第七話 悪は癖になる

 ほんの僅かな時間、強烈な日差しが瞼に刺さった。

 それはすぐに和らいだけれど、ぼくはゆっくりと覚醒した。

 視界が明るい。賛課ラウドのあとの仮眠で、こんなに明るくなるまで寝ているような時間はない。


「……っ、寝坊……!?」


 がばっと身を起こす。けれど力を入れた先が柔らかくて、手が少しめり込んで均衡を崩した。今度は強烈な陽光が視界を焼く。

 咄嗟に手で日陰を作って見上げれば、風に踊る梢がからかうように陽光を操っていた。


「? なんで……」


 考えたところで、血の気が引いた。


「母さん!」


 あの紙が示す通りなら、執行は今日のはずだ。鞭打ち、晒し台、斬首など、大抵は町や村がよく見える市外の高台に、威嚇するように置かれている。

 この村でなら、村の出入り口である市門を出てすぐの所にある築山がそれに当たる。ここからだと、万全の状態で走っても十分近くかかる。


「何で起こしてくれなかったんだよ!」

《私が? 何故?》


 ぼくの文句に、悪魔は笑いながら飄々と聞き返してきた。

 腹が立って、ぼくはとにもかくにも走り出していた。つもりが、二歩も行かずにすっ転んだ。足に激痛が走る。


「……ッ!」


 左足が、割れるように痛かった。震える首を巡らせて覗けば、左足のふくらはぎが倍ほどに膨らんでいた。簡単に手当てしただけの場所をまた蹴られた上、雨の中泥の上を転げまわったせいだ。

 疲労のせいか、直後ほどの痛みはない。でも代わりに、傷口からばい菌が入ったような気がする。先に洗うべきだ。少しでも知恵があれば、きっとそうする。

 でも今のぼくは、さかしらな知恵よりももっと強い力に突き動かされていた。


『一緒に逃げようじゃないか』


 母の言葉が蘇る。それが母子の情からだったとは、思っていない。それでも、ぼくはその言葉に一片の希望を見出していた。

 一緒に逃げる。修練教会が育ててくれた恩も忘れて、母と外の世界へ。


《もう手遅れだ》

「……そんなことない」

《望むのなら、もっと早くにせねば。母を救い出してくれと、この私に!》

「これは、ぼくの力でやらなきゃいけないことなんだ」


 最初は盗み見るだけで良かった。

 でも顔を見たら、親子のように接してみたくなった。

 言葉を交わせば、どんなに惨めでちっぽけなことでもやり遂げたかった。

 修練教会でお祈りをして帰っていく親子が、当たり前にしていることを。独房から遠めに眺めていたことを。

 親愛のキスを、受けてみたかった。


「……逃げよう」


 母さんを助けて、この村を出よう。

 市門を出れば、鞭打ち台はすぐそこだ。処刑が行われるのも大抵昼前、十時から正午の祈りの間だ。林の中に降る影はまだ長い。


「走れ……」


 走れ。走れ。


「走れよぼくの足!」


 苛立ちに任せて左ひざを叩く。樹皮がぼろぼろ剥がれる木の幹に右手をついて、無理やり体を引き上げる。肩で支えて起き上がれば、あとは同じことの繰り返しだ。そう、自分に暗示をかけた。

 右足を出し、左足を出し、ふらつけば幹に手を付いて次に進む。


《そんな調子で、果たして間に合うかねぇ?》


 畑のあぜ道を行き、民家の前を通り、犬にはことごとく吠えられた。林を出た時にまだ低かった太陽は、もう燦然さんぜんと中天に差し掛かりつつある。

 時折、なんでこんなに苦しくて辛いのに足を動かしているのか、分からなくなる。その度に、かあさん、と呼んだ。

 夜はあんなに冷たかったのに、陽が射すと晩秋が途端に残暑に変わる。汗が目に沁みた。それでも進んだ。市門では、無意識のうちに門番を振り払っていた。

 やっと築山を見つけた時には、すぐには反応できなくて、ずいぶん長い間呆けていた。


「かあ、さん……」


 その頃にはもう喉はからからに渇いて、呟いたはずの声はちっとも音にならなかったけど、それでも進む速度はさっきまでと画然と変わっていた。ぽつぽつと見え始めた人の頭が、ざわめきとともにその数を増す。何人かに追い越された。


《どうやら、まだ始まっていないようだな》


 希望が、細く儚く、ぼくの前に垂れ下がった。

 走る足がまた次第に緩くなり、二、三の人を押し退けて坂を上った。鞭打ち台に近付く頃には、周りの方がぼくを避け出した。

 それもそうだ。ぼくは元々みすぼらしい格好の上、血と泥で全身薄汚れている。しかも這うのと大差ないていで歩を進めていた。そのお陰で追い払われないのは、幸運と言えたかもしれないけれど。


「やっと、着いた……」


 どうにか鞭打ち台の足元に辿り着くと、思わず力が抜けて両膝をついていた。

 左手には数段の階段。右手には、台の中央にそびえ立つ絞首刑台から下がる麻縄。目の前には、斜面にある鞭打ち台を支える、安っぽい木の足が等間隔に並んでいる。

 そしてその上に、


「……母さん」


 犬のように首に縄を付けられ、今まさに鞭打ち台の上に立たされようとしている、痩せこけた女がいた。

 陽の光の下で見ると、そのみすぼらしさはいかにも酷かった。骨にへばりつくような薄い皮膚や、こけた頬、色のない唇など、見るに耐えないほどだ。

 でもその中にある落ち窪んだ眼窩の光だけは、牢獄の闇で見たのと同じぎらつきをいまだ灯していた。

 群衆のざわめきがする中、ぼくの声が聞こえたのだろうか。鋭い眼光が、ぼくを見つける。


「母さん、来たよ。一緒に逃げよう」


 ぼくは脱力感のような安堵とともに、手を伸ばした。母を、母と過ごす穏やかな日常を掴むように。

 ぼくは間に合ったんだ。そうでしょう?


「……馬鹿だね」

「…………?」


 小さな嘲笑だったのに、雷よりも厳しく打ち据えられたような気がした。そして同時に、母の瞳から生命力の塊のような光が消え去った。


「な、なんで……?」


 まるで分からなかった。母の態度が信じられなくて、極限まで目を見開いて台の上を凝視し続けた。

 けれど返事はなく、ぼくの目の前で母が引っ立てられた。五十がらみの刑吏が首に付けられた紐を引き、母を鞭打ち台の中央に四つん這いにさせた。

 無造作に、まるで汚物にでも触れるかのような手付きだった。それこそ家畜を小屋に入れるよりも乱暴で、見ているだけでも屈辱を覚えた。

 だというのに、牢番相手にあんなに癇声で食いついていた母は、別人のように沈黙していた。それを見る村人たちに至っては、井戸端となんら変わらない顔で雑談を続けている。

 どんどん増え始めた人の中には、修練教会に礼拝に来る近隣のおじさんおばさんたちも普通にいた。種を撒くのを急いで終わらせて駆けつけただとか、娘は孫を寝かせるから来れないとか、今日の晩ご飯は芋の煮付けの他に何にしようかとか。

 とても、今から一つの命が無造作に傷付けられ、ともすれば死んでしまうかもしれないなんて悲愴感は毫もない。


《どいつもこいつも楽しそうだなぁ。心地良いなぁ》


 悪魔が喜色を上げる。実際、ぼくもここがどこだか、分からなくなりそうだった。


《公開処刑を娯楽にするとは、人間とは実におぞましいよなぁ》

(娯楽、なの……?)


 遊びもゆとりも少ない田舎では、お金のかからない、かつ鬱陶しい放浪者を追い出すことの出来る公開処刑は、数少ない胸のすく余興だと、後で知った。

 ぼくが知らないだけで、こんな辺鄙な村でも月に一、二回は刑が執行されているらしい。ぼくがアイゼンたちに転がされ、修練士様たちに鞭打たれている間にも、あるいは首を落とされ、あるいは棘付きの鞭で打たれてお腹を切り裂かれている者がいたのだ。


《そうだ。自分では清いと思い込み、自分の汚物を洗い落とさない者たちから蔑まれながらな》

(それを、今から母さんが……)


 ぼくはどうしようもない馬鹿だ。こんな時に現れたって、一体何が出来るというのか。

 ぼくは一目見ただけで傷だらけで、その上この衆人環視の中二人で逃げるなど、どう見ても出来るわけがない。

 こんな状況で手を伸ばしたって、受け入れてもらえるはずがない。しかも最初に差し出された手を臆病から拒んだのは、ぼくの方だ。それなのにこの手は取ってもらえるなんて、虫が良いにも程がある。

 ぼくは、もうとっくに、母さんに見捨てられていたんだ。


《残念だなぁ。お前がいつまでも思い切らず、私に助けを求めないからだぞ?》


 悪魔が嗤っていた。

 変わったと思ったのに、実際には少しも変われていなかったぼくを嘲笑って。

 でも腹は立たなかった。

 何故なら、その通りだから。


(……今からでも、間に合うの?)


 希望が欲しい。

 家族と平穏に暮らす未来が、幻想でないという希望が。


《勿論だ。お前が一言私に『従う』と言えば、願いは叶う》


 従う。ぼくが、悪魔に。

 それで、母が助かるなら。


(お前に、したが――)


「十一時になりました」


 心の中で言おうとした言葉はけれど、刑吏の声に遮られた。

 ハッと、鞭打ち台の上に視線を戻す。


「これより、刑を執行します」

「――――」


 母が、中央の棒に手を縛り付けられ、両足も縄で固定されていた。項垂れるように下を向いた顔は、艶のないぼさぼさに痛んだ髪に隠されている。

 ざわめきが僅かに引き、観衆が脇に立った刑吏の言葉を待つ。


「罪名は浮浪者の再入国、及び窃盗、暴行、詐欺、火付け未遂」


 その全てが母一人の所業かは全く疑わしい限りなのに、周りの大人たちはその言葉に乗っかるように騒ぎ立てた。


「あいつだ! あの鬼婆みたいな乞食がうちの畑の野菜を盗ったんだ」

「うちの庭に勝手に入って、子供から洗濯物を巻き上げやがって!」

「物乞いを断ったら火を付けようとしたって」

「人間じゃねぇな」

「最低の連中だ」

「これだから乞食は……」


 けれど刑吏は、足元の騒音など慣れたもののように動じない。

 だが続けられた言葉に、ぼくは耳を疑った。


「公正な裁判の結果、五十回の鞭打ち刑が妥当だとの判決が下ったが、監禁中、罪人の仲間と思われる者が度々侵入、脱獄幇助ほうじょを行ったと思われ、更に五十回の鞭打ちを追加する」

「……………………え?」


 執り行う処刑を淡々と告げる刑吏の声が、すぐには理解できなかった。

 侵入? 脱獄幇助?


「待って! そんな、そんなのおかしいよっ。やめて!」


 思わず叫んでいた。それは、間違いなくぼくのことだ。

 確かに、逃がしてくれと言われた。けど、最初はそんなつもりじゃなかった。ただの好奇心だったんだ。

 それなのに、ぼくのせいで、刑が倍加?


《あーはっは! だから言っただろう。好奇心は猫を殺すと!》


 痛快とばかりに、悪魔が哄笑する。ぼくにしか聞こえない声だと分かっているはずなのに、ぼくはそれに反論していた。


「ちがっ……母さんのせいじゃないんだ! ぼくが勝手に」

「それ以上は近付くな!」

「ッ」


 焦りから咄嗟に鞭打ち台に手を伸ばしたぼくを、どこに控えていたのか、刑吏の助手が引き剥がして地面に押さえつけた。台の上の刑吏が、そんなぼくを冷たく見下している。

 でもすぐに視線を外し、右手を軽く持ち上げた。それを合図に、階段下に控えていたもう一人の助手が、刑吏に棘付きの鉄の鞭を手渡す。


「や、めて……」


 怖気が走った。あんな物で殴られたら、一度で皮膚は破れ血が溢れ出す。下手をすれば、死んでしまう。だというのに、観衆の声は容赦がなかった。


「そんなもんじゃ足りねぇよ」

「もう二度と入ってこられねぇように斬首だ斬首」

「馬鹿だな。斬首なんてすぐ終わっちまうじゃねぇか」

「こういうのは生き埋めか水責めだろ」

「苦しめ。てめぇらなんか要らないんだよ」

「苦しめ」

「苦しめ!」


 ぐるりを取り囲む人垣から、声が凶器のように溢れ出した。まるでどす黒い煙がその人たちから立ち上り、母を怨嗟と悪意でとり殺すかのように。

 怖い、と思った。アイゼンの憎悪の眼差しよりも、牢番の容赦のない暴力よりも、彼らの悪意こそが恐ろしかった。

 彼らは、母から何か手酷い目にでも遭わされたのだろうか。


《何も》


 悪魔が答える。どこか満足そうに。でも、ぼくには全く分からなかった。


(……何も?)

《そう。何も。実害なんてほとんどない。女はゴミを漁っていただけだ。だが使えるものも食えるものも何一つ得られず追い出された》

(何もされてないのに、こんなに憎めるものなの?)

《存在しているだけで憎いのさ。目の前から、自分たちの世界から完全に消え去ってくれなければ、我慢ならない》

(……どうして?)

《それが、人間というものだからさ》

(にんげん……)


 ぞっとした。

 今までで一番、悪魔の声が恐ろしいと思った。

 何の根拠もなければ、理由にもなっていないのに、恐ろしいほどの説得力があった。こんな中から母を連れ出して逃げられるなどと、どうして思えたのだろうか。

 何より、ぼくもまた、同じ人間なのだということが、泣きたくなるほど怖かった。


《だから言っただろう? 悪は癖になると》


 悪という選択肢が増える。それは善よりも簡単で、次の時にはまた手を出してしまう。だからこそ戒められているのだと、ぼくはようやく理解した。


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