第3章 お兄様を婚約させたい!!

第13話 第一王子ケヴィンと第二王子ロビン

 王城の廊下は開放的で明るい。

 ロビンが王城に帰宅したのは夕方のことだったが、夏の今はが西の柱廊の向こう側に移動しつつもまだ高いところで照っていて、照明が必要ないくらいだった。


 北のほうから潮風の香りがする。


 王城は海のすぐ近く、海へ流れ込む大河の岸辺に建てられている。少し河を下ればすぐ港に出ることができた。それがパランデ王国の栄える理由でもあり、同時に奪い合われる原因でもあった。


 パランデ王国はロビンの祖父の代に興った家で、ロビンの代でようやく三代目である。

 ロビンの祖父は無名の騎士からの成り上がりで、たったひとりで軍をまとめ上げてかつてこの地にあった王国を乗っ取った豪傑だ。

 しかしこの偉大な祖父が暗殺されて以来パランデ王国はぱっとしない。


 ロビンの父は凡庸な人だ。

 そして凡庸であるということは王位にある人間としては罪である。

 勇猛果敢な戦士であるオットー・ナスフやアーノルド・ナスフのような人々の率いる大軍勢に攻め込まれては、今のこの国はひとたまりもない。

 それもこれもすべて、亡くなった祖父ひとりの力によるものだったのだ。


 まして三代目にはこの上なく分厚い暗雲が立ち込めている。


 明るい城のつくりに反して、この家の将来は暗い。


 城の南側、とある部屋の前に辿り着いた。


 衛兵たちが、槍の柄尻を床につき、ロビンに向かって敬礼した。


「兄上にお会いできますか」


 問いかけると、彼らはすぐに対応してくれた。


「ケヴィン殿下、ロビン殿下がお越しです」


 部屋の中から若い男性の声が聞こえてきた。


「お入りなさい」


 ロビンは胸を撫で下ろした。


 衛兵たちが扉を左右に開ける。


 中は広い部屋だった。白い壁紙に磨き抜かれた床の清潔な部屋で、南向きの大きな窓からは沈みゆく西日が差し入っていた。


 扉からも窓からも等間隔くらいの位置に、大きなベッドが置かれている。


 そしてその上、下半身を寝具の中に入れた状態で、ひとりの青年が上半身を起こしている。


 彼はロビンの姿を見ると、優しく微笑んだ。


 ロビンは胸が苦しくなるのを覚えた。


 長く伸びた髪は細くてもつれ、毛先がちぎれてしまうために不揃いになっている。唇は乾燥して色を失っていた。痩せた頬も血が通っていないのではないかと思うほど白い。

 この季節にもかかわらず長袖の寝間着の裾から、手首が見えていた。痩せていて、ちょっとの刺激で折れてしまいそうだった。


「おかえりなさい、ロビン」


 彼――パランデ王国第一王子ケヴィンは、ベッドから降りることもできぬままに、ささやくように言った。


「よく戻りましたね。このまま戻ってこなかったらどうしようかと思っていました」


 ロビンは首を横に振りながら兄のベッドに歩み寄り、ひざまずいた。


「ロビンのすべてはこの王国のものです。けして兄上を裏切るような真似は致しません」


 ケヴィンが満足そうに頷いた。


 王子ケヴィンは生まれながらに心臓が悪かった。生まれた時には一歳まで生きられないと言われ、一歳になった時には三歳まで生きられないと言われ、三歳の時には五歳までは、五歳の時には七歳までは、と言われ、なんだかんだ言って現在二十一歳まで生きながらえていたが、事情を知っている者は誰もが彼の将来を悲観していた。


 特に、両親である王と王妃にとって、彼の心臓の病は深刻な悩みだった。


 常に帝冠を狙われているパランデ王国にとって、長男が致命的な病であることは決定的な弱点だ。

 かろうじて生をつないでいる状態の、長時間起き上がっていることもできないがために一切公務に出たことのない彼を、諸外国は実は死んでいるのではないかと噂している。

 王家が今にも滅びんとしているのならばと、攻め込もうとしている国もある。


 両親は長男の身体についてひとに知られることを恐れた。


 そして、この家はそういう教育方針なのだという体裁にすることを選んだ。


 健康で五体満足であるロビンもこの城から出たことがほとんどなかった。ロビンもまた、公務らしい公務に携わったことはない。特に外遊には連れ出されたことがまったくなく、世間ではロビンという次男が存在することすら知らない国もあるらしい。


 とはいえ、王国の民衆の多くはロビンが健康に成長していることを知っている。

 ひとの口に戸は立てられないので、中にはオットー・ナスフのようにロビンに目をつける人間もいないわけではない。

 ただ、ケヴィンの動向がまったく見えない中みんな迂闊に次の一手を打つことができずにいる。

 そこに単身切り込んで婚約を打診してきたオットー・ナスフのなんと強くたくましく図々しいことか。


 ナスフ侯国を敵に回さずに済むことは、この国にとって何にも替えがたい幸いだ。


 ロビンはたったひとりでナスフ侯国に立ち向かわなければならなかった。


 ロビンは強くならねばならなかった。

 誰よりも強くならねばならなかった。

 兄を守れるくらい、兄に代われるくらい、強くならねばならなかった。


「ナスフ侯爵領はどうでしたか」


 ケヴィンがか細く弱々しい声で尋ねてくる。


「山の中の国だと聞いていたので、不便ではないかと思っていましたが」


 ロビンは率直に答えた。


「確かに城下町も主要な宿場町も坂道だらけでした。しかしだからこそ攻めにくいものです。国を守る人々、いえ国に住む人々が、そういう土地によって鍛えられています。足腰も心肺も。あの土地は戦士を生産する土地です」

「そうですか」


 ケヴィンの表情は優しい。


「それでは私は住めませんね。お前のように健康な子でなければ」


 ロビンは冷や汗をかいた。失言してしまったかもしれない。


「明るい雰囲気でしたか」

「はい……、賑やかで、素朴で。ちょっとのどかで牧歌的すぎるきらいはありますが、僕は好きです」

「うちとは違いますね」

「そう、ですね。まあ、王都は開けた港町で都会ですから。人々が適切な距離をもって暮らしています」

「どちらが好きですか」


 心臓が握り潰されそうになる。


「お前は、この都とその城下町の、どちらのほうがより好きですか」


 喉が震える。


「当然、この都です」

「そう。よかった」


 何を言うのが正解かわからなくなる。


「ナスフ侯爵家はどういう様子でしたか」

「手紙にもお書きしましたが、予想よりずっと仲が良いです。確かに兄弟の仲は多少微妙なところがありますが、それでも遠慮がないと申しますか、普段は誰も一時いっときたりとも黙れないほど賑やかでおしゃべりな家庭です」

「お前はいつも私に遠慮していますからね」


 健康なはずの自分も息が苦しい。


「レギーナ嬢はどんな子ですか」


 何と答えたらいいのだろう。


「……手紙にお書きしたと思いましたが」

「お前の口から聞きたいのです」


 手に汗をかく。


「素敵な方でした。少々おてんばなところがまた魅力的で、表情がくるくるとよく変わる、嘘をつけない人柄の少女です。男が相手だと緊張するのか、時々固まってしまうところがありましたが、まあ、馴れていけばそのうち、という感じで」


 不思議なことに、ロビンは彼女について語っている時は自分が少しほぐれるのを感じた。ナスフ侯国で楽しく過ごした日々のことを思い出せるからだろうか。


 あの少女に、あの少年やあの青年に揉まれて、平気で食事をしたりあちこち歩き回ったり、町中での追いかけっこやバルコニーでの観劇、あれもこれもここではできない経験だった。


 それを、幸福である、と感じることが申し訳なかった。


 この兄はきっと一生そういう経験をしない。


 昔は、替われるものなら替わりたい、と思っていた。自分が兄の代わりに死ねれば、きっとみんな楽になる――そう思っていた。


 あの少女の声が頭の中にこだまする。


 ――冗談でもそういうお話をなさらないでください! それではまるでロビン様のお命が軽いものみたいではありませんか!


 ――わたしは悲しいです! 本当に悲しい。どう申し上げたらいいのかわからないくらい。


 ――では、ロビン様に何かあったら、わたしがやり返します。


 生きたい、と思った。

 彼女と一緒に、生きていきたい、と思った。

 自分はもう戻れない。


「そう」


 兄が目を細める。


「では、私に譲ってください」


 恐怖が這い上がってくる。


「私も結婚してみたいです」


 それでも、歯を食いしばる。

 拳を強く、握り締める。


「他を探してください」


 ここだけは、絶対に、負けない。


「彼女だけは、譲れません」





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