第六話 失敗
独房をでる時間になっても、大した変化はなかった。
両足の怪我のせいでまともに歩けないために、手仕事もできず、食事も抜かれた。同じ敷地内に建つ施療院で手当てはしたけれど、自業自得と思われているから修練士様の斟酌もない。
しかも傷から発熱したらしく、微熱ながら一日中うとうとして過ごしていた。
弱い体がこんなにも恨めしいと思ったのは初めてだ。アイゼンのように密かに鍛えることも、努力することもしてこなかった自分を、茫洋とする意識の中で何百回と呪った。
覚醒するたびに、施療院のベッドから起き上がって、仕事をしようと思った。でなければ、今日の食事にもありつけない。昨日の朝に食べたきりだから勿論空腹だったけれど、それよりも母のパンの方が気にかかった。
けれど体は言うことを聞かず、ベッドから降りることもできず意識を失った。降りても、今度は隣のベッドの脚まで。その次は、扉の前まで。
次に意識が浮上したのは、蚊の鳴くような、かさ……という音によってだった。扉の取手に伸ばしたが届かず、床に落ちたままだった腕を無意識に動かす。
「……?」
扉の下の細い隙間で、何かに触れた。瞼を閉じたまま指だけを動かして、握り込む。そしてまた気を失った。
やっと完全に覚醒できたのは、施療院に完全な闇が迫る一歩手前の頃だった。
深く考えず腕に力を入れて、上体を引き起こす。普通に座ろうとして両足に痛みが走ったところで、現状を思い出した。ほんのりと灯りの残る方を振り向けば、窓の向こうの曇天が見えた。
「夕べの祈りは、まだかな……」
そう考えて、やっと手の中の物に意識が向かった。
「……なんだろう」
体を横にして、そっと手を開く。出てきたのは、本の切れ端のようだった。
『の時、天の
前後は破れていて読めないが、双聖神が降り立った地で、服従と神罰を説いた時の章のようだった。神識典ではなくとも、教会の本を破るなど許されることではない。
「誰がこんなことを……」
疑問が声に出ていたが、こんな不遜なことをするのは一人しか思い当たらない。
「まさかアイゼンが……? でも、何の為に……」
意図を紐解こうと呟いた刹那、直感にも似たひらめきが脳裏を駆け抜けた。
明日。
明日――行われる。
何が、と問う必要は最早なかった。母の処刑日にしか結びつかなかった。
理由など分からない。これがアイゼンのしたことなら、罠の可能性は十分ある。それでも明日であることは間違いないと、本能的に察した。
「熱が出る前に見た景色は、確か夜だったから……」
今が夕方なら、更に一日。牢獄を後にしてからは丸二日が経ったことになる。
足はまだじくじくと痛むが、熱は大分引いていた。意識もはっきりしている。今から急いで出て労働をこなせば、夕食にパンの一切れも許してもらえるかもしれない。それを持って母のところに行こう。
「早く、行かなきゃ……」
《手伝ってやろうか? 鋼のように頑丈な体と、木も倒す剛力と、どちらが欲しい?》
「……要らない」
悪魔の誘いを断って、慎重に両足に力を入れて立ち上がる。壁に手をつき、それから重心を移動する。さすがに、まだ痛い。でも右足は歩く分には支障ない。少し引きずる形にはなるが歩けそうだ。
扉を肩で押し開けるようにして外に出る。辺りは日差しが遮られ、晩秋とは思えない肌寒さを覚えた。
顎を持ち上げるのにも一苦労して、今にも泣き出しそうな空を一瞥する。
「雨が降る前に、少しでも仕事、しなきゃ」
びっこをひいて家畜小屋に行き、夕べの祈りの時間まで片付けをした。
オルカーンとナーデルが嘲笑をもって近くを通り過ぎたけれど、何をされるでもなかった。ぼくが片足を引きずっているのを、満足げに見ていた。
夕べの祈りの後には、ついに雨が降り出した。聖拝堂に行けば、修練士様には一様に嫌な顔をされたけど、気にせず祈りに耳を傾けた。言葉が、ぼくの体の隅々に行き渡る。
そのあとまた手仕事をし、掃除をしてから晩課の鐘に従って聖拝堂に行き、やっと黒パンを一つと皿に半分のスープを与えられた。スープをちびちび飲みながら、周りの目を盗んでパンを隠すのは、緊張したけれど呆気なかった。
《やっと悪に手を出したな? その手が染まる頃には、悪が癖になる》
悪魔が喜々としてぼくの行いを詰ったけれど、ぼくは聞かなかった。母のために隠すパンが悪なら、それでも構わない。
その後、何日ぶりかの宿坊の自室に戻った。何回も埃をはたいた手ぬぐいでパンを包み、神識典を読み、終課までの時間を過ごす。
祝福と聖水を受ける間、抑えようもなく胸がどきどきした。今こうしている間にも院長様にパンを隠していることを見抜かれるのじゃないかと恐ろしかった。
でも、何も起こらなかった。
ぼくは拍子抜けした。
夜には、雨は霧雨になっていた。パンを服の下に隠し、果樹園の奥の穴から出る。
《また悪を犯したな? 今度は、自らの意思で》
「うるさい」
悪魔を黙らせながら穴を乗り越える。そのせいで、遠くからぼくを見る目が幾つもあったことに、ぼくは気付かなかった。でも気付いたとしても、出て行くことを躊躇いはしなかっただろう。
「やっと、やっと母さんに会える!」
お腹を空かせている母にパンをあげることができる。きっと喜んでくれる。褒めてくれる!
でもその歓喜は、監獄塔に辿り着く前に打ち砕かれた。入り口に、今夜はちゃんといたのだ。牢番が。
「何で……」
《当たり前だろう? この前の晩の方がおかしかったのだ》
それは少し考えれば気付いて当然のことだったのに、ぼくはその可能性を毫も考えていなかった。
行けば会える。
でもそうじゃなかった。
ぼくは捨て子で、母は刑を待つ罪人で。
努力しなければ、頭を使ってがむしゃらにでも突き進まなければ、会うこともままならないのだ。
「かあさん……」
霧雨に鬱陶しそうな顔をする牢番が、そばで燃える篝火に浮かび上がる。眠そうだ。それを、ぼくは一番近くの木の幹から呆然と眺めていた。はずだったのに、気付けば踏み出していた。
武器になるものは何もない。あっても、片足を引きずっていては勝てるはずもない。それでも、あの牢番をどうにかして出し抜かなくてはいけない。今は夜だ。霧雨で視界も悪い。何か、少しでも気を逸らせれば。
《そうだ。悪は良い手段だろう? 一度使えば、癖になるさ》
悪魔の声など、今は聞こえなかった。
ただ何か手はないかと、視線を彷徨わす。武器になるもの。牢番の気を逸らせるもの。
その時、がさ、と腐葉土に溜まった落ち葉が夜の静寂を破った。牢番のふらふらしていた頭が、一瞬だけぴたり、と止まる。まるでかすかな物音に耳を傾けるように。
「…………っ」
決断した後は、自分でも驚くほど早かった。修練教会で、アイゼンたちの前で、あんなにも愚図だったのに、今は少しの逡巡もない。
少し離れた位置に落ちていた枝を、全力で遠くに放り投げた。でも慣れないせいで、近くの枝にかこん、と当たってぼとりと腐葉土に落ちた。
それでも、音は霧雨の間を縫って優しく林に拡散した。
早く、早く!
ぼくは出来る限り素早く林の中を迂回して、監獄塔の壁の近くまで走った。
牢番は、何時間にも思えるような躊躇を見せたあと、やっと様子を見に動き出した。今日も牢番は、見張り櫓と入り口の二人しかいない。一人が消えれば、あとはどれだけ慎重に確実にいけるかだけだ。
二日前には、心臓が破れそうなほど緊張して出てきた扉を、今度はそっと音を立てずに開閉する。それだけで、内心小躍りしたいほど浮かれていた。
数歩進んだだけで我慢できず、声が出ていた。
「 ……かあさん」
パンを、一切れだけどパンを持ってきたよ。
そう続けようとして、
「ッ」
「なん、だぁ……餓鬼か?」
ごがっ、と背中を殴られた。いや、蹴られたのかもしれない。どちらかは分からなかった。
気付けば冷たい石床に体を打ち付けて、鈍痛に背を仰け反らせていた。一瞬、呼吸が止まる。そこに更に二発、脇腹目掛けて蹴りが入った。アイゼンたちから食らうのとは違う、重くて大きい一撃。
「餓鬼がなんで入って来てんだ? あ、まさかあの乞食を逃がしに来たのか?」
「ッ」
面倒くさそうな声に、また蹴りが続く。
松明の明かりも届かない廊下は、濃密な闇が充満してすぐそこにあるはずの顔も分からない。それでもその男が――おそらく牢番がぼくを子供だと判断したのは、最初の一蹴りで当たった身体の位置からなのだろう。容赦なくめり込む靴先に、胃が潰れて胃液が搾り出される。
痛い、というよりも気持ち悪さと恐怖で頭の芯が痺れるようだった。
こんな、こんな力で何度も蹴られたら、ぼくなんか簡単に死んでしまう。そう、きっとこれが怖かったのだ。身を守る力さえ簡単に剥がされて、腕にもお腹にも力が入らない。
やめて、と。
何度も声に出そうとするのに、嗚咽ばかりでどうにもならない。
やめて。やめて、怖い。
《ほら、今だ。今こそ願え。邪魔者を全て殺せと》
悪魔の声にも、何も返せなかった。
更に大きな蹴りが、うつ伏せだったぼくの身体をひっくり返した。顔を庇う力も出なくて、ごろんと転がって狭い通路の壁に当たる。その時、懐から何かが転がり出た。
黒くて硬い、パンだ。
「あ……」
考えるよりも先に手を伸ばしていた。その先で、闇の中から生えた悪魔の足が、無造作にパンを踏み潰した。
「なんだこりゃ? ちっ、パンかよ。靴汚しちまった」
その瞬間、怖いという感情が一時吹き飛んだ。
「……ッそれは――」
それは、母のためのパンだったのに!
うおお、と腹の底から勝手に唸り声が溢れ出した時、
「うるっさいねえ! 眠れやしないじゃないか」
がらがらの甲高い濁声が、通路を吹きぬける風に乗ってぼくたちの間に割り込んだ。母の声だ。牢番に蹴られている間、本当はずっと聞こえていた声。
「うるさいのはテメエだババア! いま――」
牢番が奥の暗闇に向かって怒鳴り返す。その隙を逃さず、ぼくはびっこを引いてここまで来た体に鞭打って、
追いかけてくる気配があるのかどうかも分からないまま、いつまでも走り続けた。でも気付けば足は全然前に出てなくて、手をつくこともままならずに顔面から腐葉土に突っ込んでいた。口の中に土と枯葉が入って吐き出す。でもこの胸の中で暴れる感情は、少しも出ていってはくれなかった。
「また、母さんに、助けられた……!」
逃げられたのは奇跡と言えた。暗闇と雨、そして母に助けられた。心臓が皮膚を叩いて突き破ってきそうだった。
でも、喜びはなかった。
母に守られたということは嬉しかったけれど、それ以上に悲しくて、憎しみさえ覚えた。拳を握り締めたけれど、何も出来ないし、壊すことさえもできなかった。
何もない生き方を選んできたぼくは、その感情が敗北感だということすら、知らなかったんだ。
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