生の館 むきばんだ』の周囲にはテントが並び、焼きそばやかき氷の屋台、勾玉づくりや土器制作体験、火おこし体験、弓矢をつかった的あてゲームコーナーなどがあり、親子連れでにぎわっていました。

 『鳥取県立むきばんだ史跡公園』です。この地域で発掘された弥生時代の遺跡の紹介や、当時の暮らしについて学習するコーナー、弥生コスプレ、資料館やオリジナルグッズを販売する売店などがありました。

 子ども達は大喜びで、さっそく勾玉づくりに参加したり、鑚杵きりぎね鑚臼きりうすで火熾しをしたり、展示学習を楽しんでいました。

 ――が、この遺跡の凄さを、私達は全く知らなかったのです。


          ◇


 大山は『出雲国風土記』にて、束水臣つかみずおみ津野づぬののみことが出雲国の国土をひろげようと高志こし都都つつの三埼から余った土地を綱をかけて引き寄せ、縫いつけて美保みほの埼(現在の美保関)とし、つなぎとめた杭だとされています。伯耆ほうきの国の火神ひのかみ岳と呼ばれ、このとき引いた綱が夜見よみのしま(弓ヶ浜)になったという「国引き神話」です(*第一話参照)。大山の火山活動は約一万年前から休止していますが、その活動が伝えられてきたのでしょう。裾野は東西五〇キロメートル、南北三〇キロメートルに及んでいます。

 妻木むき晩田ばんだ遺跡は、美保湾、弓ヶ浜半島、島根半島をのぞむ大山北西の丘陵にあります。東西約二キロメートル、南北約一. 五キロメートルの範囲で、ここから発掘された竪穴式住居跡は四五〇棟、掘立柱住居跡は五一〇棟、三十九基の墳丘墓を含みます。これは佐賀県吉野ヶ里遺跡の約三倍、約一七〇ヘクタールに及び、うち約一五二ヘクタールが国指定史跡です。


 実は、日本最大規模の弥生集落遺跡なんです。「そういうことは、先に言って下さいよ……(;゚Д゚)」な気分でした(←誰にだ?)。


 この辺りに遺跡があることは大正時代から認識されていましたが、あまりに規模が大きいので、点在する個別の遺跡だと考えられていました。一九九五年にゴルフ場建設計画が持ち上がり、大規模な発掘調査の結果、ひとつの遺跡と判明しました。地元の人々と研究者の皆さんの保存運動のおかげで、一九九九年十二月に国の史跡に指定されました。


          ◇◇


 妻木むき晩田ばんだ村は、弥生時代中期後葉(一世紀前後)から始まり、古墳時代前期前葉(四世紀初頭)に終わっています。その約三〇〇〜三五〇年間に、村の規模は拡大したり縮小したり、墓域と居住域が移動したりしてきました。

 弥生時代の集落では、竪穴式住居と掘立柱建物(高床式倉庫)と貯蔵穴(口より内部が広く、断面がフラスコ形をした土坑)の組み合わせを基本とする「居住単位」が形成されていました。一軒の竪穴式住居に一家族が住んでいたと考えると、三〜五世帯程度で一居住単位をつくっていたもようです。

 弥生時代中期後葉、人々の居住が始まったばかりの妻木晩田村には、三カ所の居住単位があるだけでした。それが最盛期の弥生時代後期後葉には、竪穴式住居六七棟(居住単位七カ所)まで増加しています。その後、終末期前半に住居が激減し、終末期後半に一旦増加しますが、古墳時代前期前葉を最後に集落跡は消えています。

 同時期、丘陵下の平野ではイネ・アワ・キビなどの栽培がおこなわれ、集落もありましたが、戦闘や武器の痕跡は認められません。妻木晩田村の人々は争いを避けて高地に住んだわけではなく、クリやスギなどの森林資源を利用するために移り住んだと考えられています。


 竪穴式住居は、十五〜二十平方メートル程度の地面を深さ数十センチメートル掘り下げて床とし、柱穴に立てた柱に屋根をのせた半地下式の住居です。周囲には周堤しゅうていという低い土手や周堤溝しゅうていこうという排水用の溝が掘られていました。人為的に燃やされた建物跡から、屋根には柱・はりけた垂木たるきなどを組合せ、後の時代の木造建築の基本構造が揃っていたことが判明しています。部材には硬く腐りにくいクリ・スダジイ・ケヤキなどを用い、垂木には丸太を板状に割ったものも使われていました。ススキやヨシで葺いた草屋根と、その上に土をのせた土屋根があり、どちらも公園内に再現されています。

 竪穴式住居の形には流行があり、弥生時代中期ごろは円形→後期には円形と隅丸方形、多角形、三角形など→古墳時代には方形に統一されていきました。

 弥生時代の人々は木材の性質を理解して使い分けており、すきくわなどの農耕具には硬くて重いカシ類、椀や壷には硬く木目が美しいヤマグワやサクラ、弓には弾力のあるイヌガヤなどを利用していました。

 ボーリング調査による花粉分析から、居住域周囲にはアカマツと落葉樹・広葉樹の混じる森が広がり、タンポポやヨモギ、ササが生える草地がありました。人々は森林資源を建材や道具に加工して利用しつつ、コメ・アワ・ヒエ・マメ・キビなどを栽培し、モモやクリ・トチノミ・ワラビやキノコなどを採集し、漁労や狩りを行っていたようです。

 


 遺跡からは、頭に大きな羽根飾りをつけた人物(シャーマン?)と竪穴式住居を描いた「絵画土器片」、舶来品のガラス玉、後漢でつくられた内行花文鏡の破片(きょう:割れ口が丁寧に磨かれていて、破片の状態で使われていたもの)のほか、墳墓に供えられていた供献土器、出雲の花仙山産の碧玉と砥石などが出土しています。

 鉄器は袋状鉄斧・ヤリガンナ・刀子とうすのみ・穿孔具などの木材加工用道具が四〇〇点以上出土しています。工房跡には鉄加工の際にでる不定形な鉄片も出土していますが、素材は朝鮮半島産です(弥生時代に山陰で製鉄を行っていたことを示す遺構は見つかっていません)。

 弥生時代後期後葉の両側にひさしをもつ大型の掘立柱建物跡があり、柱穴の太さ床面積とも他とは格段に大きいものでした(庇をのぞく長辺六. 八メートル、短辺三. 四メートル)。広場を囲む三重の環濠もあり、祭祀施設だったと考えられています。



 妻木晩田遺跡・洞ノ原どうのはら地区には、弥生時代後期前葉(一世紀後半)から中葉(二世紀前半)にかけ大小十七基の墳丘墓が造られました。墳丘の形は方形と、出雲地方との関連を示す四隅突出型墳丘墓(*第三話参照)が交ざっています。長辺が七メートルを超える大型のもの、六~四メートルの中型のもの、三メートル以下の小型のものがあり、表面は貼石はりいしでおおわれていました。小型墳丘墓の墓壙ぼこうは一辺が一メートル以下であり、「子どもの墓」だったろうと推測されます(当時は遺体を骨にしてから改葬する風葬の習慣はなかったため)。大中の墳丘墓六基に比し、小型墳丘墓は十一基もあり、子どもの生存率の低さをうかがわせます。

 洞ノ原地区で墓丘が造られなくなった弥生時代後期中葉~終末期前半、古墳時代前期はじめには、仙谷地区に九基の墳丘墓が造られました。うち四隅突出型は二基のみです。古いものは複数の墓壙をもつ家族墓的なものでしたが、次第に子どもの墓は外され、特定の個人が埋葬される形式に変わっていきました(貼石も無くなりました)。集落を束ねる首長の墓になったと推定されます。村が終焉を迎えた頃に築かれた仙谷8号墳には、約三キロメートル離れたところから運んだ安山岩で石棺が組まれていて、弥生時代の墳墓としては特異です。


 妻木晩田遺跡周囲には古墳時代の古墳も多数存在します。いずれも弥生時代の墳墓を壊さないよう築かれていて、この地にゆかりのある人々(子孫?)が聖域としていたのだろうと推測されています。


          ◇


 むきばんだ史跡公園内には、二世紀頃の村の風景を再現した区画があり、複数の竪穴式住居と高床式倉庫が復元されています。ここからは淀江よどえ平野を一望でき、その向こうの弓ヶ浜、島根半島、日本海まで眺められます。晴れた日には大変気持ちよく、人々が三〇〇年に渡りこの地で暮らした理由が分かるように思います。森林資源の枯渇や古墳時代の社会情勢に伴い、人々は村から去ったようです。


 佐賀県吉野ヶ里遺跡にも通いました。こちらは面積だけでもその三倍……いったい何回通えば全貌を知ることができるのだろう? と、とても楽しみです。


 そして、私はこの遺跡の名前を正確に言えない呪いにかかっているらしく、毎回「ばんだ遺跡?」「違う。むきン🥐だ?」「あー、むんだ🐼ね!」とやっています……(スミマセン)。




鳥取県立むきばんだ史跡公園 HP:https://www.pref.tottori.lg.jp/mukibanda/


参考図書:

「日本海を望む「倭の国邑」―妻木晩田遺跡」濵田 竜彦(新泉社)

「出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群」渡辺 貞幸(新泉社)

「甦る弥生の国邑 妻木晩田遺跡(改訂版)」鳥取県立むきばんだ史跡公園(合同印刷)

「古代の住まい〜今と昔を結ぶ家のカタチを探る」島根県立八雲立つ風土記の丘(報光社)

「吉備の弥生時代」岡山大学埋蔵文化財調査研究センター・編(吉備人出版)

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