2.たった一人の蝉時雨
幼い頃の記憶はほとんどない。ただ、暗い部屋の中にずっといたのは覚えている。私は泣き虫だった。それで、いつも先生を困らせていた。
ある日、先生は私に友達を紹介してくれた。それが初めて先生以外の人に出会った瞬間。でも、会うだけだった。お互い体が弱くて。遊ばせてもらえなかった。
その後から私は良く先生にその子のことを聞いたりまた合わせてとねだっていた。でも、ダメだと言われ続けた。だから、覚えている。「大人になったらまた合わせてあげるよ」その言葉もよく聞かされたから覚えている。
でも、あの子はどんな子だっただろうか? 話の内容は覚えてないけど、一言。印象に残っている、夢のような。曖昧な記憶だけど。たまにハッと思い出す。
『早く、君の音を聞いてみたいな』
それを聞いた瞬間。先生は彼女を連れて行ったんだ。
「ねぇ、今日はどこに行こうか?」
カーテンを閉め切った六畳の部屋の中。私をたたき起こすように声が響いた。
「今日は休む。一日だらだらと過ごす日」
私はそういってタオルケットをかぶり、さなぎのように全身を包んで丸くなる。
「ダメ! そんな時間ないよ。一日一日をもっと大切に生きなきゃ」
彼女は無理矢理私のさなぎを奪う。まだ成虫になりきれてない私はどろりと溶けるように布団の上でうつ伏せのまま大の字を作った。しかし、今度は布団も剥がされくるくると回って壁に体を軽く打った。
「さぁ、支度して! とりあえず、散歩でもしよう」
「散歩……?」
「まさか。貴方散歩をご存じない?」
「いや、散歩は散歩だよ。それはわかってる」
なんだろうか、この会話。でも、散歩なんて私の人生にはないものなのだよ。私は部屋の中でゆっくりと大人になるまで丸まっているんだ。もう二十歳なんだけど。そんな現実を見れない私はまだ子供ってことで。
「さぁ、さぁ! 急がなきゃ」
だったら、この子はなんだろうか? こんなに、元気にはしゃいで。でも、私よりもどこか立派。それでいて、居候。
「私は最悪あと五日で死んじゃうんだから!」
そして、自分のことをセミだと思っている変人。
自分のことをセミだと思っている変人、キヨミと出会ったのはおとといのことだった。彼女は急に私の家に訪れて、私を強引に外連れ出そうとした。
昔から体の弱い私は外にはめったに出なかった。
体が弱いと言うが、それは異常な体質なのだ。コケたら骨折、走ったら呼吸が乱れ、雨に当たれば皮膚が腫れる。両親はいない。私を育ててくれた先生は弱い私を外に出さず、暗い部屋の中に閉じ込めてくれた。守ってくれた。
最初は、家の倉庫の中。次に家の中でしっかりとした部屋を与えられ、今は住人もいないボロいアパートの一室を借りて住まわせてもらっている。
勉強もずっと前に遅れた。社会になんて出れない。ずっと、このまま暗い部屋の中にいればいいんだと思っていた。それなのに、キヨミが来た。
「貴方を外に連れ出したいの。私の短い人生を、貴方の為に使わせて」
開けたドアの向こうには陽炎揺らめく炎天の世界。情熱的な蝉時雨が私を誘っているように聞こえていた。キヨミがさしだした手を、握ってしまう。それは七夕のような夏の中に込めた願い。
いままで、ずっと一人だった私。暗い部屋で報われなかった私。やっと、神様から贈り物がきたのだろう。そうやって、握った手に引っ張られ。外に出た私たち。
私にとって、日焼けはやけどだ。汗を掻きすぎると肌が荒れる。
キヨミはそれが最初っから分かっているみたいだった。日陰があるルートを知っていて、すぐにクーラーの効いた喫茶店に入れてくれた。私の住むアパートからほんの少し離れただけの場所。でも、私にとっては大冒険だった。
そして、なぜかそのままキヨミは私のアパートに泊まった。追い出したら二度と来てくれないんじゃないかと思って私は彼女に何も言わなかった。
公園の屋根付きのベンチに座って、朝の世界を見つめる。
ランニングをする人や、元気に遊び回る子供たちを見ると、どうも気分が悪くなる。自分があれをやるとって考えると、それだけで無理だった。
だから私は、目をつぶった。夏の音に耳を澄ませた。蝉たちの声に。
断末魔のように全身全霊で朝からずっと鳴きわめく蝉たち。私も、蝉のようでありたいと思ってしまう。短い命でもいいから、私も全力で叫びたい。全力で動き回りたい。暗い部屋の中で死ぬのを待つよりかはずっといい。
「セミはね、たくさん種類があってね。皆違う鳴き方をするんだよ。同じ種族の雌と会うために。時間帯で聞こえる鳴き声が変わったりもするんだ」
「へぇー、よく知ってるね」
「……常識みたいなものだとは思うよ。そうじゃなくても、私はセミだし。セミにとっても一般教養」
「キヨミも、セミなら。鳴くことできるの?」
「……残念。私は雌だから、鳴くことはできないよ」
「キヨミが雄だったら鳴けたの?」
「そりゃあ、もう。ガンガンに求愛してるね。モテモテだね」
やっぱり変な人だなぁ。と思いながら笑った。彼女が隣にいると、ちょっと罪悪感はあるけど、自分がマシに思える。落ち着く。
「でも私に求愛する声は、まだどこからも聞こえないんだよね」
本当に深刻そうな顔でそんなことを言ってくるものだから一瞬、笑うのを辞めてしまった。かみ砕くように言葉を理解し、飲み込むと。やはりまた笑いがこぼれた。
「そりゃ、自分のことをセミだと思っている男なんてどこにもいないよ」
「ちょっとー、私は本当にセミなんだけど!」
やっぱり、彼女は面白い人だった。彼女と、ずっと一緒にいたかった。一人で暗い部屋の中でじめじめと暮らすよりかも、何倍も楽しい生活だった。だからこそ、彼女がセミである、余命が短い。その冗談がこの日から嫌いになってきている自分がいた。
でも、この冗談がないと。私は彼女と一緒にいられない。私に異常があり、彼女にも異常がある。だからこそ、ここまで落ち着いて一緒にいられるんだから。
「ねぇ、今日はどこに行こうか?」
「無理」
彼女と出会ってから一週間はたっただろうか。毎日彼女は私を外に連れ出す。
しかし、今日という今日は本当に動けなかった。連日の無理な行動のせいで体が動かない。彼女の気遣いのおかげで外傷はなかったが内側の負傷はあったようだった。
「そっか」
強引なキヨミでも流石に無理強いはしなかった。彼女は、動けない私の横に座ってじっとこちらを見てきている。
「そんな目しても、無理なのは無理だから」
「違うよ」
いつになく真剣な声、思わず寝返ってキヨミの顔を見上げる。呆けたようなアホな顔が見えたから、鼻をつまんでやった。
「ふぎっ」と変な声を出して離れた彼女だが、なおも私を見つめる。
「もしかして、顔に変なものでもついてる?」
そう聞くが顔を横に振る彼女。そこで、気づいたのだが顔が少し赤くなっていた。
「大丈夫? もしかして、キヨミも体調悪いんじゃ……」
「うんん、違うの。そうじゃないの」
両手を顔に当て困ったように彼女は首を振っている。一体どうしたのだろうか。
「少し、貴方が格好よく見えて……」
「えっ?」
彼女の言葉に「どういうことだろう」と感情が追いつかないでいると、急にキヨミは泣き始めた。不思議な子だと思っていたし、変なやつだと分かっていたけど何か心に刺さってくる。
「ごめんね。私が、早すぎたばっかりに。ごめんね」
「何を言ってるの?」
分からなかった。でも、体は彼女に駆け寄りたくてたまらなかった。でも、動かない。抱きしめたくて手が伸びる。でも、でも私はまだ。それができない。
私はまだ、子供なんだ。そう思った瞬間、全身が無気力に包まれた。どうしようもないまま、力が抜け膝を抱えて鳴く彼女を見つめることしかできないでいる。
そしってゆっくりと瞼は閉じっていった。
「もう、大丈夫だよ。昨日一日寝たからね。無理はできないけど、外に軽く出るくらいなら、大丈夫だから。ほら、起きて」
「……うん」
今日のキヨミは少し変だった。動作がゆっくりとしていてよくない。
「今日は、休む?」
「そうしよっかな。今日は、貴方とたくさんお話がしたいかも」
そう言うと、彼女は再び起こした体を横にした。あからさまに顔色が悪いが、どうしようもなかった。
「じゃあ、一つ聞いていい?」
「うん、何でも聞いていいよ。たくさん聞いていいよ」
「キヨミは、本当にセミなの?」
「うん、そうだよ。私はセミだよ」
「じゃあ、……死ぬの?」
「……うん」
力なく頷くキヨミ。冗談にしか思ってなかったことが、今の簡単な言葉を交わすという行為だけで真実めいて思えてきた。もうすぐ、キヨミは死んじゃうんだと。理解してしまった。
「まだ、待てない?」
「うん。ごめんね」
私が大人だったら。なぜか、そう気持ちがいっぱいになっていく。
大人になる。私の中になる謎の希望。こんな、暗い部屋の中でしかまともに生きられない私なのに、大人になればどうにかなるとずっと思っている。
あの人のせいだ。あの人は、いつも言っていた。
『大丈夫、今は弱くても。大人になれば強くなれる。お前はそれまでゆっくりと待てばいいんだ。私がちゃんと環境を与えて上げるから。ゆっくりと待つんだ』
でも、いつ大人になるかも分からない。そもそも、人って待っているだけじゃ大人にはなれない。そんなの、ずっと部屋の中にいるだけでも分かる。
じゃあ、大人になるってなんだ?
視線を下ろしキヨミを見る。そこに答えがある気がした。外から漏れる、セミの鳴き声が煩わしくなってきた。彼女には私の声だけを届けたい。
「最後に。これだけ聞かせて」
「……なに?」
「私は、なんだ? 貴方がセミなら、私は」
それを聞くと、キヨミは黙ってしまった。目を瞑り静かに呼吸をする。
「……貴方も私と同じなんだよ。同じセミ。世界でたった二人しかいないセミ。私だけ少し早く大人になっちゃった」
嬉しそうに、そして悲しそうに言葉を歌うように放った彼女。目は瞑ったまま、呼吸はどんどん浅くなっている。
「ごめんね。貴方だけ、残してしまって。一人だけにしてしまって。ごめんね」
私はそっと、彼女の手を握った。弱弱しく、彼女も握り返してくる。
「私はね、貴方を愛するために生まれたのに。ね」
それは、正しく人の肌であり腕であり命であった。そして、それは私も同じ。しかし、次第に失われていく体温の中で、こんなにも弱々しく死んでいく者を感じて。
――私たちは世界で二人だけだったんだ。
そう、静かに悟った。
翌朝、起きると彼女の死体はもうなくなっていた。
翌年の夏。
ついに、私は大人になった。変化は徐々にだった。おもむろに体が硬くなり、硬化した皮膚が全身を覆った。まるで布団の中で丸くなったような心地に包まれる。そして、その中から出た瞬間、私の貧弱な体は丈夫になっていった。
朝になる頃に私は気づいた。虚無に包まれた求愛の欲望に。愛する者を求めるどうしようもない気持ちに。
そして、その日。あの人が目の前に戻ってきた。
私は、先生ずっと観察されていた。
「大丈夫だ。実験は失敗しても私は我が子を捨てないよ」
そう言って抱きしめてきた白衣のハゲ頭。忘れもしない、体の弱い私に居場所を与えてくれた先生。私を育ててくれた人。
「君はもう、薄々感づいているはずだ。イヴと出会ったのだから」
「キヨミのことですか?」
先生は静かに頷いた。坊主頭をさすりながら難しそうな顔で私の前に座りノートを開いた。
「生物には擬態といわれる能力がある。セミは何故あんな色をしているかというと、木に擬態しているからだ。他にも様々な生物が多様な形で擬態する」
急に難しい話をされてよく分からないが、ノートに書かれた絵をじっくり見て先生の言いたいことが分かった。そこには、人のシルエットの集団とセミの絵が描かれ、セミの絵から矢印が人々に刺さっていた。そして「=」が書かれ一人に人間のシルエットが描かれてある。
「君たちは、人間に擬態したセミなんだよ」
「本当にセミだったんですね。人間じゃなくて……」
「そうだ。だが、やはり人間の形を維持するためにはエネルギーを大量に必要とする。君たちは成虫になるまでに通常よりも多くの時間がかかり、さらに成虫になっても一週間生きれるかどうかといったところだ。イヴの方は、奇跡的に長くもった方だよ」
私の後ろには今もなお抜け殻がある。先生はそれを回収しに来たらしい。キヨミの時も同じように回収し、彼女に真実を話したという。話を聞いた彼女は急いで私のところに向かった。
しかし、私は未だ成虫していなく。彼女は早く成虫にさせるために無理矢理外に連れ出した。しかし、結局私は成虫になれなかった。彼女が謝っていたのは、早く成虫になりすぎて私一人を置いて言ってしまう罪悪感からだったのだろうと先生は言った。
先生は全部見ていたのだ、私の部屋に監視カメラがあった。寝ている間にメンテナンスを行っていたという。
私達はずっと、虫かごの中で観察されていたというわけだ。
「イヴの遺体は今保存している。顔を見たいなら見せてやることもできるが?」
「いや、いいです」
「そうか。まぁ、すまないがまだ研究は続いている。お前もあと数日の命だが、自由を約束はできない。監視され続けて、死ぬまで一人の日々を送るか。私とともに来て研究の協力をしてくれるか。選んでくれ」
……そっか。私の命ももう少ないのだ。彼女が毎日騒いでいた意味が分かった。毎日を全力で生きていたキヨミ。彼女も死に追われていたのだ。ずっと。
そんな彼女はもういない。そして、私は人間ではない。この世でたった一人の生命体。
選択肢なんてほぼないようなものだ。でも、まだ、自分を捨てられない。
「一日だけ、一人にさせてくれませんか?」
「……わかったよ。明日、また迎えに来る」
立ち上がった先生はドアの前まで行ったが、ドアに手を掛ける前にゆっくりと振り返りこちらを見てきた。
その目は、どこか優しく。私は最後まで話を聞いてもこの人のことを恨んでないことに気づいた。まぁ、でもそれもそうか。私には煮えかえるはらわたが無いんだから。
「短い命だ。言葉を選んでいる余裕はない。君は信じないかもしれないが、私は君たちを愛していたんだ。それだけは知っていて欲しいんだ。アダム」
私はそれに深く頷いた。それを見た先生はゆっくりと部屋から出て行った。
一人残された部屋の中。残されたと言っても、先生にではない。この世のすべてに取り残された。存在していいのかも分からない生命体。すぐに死んでしまう生きる意味のない私。
本来、セミは生殖の為に成虫になる。だが、私にはその機能はない。もとより、キヨミとともに成虫になっていてもその使命は完遂されなかっただろう。
しかし、本能は残っていた。私は雄だったのだ。キヨミは声なき雄に引き寄せられた雌であり、私は存在しない雌を求める雄になってしまった。
君が急に愛おしいんだ。君はずっとこの気持ちを抱えていたのだろうか。一週間に凝縮された、一週間だけしか許されない、死の淵の恋心。
何でズレてしまったんだ。たった二人しかいないのに。なんて残酷なんだ。
君がいないことが、ここまで苦しいことだなんて。
なお抑えきれない本能。しかし、私は人間ではなくてセミなのだ。仕方ないのだ。どれほど虚しくても、どれほど理的考えれても、本能には抗えない。むしろ、抗う必要なんてないんだ。
カーテンを開けると、真夏の晴天が広がっている。こんなに、晴れ晴れとした日なのに。貧弱な体ではなく健全な肉体を手に入れたというのに、この外の世界に飛び出せるというのに。私は、この部屋の中で声を鳴らし始める。
――そして私は叫んだ。
君を呼ぶ音を、人ならざる叫びを。羽のない私たちには私たちにしか出せない。同族だとわかり合える音がある。それを、響かせる。泣くように鳴き喚く。
なにかを感じ取ったかのように。外で鳴いていた他種のセミたちの声が止んだ。
だが、静寂は訪れない。たった一人の、一匹の、一種のセミの叫びがどこまでも飛んで行く。
たった一人の蝉時雨が、真夏の空を満たした。
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