「勾玉おひとつ、いかがですか?」―西谷墳丘墓群(島根県)



 島根県の話題がつづいていますが、ちょっと気分を変えて古代の装身具の話を。


 島根県の宍道湖の南岸、国道9号線沿いに「いずもまがたまの里伝承館」があります。ここは商業施設で、観光客にも有名。到着すると威勢のいい館長さんが案内してくださいます。


 松江市玉湯町玉造たまつくり温泉付近には、花仙山かせんざん(玉作山、標高199.3m)という山があり、ここから産出する碧玉(出雲石と呼ばれました)や瑪瑙メノウ、水晶は質がよく、古代から珍重されてきました。玉を加工する専門の技術者集団の住む里(忌部いみべ神戸)があったのです。出雲地方にある約百ヶ所の玉作り工房遺跡のうち、六十ヶ所が花仙山周辺に集中しています。弥生時代前期から古墳時代終末期前半(七世紀前半)まで作られ続け、一旦終了したのち、奈良時代(八世紀)から再開され平安時代まで続いたとされています。

 玉造温泉は出雲国造いずものくにのみやつこが就任の際に身を浄める温泉です。この時に玉(御沐之忌玉)を使いました。また『延喜式』には出雲国造が代替わりごとに神賀詞かんよごとを天皇に奏上し、この地で作られた玉を献上したことが記されています(七世紀後半〜九世紀)。


 「いずもまがたまの里伝承館」は、出雲型勾玉(尾が長く先端が丸い)を現在も生産する唯一の施設です。伝統技術を伝える職人さんたちのお仕事を拝見でき、加工体験や小さいお子さんは「宝探しゲーム」も楽しめます。瑪瑙だけでなく各種の石を加工したアクセサリーの販売があり、展望レストランでは宍道湖を眺めながら出雲そばを食べられます。

 私個人的には、こちらで展示されている瑪瑙原石と、NHKドラマ『大化の改新』や『聖徳太子』で実際に俳優さんたちが身につけた玉製品――正式には「美保岐みほぎ玉」といいます――の実物を拝見できるのが嬉しいです。飛鳥時代に天皇家で使用されていた玉は、濃緑(青玉、青めのう)の勾玉、白の小丸玉、濃赤(赤めのう)の管玉を順に繋いだもので、冠のように頭にまたは首飾りとして身につけました。勾玉は横向きではなく、尾が上を向くようにつけるのが正式です。


     ◇


 古代の装身具は貝製の腕輪や首飾り、動物の牙や角を加工したものや土器で作ったものなどが発掘されています。

 玉は縄文時代の遺跡から出土しています(七千年前〜)。関東〜東北地方では新潟県糸魚川いといがわ地方産の翡翠ヒスイ(硬玉)が有名ですね。縄文時代には勾玉ではなく、丸〜楕円形の大珠タイシュや斧型に加工されていました(前三千年~前二千年)。国内ではこの場所でしか採れないので希少価値があり、翡翠(日本のものは硬性ヒスイ輝石)は平成二十八年に「国石」に指定されました。


 勾玉の原料は翡翠だけでなく、碧玉、瑪瑙メノウ、水晶、緑色凝灰岩、滑石、クロム白雲母、琥珀コハク、埋没木(石化した古代木)、真珠などが使われていました。縄文~弥生時代までは緑色の石が中心ですが、次第に赤い琥珀や赤瑪瑙が加わり、古墳時代になるとカラフルなガラス製品や金属製の玉が増えていきます(奈良県斑鳩町 藤ノ木古墳など)。

 出雲の玉加工は独特の片面穿孔式で、北九州や奈良県の遺跡(橿原市曽我遺跡)からは出雲の玉作りの技術者集団が移り住んでいたことが分かっています。


 記紀神話にて天照アマテラス大御オオミカミ須佐之男スサノオノミコト誓約うけいを行った天の真名井まないは、意宇おうかん名樋野なびぬ(茶臼山、標高171.5m)の南麓にあります(注*)。この地には出雲国府、国分寺などが置かれていました。天照大御神の身につけた勾玉や、三種の神器の八尺瓊やさかにの勾玉は、出雲式勾玉であろうと言われています。



『古事記』には、出雲の八千やちほこの神(大国主命)が高志こしのくに(越国)の沼河ヌナカハ比売ヒメを娶る妻問いの歌が載っています。


*八千矛神の妻問い歌

  八千矛の 神のみことは 八島やしまくに つまきかねて 遠遠とほとほし 高志国に

  さかを ありと聞かして くはし女を ありと聞こして 

  さよばひに あり立たし 婚ひに あり通はせ 

  大刀たちも いまだ解かずて おすひをも いまだ解かねば 

  嬢子をとめの すや板戸いたとを 

  押そぶらひ わが立たせれば 引こづらひ わが立たせれば 

  青山に ぬえは鳴きぬ さ野つ鳥 きぎしはとよむ 

  庭つ鳥 かけは鳴く うれたくも 鳴くなる鳥か 

  この鳥も 打ちやめこせね いしたふや 天馳あまはせ使づかひ


沼河比売、いまだ戸を開かずて、内より歌ひて曰く、

  八千矛の 神のみこと ぬえ草の にしあれば わが心 浦渚うらすの鳥ぞ

  今こそは 我鳥わどりにあらめ のちは 汝鳥なとりにあらむを

  いのちは なせたまひそ いしはふや 天馳使

  青山に 日が隠らば ぬばたまの は出でなむ 朝日の 笑み栄え来て

  たくづのの 白き ただむき 沫雪あわゆきの 若やる胸を そだたき たたきまながり

  真玉手 玉手さしき 股長ももながに はなさむを あやに な恋ひ聞こし

  八千矛の 神の命

とうたひき。かれ、その夜は合わずて、明日くるひの夜御合したまひき。


――大意は以下の通りです。

 大国主命が越国のヌナカハ姫に求婚しようと、姫の家に着いて歌った歌。

「私は日本中で思わしい妻を得ることができず、遠い越国に聡明で美しい女性がいると聞き、求婚に通っている。大刀の緒も襲もまだ解かないで少女の寝ている家の木戸を押し揺さぶり、引き揺さぶって立っていると、青山ではもう鵼が鳴いた。野の雉はけたたましく鳴いている。庭の鶏は鳴いて夜明けを告げている。いまいましく鳴く鳥どもだ。打ち叩いて鳴くのをやめさせてくれ、空を飛ぶ使いの鳥よ」


 ヌナカハ姫は戸を開けず、中から応えて

「八千矛の神の命よ。私はなよやかな女ですから、浦州にいる水鳥のようにあなたをお慕いしています。今は自分の意のままに振る舞っていますが、やがてはあなたのお心のままになるでしょうから、鳥たちを殺さないでください。

 青山の向こうに日が沈んだら、夜には出てあなたをお迎えしましょう。その時、朝日が輝くようにあなたは笑っておいでになり、白い私の腕や沫雪のような若々しい胸を愛撫して、玉のように美しい私の手を枕に、脚を長々と伸ばしておやすみになるでしょう。だから、あまりひどく恋いこがれなさいますな、八千矛の神の命よ」

と歌った。その夜は会わず、翌日の夜にお会いになった。

  


 沼河比売は越後国頸城くびき沼川ぬのがわ郷の女神で、糸魚いといがわ市にはこの女神を祀る奴奈ぬなかわ神社があります。

 大国主命(『出雲国風土記』では天下あめのしたつくらしし大御神)は多くの女性と結婚した神ですが、それは天下造神の役割であり、この神話は翡翠産地との交易を得たことを示しています。玉作の遺跡からは翡翠だけでなく、加工の材料として紀伊半島産の石や香川県産サヌカイトで作られた砥石がみられ、広範囲な交易が行われていたことをうかがわせます。


     ◇◇


 一九五三年、斐伊川沿いの西谷丘陵と呼ばれていた場所で、地元の中学生が土器片を発見しました。その後いくつかの土器や古墳、一九七二年には四隅突出型墳丘墓(当時は古墳時代のものと考えられ、方墳と呼ばれていた)が発見されていましたが、本格的な調査研究が始まったのは、一九八一年に島根大学に考古学研究室が発足してからです。


 西谷からは大小20以上の墳墓が出土し、大型の四隅突出型墳丘墓は四基発掘されました。特に大型の西谷3号墓は、突出部を除く墳丘主部の長軸四十メートル、短軸三十メートル、裾部からの高さは四.五メートル前後です。頂上が平らな台形をした墳丘墓で、四方の角からなだらかな羨道が伸び、「コアラのマーチ」や「布団をかぶせたコタツ」のような形をしています。


 3号墳はこの地域の墳丘墓のなかでは最古のもの(弥生時代後期後葉、二世紀中ごろ)と判明しています。建設当時は貼石はりいしに覆われ、晴れた日には白く輝いて見えただろうと想像されます。墳丘上面には少なくとも八つの墓穴が掘られ、内部に棺を納めていました(主体)。うち第1主体と第4主体は墳頂平坦面のほぼ中央に並び、土壙どこう内の棺の外側にはかく(外箱)が組まれ二重構造となっていました。

 棺の内部には厚く朱(水銀朱、辰砂しんしゃ)が敷き詰められていました。厚い部分で四センチメートル、薄い部分でも二~三センチあり、総重量は十キログラムに及びます。3号墳には他にも三つの棺内部に朱が敷かれていて、総重量は三十キログラムになります。成分分析の結果、この朱は中国大陸産でした。

 第4主体の棺の朱の面には、鉄剣一振と一連のガラス管玉が載っていました。鉄剣の材料は朝鮮半島産の鉄鉱石と判明しています。ガラス管玉は浅葱あさぎ色をしていて、長さ二十七ミリ前後、太さ七ミリ前後の二〇個が連珠状になっていました。

 この管玉は分析の結果、古代ローマ帝国内で生産されたソーダ石灰ガラスです。同様の組成のガラスは、弥生時代の日本では第1主体と2号墓で発見された管玉しか発見されていません。同じ3号墓の第1主体の棺からは、コバルトブルーに輝く鉛バリウムガラスの勾玉二個や、碧玉の小型管玉、ガラス製の玉類が出土しています。


 3号墓の複数の被葬者の棺の上には、朱が塗られた直径十センチほどの饅頭型の石が置かれていて、「石主せきしゅ」と名付けられました(被葬者の霊が憑依ひょういした依代よりしろとの考えから)。

 第4主体の石主は、周りに玉砂利が敷かれていました。棺は、太さ五〇センチほどもある四本の掘立柱で囲まれ、二百二十個以上の土器が上に置かれていました(第1主体には柱はありませんが、土器は百十個以上置かれていました)。

 土器のうち60%は出雲のもの(鼓形器台と低脚杯、壺のセット四十五組)、21%は丹越系(器台と壺のセットと脚付き壺、四十六点)、14%は吉備地方特有の葬祭土器(特殊器台と特殊壺のセット、三十二点)です。丹越系の土器の胎土は出雲地方のものなので、丹越地方から移り住んだ人々がこの地で作ったのでしょう。吉備地方の土器の胎土は吉備地方南部のもので、完成品を運んできたようです。



 弥生時代の四隅突出型墳丘墓は、広島県の中国山地から山陰、福井県(小羽山3号墳)、富山県(富崎3号墳)、福島県(舘ノ内1号墓)まで分布が確認されています。

 舶来の水銀朱や装身具、大量の土器などから、この時代の出雲には、朝鮮半島や吉備、北陸地方とさかんに交易や外交を行っていた王権があったものと考えられます。

 弥生時代中期~後期、朝鮮半島には漢帝国の楽浪郡があり、極東アジアの文化・物流の拠点でした。遠いローマ帝国産のガラスも中国産の水銀朱も、ここで取引されていたのでは。その場合、日本からは生口(奴隷)が支払いに使われていたのでは。辰砂三十キログラムは、当時の価格で生口十人分に近かった――などと推測されています。


 二〇〇〇年三月、西谷墳墓群は国の史跡に指定されました。二〇〇四年四月、「西谷墳墓群史跡公園・出雲弥生の森」が暫定公開され、二〇一〇年四月に博物館がオープンしました。復元された四隅突出型墳丘墓とともに、弥生時代の祭祀を再現したジオラマ、土器や美しいガラスの勾玉・管玉を観ることができます。




(注釈)「意宇」の地名と「カンナビ」山については、第一話と二話をご参照下さい。神名樋野の「野」は、樹木の少ない山や山裾の傾斜地のことです。


いずもまがたまの里伝承館 HP: https://www.magatama-sato.com/

出雲玉作資料館 HP:http://www1.city.matsue.shimane.jp/bunka/bunkazai/shiryokan/izumotamasakusi/izumotamasaku.html

出雲弥生の森博物館 HP:https://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1244161923233/index.html

島根県立古代出雲歴史博物館 HP:https://www.izm.ed.jp/



参考図書:

「月刊目の眼 2020年2月号(出雲と大和 古代のたま)」目の眼編集部

「月刊目の眼 2017年9月号(勾玉 日本美のはじまり)」目の眼編集部

「人はなぜ戦うのか―考古学からみた戦争」松木 武彦(中央公論新社)

「出雲王と四隅突出型墳丘墓―西谷墳墓群」渡部 貞幸(新泉社)

「玉TAMA―古代を彩る至宝」古代歴史文化協議会・編(ハーベスト出版)

「古事記の装い」荒神谷博物館・編(谷口印刷)

「古代人の姿―出土品から紐解く古代人の姿と美の意識」島根県立八雲立つ風土記の丘・編(千鳥印刷)

「出雲国風土記(全訳注)」荻原 千鶴(講談社学術文庫)

「古事記(全訳注)」次田 真幸(講談社学術文庫)

「解説 出雲国風土記」島根県古代文化センター・編(今井出版)

「出雲国風土記紀行」島根県古代文化センター・編(山陰中央新報社)

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