天国の泡沫(うたかた)

ヒラノ

天国の泡沫


温かな空気の満ちた、何もかもが純白の世界。庭には清廉な小花が咲き乱れ、湖は澄んでいて、空は穏やかに晴れている。鼻腔に流れ込む空気の匂いも花のように甘い。

地面は混じり気のない白、柔らかな雲。

無数の梯子が下りている其処は、天国だった。


天国には、ただひとりの神様と、沢山の天使たちが暮らしていた。

神様は毎日、地上で生きる者を見守る。人間でも動物でも植物でも、全ての者が幸せで居られるように。また、時には、成長するのに必要な痛みや苦しみを受ける彼らが、あとからそれを有意義だったと感じられるように。

天使たちは、神様のそばに付き従い、その手伝いをする。もしくは、自分たちに与えられた仕事を懸命にこなす。

地上から遠く、また世界のどこかに存在する厭な汚い物事からも遥か遠く、彼らは極めて穏やかに毎日を暮らしていた。


ある日、そんな天国で、ひとりの天使が遊び時間を過ごしていた。

湖のほとりに座った天使は、金色の吹き具を片手に、しゃぼん玉を飛ばす。息を吹き込む分だけゆっくりと膨らむ透明な泡を慎重に慎重に送り出し、天国よりもまだ高い空へと昇るそれを見守った。

「きれいだ」

鈴の音の如き声はあどけない。

しゃぼん玉を飛ばす天使の傍らには、神様の仕事机がある。神様はこの、薄水色に澄んだ鏡面のような湖が好きだったのだ。晴れ晴れとした心で仕事に向かえるように、神様の机はここにある。


「見て、綺麗ですね、神様」

その天使は神様のことが大好きだった。

天国に居る者は皆神様を尊敬しているが、この一人は特に、その迹をよくついて回り、話しかけ、褒められると背中の翼が一際嬉しそうに震えたものだ。


しゃぼん玉に関して天使に話しかけられた神様は、穏やかに双眸を細めて、「そうだね」と応じた。そこに可愛らしいものを慈しむ視線を感じ取って、天使の翼はまた動く。

と、再び湖の方に向き直って泡を生み出し始めた天使は、暫くしてあっと声を上げた。


吹き具から離れたしゃぼんの泡は、少し宙へ上がっては消えてゆく。

それなのに、幾度目かに息を吹き込んだ際、

不意に、いつまで経っても消えない一つが生まれたのだ。

少しばかり長持ちするしゃぼん玉が存在することもあるが、それでもあまりに長い間辺りを漂っているので、天使はそっと立ち上がって羽ばたき、漂っているその一つに手を伸ばした。


掴まえたしゃぼん玉。

柔らかな膜は、指先でつついても破れない。

割れない不思議なしゃぼん玉は、おずおずとそれを包み込んだ天使の手に、確かな感触をもたらし続ける。見た目は他の泡と同じで、透明な中に淡い桃色や水色や、細い筋が浮かんでは複雑な模様を生み出し、遠くの空を映している。


「割れない」

その事実を確かめるように呟きながら、天使はつるりとその表面をなぞった。幾度なぞっても、それは割れなかった。

滑らかな触り心地の球体は、水晶玉の如くしっかりと、手の中に形を留め続けた。

「神様、きいてください」

「どうしたんだい」

天使は仕事机の方を振り向く。大好きな神様に、自分で生み出したこの不思議なものを見てほしかったのだ。

神様は白鳥の羽で出来たペンでの書き物を止めて、深い色をした眼(まなこ)を向けた。


「割れないしゃぼん玉が出来たんです。触っても、つついても、割れない」


こんな不思議なものは見たことがないという様子で説明する天使に、神様は言った。

「そうか」

一度緩慢に頷いて、続けて言った。

「何が起きて、どんなものが生まれるか、それは決して、全て解る事ではないんだよ。お前にとって初めて割れないしゃぼん玉が出来たのなら、それはお前の発見だ。大事になさい」


「はい、神様」

「だけど、もしそれが何かの拍子に壊れたとしても、悲しみに暮れてはいけないよ。どんな些細なことでも、起こるべきして起こるのだからね」


形あるものは壊れる。どれだけ丈夫に思えても、絶対という言葉はない。

頭の良い天使は、神様に言われるまでもなく、それを解っていた。


「壊れないで在れば素敵ですが」

首を傾けて天使が微笑めば、柔らかそうな髪がふわりと揺れる。

「壊れるまで、大切にします」

その日、指先が触れても割れないしゃぼん玉は、彼の小さな宝物になった。




それからというもの、天使は毎日、自分に与えられた役割の仕事を終えれば、飽きもせず割れないしゃぼん玉を眺めて過ごした。朝日に当たれば眩しく輝き、月明かりに照らされればほんのりと青く輝く泡は、天使の心を幾度も浮き立たせた。



天国では、地上ほど大きく天候が変わる事はない。いつも穏やかに晴れているか、霧雨のような雨が時折降るか。

その日、天国では雨が降っていた。カーテン状の雨の糸で、遠くの景色は柔らかに煙る。

雨に湿る翼の手入れをしているしゃぼんの天使に、神様が呼び出しをかけた。

何か大切な話を受けるとき、天国の住人は神様の塔に呼ばれるのだ。神様の塔は穢れのない真白い建物で、金色で出来た上品な飾りで彩られている。そこに呼ばれた者は、天使でも誰でも、少しばかり緊張するものだ。


「今日の野兎の午睡の刻に、塔の一番上まで来なさい」

上から見下ろすと、こことは反対に、その日の地上ではぽかぽかと太陽が照っていた。晴れている日の地上では、野兎がお腹いっぱい草を食べて午睡するさまが良く見える故、時間の名前がこう定められている。

「はい」


今朝目覚めるなり、そうお触れがあり、いつも以上に背筋を正して返事をしたしゃぼんの天使は、時間通りに塔の頂上へと辿り着いたのだった。

雨が作る静けさに包まれた塔の廊下は、薄青い光に満ちて荘厳だった。胸をどきどきと緊張させながら扉の前に立つしゃぼんの天使は、神様が待っているであろう部屋に向かって息を吸い込む。

今日は翼も輪っかも念入りに手入れをしてきた。何せ、天使になって日の浅い彼は、ここに呼ばれるのは初めてだったのだ。


「神様。僕です。時間通り、やって来ました」

緊張した面持ちで中に招かれた彼は、湖のほとりの仕事机よりも遥かに大きな机についている神様と向かい合った。

「よしよし、よく来たね」

神様の眼は、雨の日でもその深さに揺らぎはない。思わず胸の前できゅっと両手を握りしめている天使の緊張を溶かすかの如く、ゆっくりとした声が言葉を紡ぐ。

「今日はお前に任せたいことがあって呼んだのだよ」

「任せたいこと、とは何ですか」

「お前に、人間の子をひとり、見守ってほしいのだ」


その言葉に、その天使の背筋はさらに伸びた。

人間の子を見守るのは大変なことだ。生きる上での喜びや悲しみにもまれながらも、その子が無事に大きくなるまで、見守り続けるのだ。

勿論子供に、天使から見守られているという直接の認知はされないものの、割り当てられた子供と天使には、いつしか愛情のような友情のような、大切な絆が芽生える。長きに渡る仕事となるのだ。


そして本来その役目を受けるのは、もっと仕事に慣れた天使だけだったはずで、まだ落ち着きのないその天使も、自分が任されることはないと思っていた。

「僕に、務まるでしょうか」

大好きな神様に仕事を任される喜びと不安で、しゃぼんの天使は小さな声で神様を窺った。

神様は、少しも揺るがず、慌てず、落ち着いた声で彼に諭した。

「お前は大変賢く、心が綺麗で、純朴な子だ。お前に任せようと思っている子供と、きっときちんと通じ合える。お前なら上手く行くと、私は思っているのだよ」


未知への不安は、神様の言葉を聞くうち次第に、儚い砂糖菓子が崩れるかの如くほろほろと解れてゆく。真白な天使の正装のポケットを抑えれば、割れないしゃぼん玉がまだそこに入っている。

脆い泡の見た目をしているのに、初めて生み出した日から、ぱちんと弾けてしまうことはなかった。

大きく息を吸い込んだ天使は、胸の中がすっと透き通る気がした。吸い込んだ空気と共に、古い書物の匂いと、神様の服から漂う沈香の匂いと、微かに届く雨の匂いがする。

それらが一体となって、その心を固めてゆく。


「わかりました、神様」

小さな声でありながら、もう既にしっかりとした意思を持っていた。

「僕、やります」

それを聞いて、にっこりと優しい笑みを見せた神様を見て、しゃぼんの天使は、やっぱり、自分はこの神様が好きで、この人の為に仕事をしようと思ったのだった。






例の天使が神様から仕事を与えられ、一年が経った。

彼が引き合わされた見守るべき子供は、大層良い子だった。星とおとぎ話が好きな、まだ十歳の幼い少女で、小学校から帰って来ては、毎夜眠る前のお話を母親にせがむ。

クリスマスの時期には、彼女の父親がいくつもプレゼントの箱を抱えて帰って来て、その中身が少女を喜ばせた。

父親も母親も優しそうな相貌をした、幸せそうな家庭だった。


二年が経った。

少女は少しばかり大人になって、学校での友達の輪を広げ、より活発になっていった。

しゃぼんの天使は、彼女とのささやかな共通点を嬉しく思っていた。

何を隠そう、その少女は、しゃぼん玉を飛ばして遊ぶのが好きな子供だったのだ。

子供を見守る際に降りて行っても良いと定められている空の位置で漂いながら、地上の家の方から立ち昇って来る繊細な泡を何個も迎えた。

それらは天使の元に辿り着く前にぱちんと弾けたり、翼にぶつかって呆気なく弾けた。

それでもまだ、天使の持つしゃぼん玉は割れていない。



五年あまりが経った。しゃぼんの天使は、日々の働きを認められて、より神様の近くで仕事をさせてもらえるようになった。

しかし、やる気に満ち溢れている彼とは裏腹に、見守る相手である少女は、少しばかり性格が変わる時期となっていた。俗に言う思春期に差し掛かろうとしており、母親との些細な口論や、父親との仲違い、周りの友人たちとの価値観の違いに思い悩んでいた。


天使は、その成長を見守る事だけが仕事だ。

たとえ悪い方向へ転がろうとも、手出しは出来ない。そして、もし何らかの理由で見守る相手が命を絶った、もしくは絶たれた場合には、神様の前に連れてくるため、より近い所まで地上に降りてゆく。それだけだった。


純粋で明るく、素直だった少女は、社会の波に揉まれて生きるうち、しゃぼん玉で遊ばなくなった。

寂しげな天使の為に、神様はふわふわと柔らかく膨らんだ天空のシフォンケーキを焼く。舌の上でくしゅととろけるクリームの甘さと神様の優しさは、仕事の中でもどかしさと寂しさを感じる天使の心を束の間癒した。

「神様」

天使は言う。

「僕は、あの子がどんなふうに成長しても良い、と思いたいんです。それが僕らの仕事なのですから。だけど、もう一度無邪気にしゃぼん玉で遊んでほしいし、嬉しそうに笑ってほしいし、彼女が生きる俗世が、もっと良いものであれば良かったのに、と思うんです」


そんなことを呟く天使の頭を、神様は大きな手でそっと撫でた。手首に着いた金の輪飾りが、さらりと微かに、その蟀谷(こめかみ)を擽る。

「見守る対象の幸せを願えるのは良いことだよ。それに、お前はそう願いながらも、自分の仕事を弁えている」


「はい」

「苦しいこともあるかもしれないが、それがずっと続いている決まり事なのだよ」

「大丈夫です、神様。僕はちゃんと解っています」

「やはり、お前をこの仕事に就かせて良かった」

神様の期待に応えられているという事実は単純に嬉しかったし、しゃぼんの天使も本当によく解っていた。何が自分の仕事か、きちんと頭の中で。



やがてさらに年月は過ぎ、天使が見守り始めた少女は大人になった。

年を取らない天国の者とは違い、あどけなかった瞳にはいつしか化粧が施され、身に着けるものも変わり、幼かった面影はもう薄れている。

身体も心も大人になった彼女は、両親とのぶつかりを乗り越えて、大学で新たな友人を作り、会社に入って毎日懸命に生きていた。


天使のしゃぼん玉はまだ割れない。見守っている彼女が嬉しそうにすればするほど、それは朝露の如く光輝いた。天使は、暇さえあればしゃぼん玉を飛ばして遊んだ。あの日使い始めた金の吹き具は、所々剥げている。

神様はシフォンケーキの他に、スフレや雲のタルトタタンも作ってくれた。神様のことが大好きだった天使も新しい人間関係を築き、後輩の天使も出来た。神様から作り方を教わって、時に、仲間とケーキのお茶会を開くことも増えた。

それらを喜ばしいことだと言ってくれる神様のために、天使は誇りを持って働いている。


そんなある日のことだった。

少女が成人して安定し、順調に見えた天使の仕事は、不意にその軌道を危ういものにした。






大人になった少女は、毎日、日記を書いていた。

会社と家を往復する日々。SNSで流れて来る、旧友たちの楽しそうな様子。

理不尽で複雑な人間関係。満員電車。毎日の疲労と新しい仕事への不安。


『憧れの会社に入ることが出来て、優しい先輩が世話係についてくれて、初めての仕事は幸先がいいように思えた。

だけど、あれだけきらきらしたものみたいに謳われていた仕事は、蓋を開けてみれば辛かったり慣れないことの連続で、疲れちゃった。

昔はよかったのに。昔はよかったな。自分で何から何までしなくても、お父さんとお母さんが私を生かしてくれた』


『満員電車でおしりを触られた。嘘だと思ったけど嘘じゃなかった。頑張って駅員さんに言ったのに、夜遅くだったからか、迷惑そうな顔をされただけだった。大人になったら、誰も私を守ってくれない』



『会社の部署に、私を嫌ってるっぽい人が居る。絶対私のせいじゃないミスを私のせいにされたり、余分な仕事を押し付けられたり(その人には時間があるのに!)、彼氏も出来ないし、毎日疲れるし、この先もずっとこうやって生きていくのかな。大人って、皆そう?』


そしてある時、少女──否、もう少女ではなく女性となった彼女はふらふらとした足取りで実家暮らしの自室に帰って来ると、服も着替えずにベッドに倒れ込んだ。階下で迎えてくれた両親に見せていた貼り付けの笑顔を放棄して、投げ出していた日記帳を開くと、傍らにあった鉛筆で殴り書いた。

しゃぼんの天使はそんな様を心配して見守っていた。

天使の仕事は限られている。彼女の会社を良くすることも出来ないし、転職させたり、彼女を居やす恋人を与えてあげること出来ない。自分出来ることの少なさに、天使は歯噛みした。


彼女の日記は綴られ続ける。

『この前、ずっとこのままかなって書いた、あれ。きっとそうだとわかった。大人になったら、きっと誰も他人への優しさなんて持てない。それでもこんな世の中で生きていくしかない。辛い仕事をして、多分。私は幸せになれない人間なんだ』『想像もしてなかった、こんな大人になるなんて。なにもいいことがない』


そこまで書いているうちに、彼女の瞳から零れたらしい涙が日記帳を濡らした。ぽたぽたと溢れる涙の落ちる音と、微かな嗚咽が部屋に満ちる。天使の胸も倣って痛んだ。


理不尽な人間関係と仕事漬けの日々、そして気持ちを吐露する殴り書きで疲れた彼女の手は、やがて、その言葉を書き付けた。

『神様は見守ってくれてるなんていうのも嘘だ』

『神様が本当に居るのなら、きっとまだマシな日々を送ってたはず。

神は二物を与えず、なんていうのも嘘。私以外の人は、何物も持ってる』


地上の人間は、皆生きてゆくのに不器用だった。


天使は目を見開いた。


『神様は居ない』

──いない。

『全部嘘なんだ』

──少なくとも私には。


『神様なんていない』


天使のしゃぼん玉が、弾けた瞬間だった。







その年も数日降り続いた雨が止み、うららかな陽だまりが照らす湖のそばで、神様はひとりの天使の身体を抱きかかえていた。

神様の周りには違う天使たちが数人集まり、悲しげに目を伏せて、神様の腕の中、陶器のようなその少年を見つめていた。

そよそよと吹き抜ける風が、彼の髪と伏せられた睫毛だけを動かしていく。


生きている天使たちは、神様によって集められたのだった。

神様は静かに言った。


「この子は、見守る対象をきちんと愛していた。しかしそれと共に、私をも慕っていたのだ。対象である少女が苦痛を背負いきれずに神を否定し、少女と私で出来ていたらしいこの子の世界は壊れてしまった。この子が大切にしていた物の中に、しゃぼん玉の泡があったが、それも、私が否定されたと共に弾けてしまった」


腕の中で午睡の如く瞼を閉じている天使、その後輩であったひとりがぎゅっと唇を噛み締めた。

「少女が神を否定したからですか」

「先輩は元には戻らないのですか」


悲しみに満ちた様々な声がさざ波となって紡がれる。

地上近くから少年の身体が天に還ってきた時、お茶を淹れていた神様は、まだ甘い匂いの残っている天国で、その一つ一つに丁寧に応える。

「神を否定するかどうかは、神を知っている者たちの自由だよ。信じるから良い、信じないから悪いということではない。ただどんな者であっても、見守るのが我らの仕事だ。



形あるものはいつか壊れる、命の灯は永遠ではない。どれだけ悲しく寂しかろうと、地上の者が皆この条理に基づいて生きているのだから、私達だけその掟を破ることは出来ないのだよ」


くたりと力を失っても、しゃぼんの天使の翼は純白で、その輪っかは切れかけの電気の如く明滅していた。

「彼が大切にしていた物にも、いつしか彼の命が宿っていたのだな。

そしてそれを否定されるは、彼自身が壊されることと同じだったのだ」


まだ生きているようにしか見えなかった。しかし、もう桃色には染まらない頬の色が、その体の内部までが陶器の温度になってしまったことを物語る。


「お前を護ってやれる掟を作れれば良かったな」

もっと、世界が誰にでも生き易ければ、天国の法律も変えられた。


神様が好きで、仕事が好きで、しゃぼん玉が好きだった天使は、石鹸の匂いに濡れたまま翼に包まれ、神様の手によって宙へと放たれた。

ふわりと浮かび上がった優秀な天使を見送る為に、天国に居る者が引っ切り無しにしゃぼん玉を吹く。無数の金の吹き具から、無数の泡が生まれては彼を覆い隠す。

天国では新たな天使が生まれる。

無慈悲にも思えるその循環は、地上のそれと全く同じものなのだ。



地上で泣いていた彼女は、同じ頃、理不尽と利己主義に溢れた社会で、相変わらず涙を湛えながら地下鉄のホームを歩いていた。踵が痛くなっても、悲しみに加わり疲労の眠気が加わっても、死ぬことに怯えてまだ生きていた。

そして不意に、ホームの地面の溝にヒールを引っ掛け、その場に膝をついてしまう。

その拍子に破れたストッキングに気づいて溜息をついたその視界に、誰かの手が差し伸べられた。

それは彼女の隻手を握って、そっと立たせた。

それは理不尽なものに塗れる彼女が久々に味わった、両親以外の誰かからの優しさだった。


天国ではしゃぼん玉に混じって、白いバコパの花弁が舞い狂う。

泡の群の中で最も高くを昇っていたしゃぼん玉が、きらりと密かに煌めいた。

それは、地上の彼女が、他人からの優しさに、そっとその唇をほころばせた瞬間のことだった。






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天国の泡沫(うたかた) ヒラノ @inu11

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