3.敗者復活戦は何度でも

「お前、ループしているぞ」


 前にも後ろにも僕がいた。向かい合う鏡の真ん中に僕はいる。どこまでも僕が続いている。そして鏡の中の僕はそう言ってくるのだ。


 僕が僕に言ってどうするのだろうか。そんなこと、僕はもうとっくに気付いているというのに。


 瞬間、鏡が割れていく。破片一つ一つに僕が写り、壊れていく。結局は二つの鏡だけの世界。前と後ろ。

足元に散らばった破片。真っ暗な世界。


 そして、どこか遠くから光があふれる。


 あぁ、また。朝になるんだ。


 ――負けられない。一日が来るんだ。




 リビングのソファで起きるのは久しぶりだった。皮肉なぐらいぐっすりと眠れてしまった。


 スーツに着替えると、流れるようにコーヒーを二杯淹れる。パンを二枚トースターに入れ、ハム二枚の上にそれぞれ目玉焼きを作る。皿を二枚並べ、トーストを置き、できあがった半熟の目玉焼きを乗せる。片方には胡椒、もう片方には醤油をかけて完成。


 しかし、そろそろ時間だというのに。彼女は起きる気配をみせない。昨日、激しく怒らせてしまったし仕方ないのかもしれない。でも、見送りがないのは寂しいものだ。しかも、今日という日に。


 テレビをつけて、新聞を広げる。情報というものは大事だが、今は経済状況の欄を見れば見るほどため息が出てしまう。


 僕が朝飯をつくるのは久しぶりのことだ。彼女のためのご機嫌取りってわけではなく、ただの現実逃避。


 この通り、手持ち無沙汰になった瞬間体は震え始める。マグカップすら持てず、新聞なんて一文字も読めない。テレビの音が無性に僕を責める声に聞こえ始めて慌てて消した。


 僕は昨日、大事な取引を台無しにしてしまった。億の額が動く会社の中でも最も大きな企画を任されることになった。それなのに。


 前のめりになりすぎたのだろうか。プレッシャーに押されて失礼なことを言ってしまったのだろうか。違う。僕の問題じゃない。すべては向こうが悪い。


 僕は逃げられてのだ。トラブルでもあったのだろうか。そもそも、取引を行うつもりなんてなかったのだろうか。突然、この話をなかったことにされた。向こうのほうが立場は上だ。説明を求めても教えてもらえなかった。


 僕は結果を出せないどころか、大きな損失を出してしまうことになったのだ。もはや、クビは確実。悪名が業界に広がれば次の職探しは絶望的だ。


 まだ、ローンは全然返せていない。次の職もしっかり選ばないとこの先の生活がなくなる。でも、選べるような立場でもない。


 僕は人生の敗者になってしまったのだ。


 そのことを、昨夜。彼女に話した。もちろん泣かれた。でも、彼女は僕を責めることはしなかった。それが怖かった。だからだろうか、僕は彼女にひどいことを言ってしまった。


「一緒に死んでくれないか?」


 こんなご時世だというのに。僕は心中を提案した。それが最善な形に思えたのだ。僕らがお互い、愛し合ったまま、円満なまま終われる方法はそれしかないと。


 当たり前だが、彼女から拒絶された。近づくなと、怖いと。確かに昨日の僕は限界が来ていて、人ではなくなっていたかもしれない。でもさすがに、彼女のそんな態度に驚かさた。


 その後、彼女は捨てないでと涙を流していた。ともに死ぬことを拒絶して、捨てないでとは? 


 僕はその事をあまり深く考えれなかった。やはり、そんな状態じゃなかった。


「ごめん、ちょっと冷静になるべきだった。明日、会社から帰ったらまた話そう。まだ、クビになるって決まったわけでもないしね。本当に、ごめん」


 そして、今日の朝に至る。会社に行きたくない。無理だ。もはや、駅に行っただけでホームから飛び降りてしまいそうな状態だ。死こそ救済に思えてしまう。まだ、昨日の僕と変わってない。


 それでも、あの地獄に行く前に。彼女の顔は見ておきたかった。どんなに罵倒されても、拒絶されても。この後のことを考えれば可愛いものだ。少しでも安心したくて、寝室に向かった。


 ドアを開けてその光景を目にした僕は中に飛び込んだ。


 そんな。なんでだ。なんで君が? 捨てないでと泣いていた君が、何でこんな姿になっているんだよ。


 スーツが汚れることも気にせず、膝をついて君を抱き寄せた。僕にはこれしかできなかった。


 君は、自らの首を切って冷たくなっている。なんで、こんな死に方をしてしまったんだ。無残で苦しい、こんな方法を。二人で海に身を投げたほうが苦しまず、温かかっただろうに。


 僕はその場で大泣きした。みっともないくらいに泣き喚いた。そして、ふと。正夢をなぞるように部屋に置いた等身大の鏡の自分を見つめていた。それは、僕であり僕じゃないような。そして、鏡の僕は訴えるように言葉を放った。


「お前、ループしてるぞ!」


 言葉を聞いた瞬間すべてを思い出した。


これは、何度目の朝だ? 何度僕は彼女の姿に泣いた?


 あぁ、思い出したよ。僕は何度もこの朝を経験した。そして、いつもこの場所でループに気づいて。それからそれぞれの時間を歩むんだ。あらゆる方法で自殺してきた。考えられる数多の方法を試した。でも、僕はここに戻ってくる。


 もう、全部は覚えていない。ただ、一度もこの日を全うしたことはないことだけは確かだ。


 僕は人生に敗北したのだ。綱渡りから落ちてしまった。だから、もう終わってしまいたかったんだ。素直に負けさせて欲しい。愛した人のいない世界で、明るい将来もなく、勝利もない。そんな世界でどう生きればいいんだってことだ。


 だから、僕は彼女を置いて明日に向かうのが嫌だった。


 彼女の状態。血も乾ききってないし、寝間着だ。一度は寝るか寝ようとしたはずだろう。そうなると、彼女は確実に今日死んだのだ。


 もはや、意地なのかもしれない。でも、明日に行くことが彼女を捨ててしまうことのように思えたのだ。


 そうして、今日もまた。僕は駅のホームに身を投げた。




 鏡に挟まれた世界。無数の僕たちが僕を睨む。


 あざ笑うかのように、また「ループ」していることを指摘してくる。僕たちはどうしたいのだろうか。僕をループから抜けださせようとしているのだろか。僕なのにか?


 こいつらは僕だろ? だって僕だし。


 そう思うと、なんだかだんだんと分からなくなっていってしまう。目の前がぼやけて、形を失っていく。そして、僕自身も何が目的なのかも。


 そんな幻想をたたき起こすように鏡は一斉に割れた。はっとした瞬間。朝が来た。


 またコーヒーを淹れて、醤油とソースの目玉焼きをトーストに乗せる。そして、彼女の姿を見みつけて泣いて。鏡に言われる「お前、ループしてるぞ」。


「もう、辞めてくれよ!」


 ベッドの脇に置いてあった据え置きのデジタル時計を鏡に投げつけた。鏡が割れる音が耳に届いた瞬間。デジャヴを覚える。


 ループの中で僕は一度この行動を行っていたんだ。そう思うと、急に虚しくなってきた。俯いて、静かな部屋に無残な男の鼻を啜る音だけが響く。


 その時、ちょっとした違和感に僕は気づいた。今投げたものを、再び見つめる。それは、デジタル時計のはずだった。そう記憶にある。なのに、僕が投げたものはアナログ時計だった。


 いやいや、確かに僕らが買ったのはアナログのはず。「6時にセットすると18時に鳴ってしまう時があるから、こっちにしようって」とか彼女がいって……。あれ、それなら買ったのはデジタル?


 手に取ったアナログ時計がどこか不気味に写る。何かが起こっている。そんな予感。


 私服に着替えて一度リビングに戻る。毎朝作っていた食事、読んでいた新聞、聞いていたテレビ、ありふれていた家具。意識してみてみると、記憶との違和感が生まれる。


 おもわず、テーブルの上の。手鏡をとって鏡に映る自分自身に「俺は本当にループしてるのか?」そう聞いてみても反応はない。


 まぁ、でもだ。


 冷静に考えればどうでもいい話なのかもしれない。どうせ、僕は死ぬんだから。死ぬってすごいな。終わるって素敵だ。全部がどうでもよくなる。どんな事に対しても開き直れる。どこまでも逃げることができる。


 冷めきったコーヒーを胃に押し込んで一息。さて、今日はどう死のうか。なんて。


 なんだか、そろそろ終わりが来そうな気がする。そんな朝。



 やっぱり終わらなかったか……。


「お前、ループしてるぞ」

 

 いつもなら虚ろに聞いているこの空間の僕の声。なんにもかわらない。でも、現実では何かが変化してきている。


 もし、鏡の僕がこの先を知っているなら、僕に教えてほしかった。これは終わりに向かっているのか。どういう終わりなのか。


「お前、本当にループしているのか?」


 そう聞いた瞬間。鏡の中の僕の表情が変わった。驚いたような、そんな初めて見せる顔だった。慌てるように、鏡の僕は後ろを振り向く。合わせて僕も、振り向く。


 その瞬間、いつも通り鏡は割れて真っ暗な世界になった。


 でも、見えた。見えてしまった。


 後ろの鏡には、もう一人も僕が写っていなかった。





 朝、冷たいリビングの床の上で起きた。


 昨日はソファで寝るつもりだったんだけど、記憶が曖昧だ。


 冷凍していたご飯をレンジで温めて、目玉焼きを作る。お湯を沸かしてインスタントの味噌汁をそれぞれ二つ、食卓に並べる。


 新聞を開き、テレビをつける。芸能人とか遠くの存在のゴシップや事件は今の僕には心休まるものだ。


 昨日のことは謝るべきだろうと、彼女の元へ向かう。


 そこには、真っ赤な血と動かない彼女の世界。この世で一番悲惨で残酷で絶望的な場所となっている。


 ゆっくりと彼女に近づいて抱き寄せた。ぬくもりはもうない。ふと鏡を見ると。惨めな自分の姿が写っている。最愛の人を抱き寄せる男の姿。それを見た瞬間、昨日の思いが蘇ってしまった。


「まだ、間に合う」


 僕は切り裂かれた彼女の首にガムテープを巻きつけると、彼女の着ている寝間着をハサミで刻んで脱がした。


 お風呂場で血を洗い流すと、彼女のお気に入りのワンピースを無理やりに着せた。上半身は肩が動かず腕を通すことはできなかった。下半身は動いてくれた。


 着替えさせ終えると。車に乗せて海まで向かった。


 僕は大バカ者だ。いまだに、君がこんな真似をした理由がわからない。それなのに、空っぽの君を連れてもっとバカな真似をしようとしている。いまだに心中に夢を見ているんだ。


 僕も、君と同じだったんだと思う。僕も一人にしないで欲しかった。捨てないで欲しかった。もう手遅れかもしれないが、許してくれ。


 崖の上に車を止める。こんなところで止めたら、すぐに人が来るだろう。でも、この状態の彼女を抱えたまま歩き、ここまで来ることは不可能だった。


 もう既に死んでいる彼女と、人生に敗北している僕だ。ためらうことなんてない。


 彼女を抱えたまま僕は飛び降りた。


 取引に失敗したって。会社をクビになったって。僕は負けてはいなかったんだと思う。君がいれば良かったんだ。でも、恐ろしかった。君に捨てられてしまいそうで。僕は、本当は君の気持ちに気づいてあげることができたはずだったんだ。


 それに気づかず君を失った時点で、僕は負けたんだ。


 明日なんて来てほしくない。今日をまた繰り返したい。こんな人生一最悪な今日でも、君を救えるなら、何度だって。


 そんな腐った理想は磯のにおいにかき消され、僕らの未来は波に流される。そのはずだった。


 また、朝が来たのだ。でも、僕に記憶はない。彼女を見つけた僕は思い出さないまま同じように死んでゆく。繰り返していく中でだんだんと、変化が始まった。


 僕はどんどん彼女から離れた場所で死ぬようになった。いつしか目的も大きく変わってしまっていた。彼女とともに終わることから。ただ、このループを終わらせるような。やけになって死んでいくように。


 生きてくれ。今日一日を生きてくれ。そうすれば、来るのは明日の0時ではなく、今日0時なんだ。


 僕は必死に僕たちに伝えた。お前じゃなくて今日がループしているんだ。生きろ! 生きてくれ。でも、彼らには届かなかった。


 もう、僕に後はない。チャンスはない。


 まだ、彼女を救うことができるんだ。まだ、まだ僕は。まだお前は――。


「まだ、お前は負けてないんだ!」


 ハっとした瞬間。今までの正夢のような幻想が飛び散っていった。


 血まみれの彼女を抱きしめて、絶望していた僕に、鏡の僕が叫んだ。まだ、お前は負けていないと。


 僕はまだ負けていない? こんな人生のどん底にいる僕が?


 でも、なんだ。彼女を救える? ループしている? なんなんだよこの記憶たちは。


 ごちゃごちゃして、うるさい。視界に見えるものが絶えず変わり始めた。デジタル時計がアナログに、クマのぬいぐるみがウサギに、天気は雨だったり晴れだったり。


 一体、僕はどこに生きている誰なんだ……?


 混乱する頭の中に再び僕の声が響く。あれは紛れもない僕の声だった。僕自身の。自分のことくらい信じてみろ。他人は逃げるから信用できないけど、自分は逃げないだろ。


「僕はまだ……負けていない」


 そうつぶやいた瞬間。彼女の姿が寝間着から、ワンピースに変わった。彼女を抱え上げると、僕は車に乗せて走り出した。途中、何度も唱える「負けていない! 負けていない!」。縋るように泣きながら。車を走らせた。


 負けなければいいんだ。終わることが、終わってしまうことがすべての負けなんだ。僕はまだ、負けていないんだ。このまま、負けてしまうわけにはいかないんだ。


 人生、どん底からが勝負なのかもしれない。彼女を失って一度は敗北したのかもしれない。でも、終わらなかった。


 これは、敗者復活戦だ。僕の負けられない戦いは続いているんだ。



 午前零時、満天の星空の下で、君は目を覚ました。


「あれ、ここどこだっけ? 私いつの間に寝てた? 記憶が……」


 首のガムテープを剥がしながら彼女は混乱していた。さすがに、起きる前に剥いでおくべきだった。


 ごまかす様に手を取って、車の外に。高速道路のパーキングエリア。山奥に建つこの場所からの夜景。澄んだ空、海、街並み。涼しい風に吹かれて気分は安らかだった。ここからならどこへだっていける。


「逃げようと思うんだ。また、一から始めようと思う。……一緒に来てくれないか?」


「まさか、私。拉致られたの?」


「そうだよ」


 彼女は「バカじゃん」と笑った。大笑いした。


 一通り笑い終えると、肩を近づけて。軽く体重を預けてきた。湿ったため息を彼女は吐き出した。


「もしかして、私が何をしようとしていたか。知ってる?」


「まぁ、そんな感じ」


「……ありがとう」


 そっと彼女を抱き寄せる。さて、これからどうしようか。そう言おうとした矢先に、彼女は「でもさ」と姿勢を戻し、僕の方を向いて言葉を出した。


「逃げなくてもいいよ。だって、まだ負けたわけじゃないじゃん」


 僕は彼女の言葉に両目を開いた。まだ、負けていない。まさか、彼女からもそんなセリフを言われるとは思ってもみなかった。


 思わず、今度は僕が笑ってしまった。彼女も誇らしげな顔で頷いた。


 生きていれば、万々歳。君といれるなら、大丈夫。確かに、まだ負けていない。


「じゃあ、帰ろっか」


「てか、ここどこ? どこまで来たの。この短時間で……」


「ははは」


 彼女にとっては短時間だろう。でも、僕にとってはどれほど長い道のりだったか。語るにも語れず、結局最後までごまかすしかなかった。帰った頃にはちょうど、朝日が昇っていた。




 大損をやらかした社員とは思えないほど堂々とした態度で出勤した。急いで作った卵かけご飯を彼女と食べた朝は、これから起きる災難すら吹き飛ばすほど幸せな朝だった。


 何も怖くない。いや、本当は帰りたい。今すぐ逃げ出したい。


 苦しい気持ちを抱えたまま勢いよくドアを開けた瞬間。社内の人々から視線が一気に集中した。


「おい、お前!」


 先輩が大声を上げて近づいてきた。ずかずかと歩み寄ってくる圧力に逃げ出したくなるが、ぐっとこらえ一歩を踏み出す。


「申し訳ございませんでした!」と、頭を下げて叫ぼうとした瞬間。僕は先輩から力一杯に抱擁されていた。これじゃあ謝れない!


 背中をバンバンと叩かれながら困惑していると。


「良くたった! お前はうちのエースだよ! 本当によくやった!」


「よっ、エース!」


「先輩、やりましたね!」


 周囲から歓声が盛大に上がり、拍手喝采。抱擁を終えた先輩と熱い握手を交わした瞬間。自分の身に起きた変化を理解した。捻じれたせいで、世界が変わった?


 ふと、真横のデスクの手鏡に僕が写っているのが見えた。その僕は、自信に満ちた力強い表情で頷いて見せた。それは多分、僕ではない僕。だって僕は今。こんなにも熱く泣いてしまっているんだから。


 これはまだ勝ちではないのだろう。ただ、僕は負けなかった。それだけだ。


 僕はまだ、負けられない戦いの中にいるのだから。

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