第8話 お菓子を焼くわよ! ~実食編~

 断られたら断られたでいい。

 アーノルドの言うとおりだ。レギーナが浅はかだったのがいけない。

 むしろ、一国の王子である以上、そういう警戒心はあるべきだ。たとえ相手が身分の高い令嬢だといえども、ひとりの女に気をつかうような王子であってはいけないのだ。


 前向きに考えよう。

 彼の断り方を見ることで、本当のひととなりというものが見えてくるのではないか。


 そういう悲壮な覚悟を秘めてロビンに菓子を出したら、彼は何のこともなく「いただきます」と言って食べ始めた。


「いいのですか!?」

「何がですか」

「わたしが作ったものですよ」

「僕のために作ってくださったのではないのですか?」


 自分で出しておきながら、レギーナは蒼ざめて自分の頬を押さえた。


「毒物が入っているかもしれないなどとは思わないのですか?」


 ロビンがほろりとほころぶように優しく微笑む。


「あなたが僕を騙す人間であるとは思いません」


 胸の奥が、じん、と温かくなる。


「誰かが僕のためにしてくれたことをむげにする人間にはなりたくありません。ましてあなたのような素直な方がと思えばなおのこと」

「わたしのことを信じてくださるのですか」

「あなたはきっと嘘をつけない方だと思うから。そういうあなたがいいのです」


 嬉しい。


 いろいろと考えすぎだったようだ。


 素直なのはレギーナではなくロビンのほうで、この人は本当に善良な人で、レギーナのほうもまた彼を信じてもいいのだ。

 そう思うと泣いてしまいそうだったが、楽しいティータイムを台無しにしたくないレギーナはぐっとこらえた。


「――というのも心からの本音なのですが、少々面倒臭い話もさせていただきましょうか」


 ロビンが苦笑する。


「侯国側からしたら僕を殺してまで王国と事を構えたくないのでは、と思うと、わざわざ毒を盛るとは思えないのですよね。オットー殿はまだお体が万全でないようですから、侯国軍を自由に動かせないでしょう? アーノルド殿はああいう反応でしたが、かといって僕をそういう手段で排除するほど浅慮な方であるとも思えません」


 なるほど、そういう考え方もあるのか。

 レギーナはようやく父とロビンの間に微妙な政治的駆け引きがあることに気づいた。父も兄同様脳味噌まで筋肉なのではないかと思っていたが、彼も彼なりに考えて娘を政略結婚させようとしているのだ。


「今はファルダー帝国全体として北方のディールーズ帝国と微妙な雰囲気ですので、一枚岩のふりをしておいたほうがいいのです。どの国もそこは理解してくださっているものと思います。実情はどうであれ、ファルダー帝国の中はみんな仲良し、というのを主張しておかねばならない国際情勢なのですよ」


 たいへん勉強になる。

 父のほうこそそういうことを娘に教えておいてほしいものだが――と思ったが知ったらどこかでぼろが出そうなのでこれでいいのかもしれない。


「王国側もそうです」


 ロビンが布巾で指先を拭く。


 次の言葉を聞いた時だ。


「たとえここで僕が死んでも母は文句を言わないと思うので、心配しなくても大丈夫です。父は怒るかと思いますが、心配なのは僕の身ではなく王国の今後のことなので、最悪兄上さえ無事ならなんとかなります。僕なんか別にいなくても構わないのです」


 その言葉がナイフとなってレギーナの胸の奥に突き刺さった。


「僕はある意味ではとても自由な身分で――」

「なんてことをおっしゃるのですか!」


 レギーナは思わず立ち上がった。


「ロビン様の御身に何かがあったら国王陛下や王妃様はたいへん悲しまれるに決まっています! もしかしたらロビン様のおっしゃるとおり大ごとにはしたくないとご判断されるかもしれませんが、それはそれ、これはこれ! 大事なご子息が毒を盛られて戦争したいと思わない親御様がありますか!」


 ロビンが目を真ん丸にした。

 どうしてこんな当たり前のことに驚いた顔をするのだろう。おとなしくしていたレギーナが突然興奮したからだろうか。

 それでも言わねばならない。


「冗談でもそういうお話をなさらないでください! それではまるでロビン様のお命が軽いものみたいではありませんか!」

「レギーナ」

「わたしは悲しいです! 本当に悲しい。どう申し上げたらいいのかわからないくらい――」


 言っている間に涙が込み上げてきた。興奮しすぎたようだ。

 この間知り合ったばかりの人の前で泣くのは申し訳なかった。それに、ロビンの前で子供っぽいところは見せたくない。

 それでも、今はロビンのために泣きたい。


 涙がこぼれる。


 ひょっとしたら、この人にとって自分の命は軽いものなのかもしれない、と思うと胸が潰れそうだ。


 レギーナにとっては、こんなに泣いてしまうほど大切な命なのに。


「では、ロビン様に何かあったら、わたしがやり返します」


 ようやく絞り出せた言葉はそれだけだった。


 後になってから、我ながらなんと物騒なことを、と思ってしまった。あの兄にしてこの妹あり。自分が軍隊を動かせない身の上で本当によかった。


 しかしロビンは怒らないでくれた。


「ありがとうございます」


 彼もまた、喉の奥から絞り出すように、どこか苦しそうな声で言った。


「ありがとうございます……」


 しばらくの間、ふたりは沈黙した。


 ロビンはレギーナが泣き止むのを待ってくれているのだろう。


 落ち着きなさい、落ち着きなさい、と自分に言い聞かせる。

 大丈夫だ、彼は現に今目の前で元気でいる。レギーナの焼いた菓子を食べ、レギーナの侍女がいれた紅茶を飲んでいる。大丈夫。大丈夫……。


「食べますか」


 ロビンが言った。


「先ほどのお話からすると、あなたご自身がひとつも召し上がっていないのではないかと思ったのですが」


 言われてはっとした。


「……すみません、いただきます……」


 味見ぐらいすればよかった。恥ずかしい。どんな味だったのだろう、自分はどんなものをひとに食べさせていたのか。


 手を伸ばし、ロビンが差し出してくれるのを待った。


 ロビンはしばらくレギーナのその手を見つめていた。


 あれれ、くれるんじゃなかったっけ。


 いぶかしんでいると、ロビンが最後のひとつを彼自身の手でつまんだ。


「はい、口を開けて」


 レギーナは真っ赤になるのを感じた。


 ど、どうしよう! 食べさせてくれるらしい!

 口の中を見られる? 見られて恥ずかしいようなものは入っていないけれど、羞恥心がもりもりする!


 だがロビンがずっと待っているので、レギーナは途中で意を決して身を乗り出し、口を開いた。


 ロビンの指が、レギーナの舌の上に菓子をのせる。


 口を閉じた。


 ゆっくり歯を立てる。

 さくりと砕け、ほろりと溶けた。

 よかった、ちゃんとおいしい。バターの香りも充分で、レギーナは心和むのを感じた。


「あなたは愛されて育ったのですね」


 ロビンが言う。


「僕は少し心配になります」

「何がです?」

「もし結婚して僕があなたを王都に連れて帰ってしまったら、あなたも切ない思いをなさるでしょうし、この城の方々も寂しいでしょう」


 それも頭の痛い話だった。レギーナは無邪気に結婚を望んでいたが、先ほど菓子を焼きながらようやくそれを意識したのだ。


 自分が思っているのの何万倍も結婚による別れはつらく悲しいことだろう。王家の一員になれば実家と婚家を自由に行き来できなくなる。


 また沈黙してしまったレギーナを心配してくれたらしい。


「まあ、僕は帰省もするなとは言いませんから」


 レギーナはほっと胸を撫で下ろした。


「それに、ここはいいところですね。渓谷の中の国。空気は澄んでいるし、川も透明だし、川魚もおいしい。避暑地にはぴったりだと思いました。僕も定期的に足を運ばせていただきたいです」

「本当ですか?」

「ええ。一緒に行き来しましょう」


 安心して微笑むと、ロビンも「笑ってくれましたね」と微笑んだ。


「ナスフ家は賑やかで僕も楽しいですよ。我が家は父も母も静かで兄も賑やかなのがあまり得意ではない人ですから、この家でお育ちのあなたは退屈するかもしれません」

「とんでもない!」


 あなたさえいてくれたら幸せです、と言うのはなんだか気が早すぎるように思ったので、胸の中にしまった。


「それにしても、どちらで魚を召し上がられたんですか? お宿ですか?」

「ふふふ、街中の屋台で買い食いしました」

「いけません! ロビン様はお外でお食事なさるの禁止です!」

「いいではありませんか、侯国の食文化を学ぶということで」





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