第八話 処刑執行
鞭を渡して脇に退いた助手が、手に持った木の板を木槌で三回打ち鳴らす。
鞭を持つ刑吏の手が、おもむろに振り上げられた。
ざん、とも、どん、とも聞こえる音が一度、鈍く響く。けれど組み伏せられているぼくから、その様子は見えない。
観衆の期待に反して、悲鳴は上がらなかった。ぐぅ、と板の上から僅かにくぐもった声が聞こえただけ。
その声を聞いた瞬間、母が鞭打たれる姿を直接見なくて済んでよかったと、ちらっとでも思った自分が許せなかった。
「…………ろ」
だん、とまた鈍い衝撃音が響く。
ぼくは両肩と背骨を押さえつける成人男性の重量を、全身で押し返した。けれど昨日の雨でぬかるんだ土のせいで、突いた手は滑り、ろくに踏ん張れなかった。何度も泥を掻いて、爪の中まで真っ黒に染まる。何度も両手を突っ張っては、気付いた助手に潰され、時に拳を見舞われた。
それでも、繰り返した。
「……やめろ」
だん、だん。
やめろ。母さんを傷付けるな。
「やめろ……!」
だん、だん、だん。
何回も、何回でも、その音は響く。打ち鳴らされる。その度に、肉を裂く音や、必死で苦鳴を堪える呻き声が混じる。
やめろ。やめて。もう母さんを苦しめないで。
あんなに細い体なのに、もうずっと何日もろくに食べてないのに、そんな
壊れてしまう。
ぼくが助けてあげたいのに、逃がしてあげたいのに、壊れてしまう。
間に合わなく、なるじゃないか。
「……やぁめぇぇろぉぉおおお!」
自重の何倍もある重量に抗うたび、ぼくの体がみしみしと嫌な音を立てて痛みを――限界を訴える。今のぼくに、それを聞いてやる余裕はなかった。
腕が伸びきる最後に入れた力で、助手を振り落とすように背を仰け反らす。
「うわぁっ?」
ぼくを侮っていた助手が、民衆の輪に転がり落ちる。その腹を踏み台にして、
凶悪な処刑具を振り上げたところの刑吏の顔が、ぎょっと目を剝いた。でも、その手が止まらない。
「やめろォ!」
最後の一段を飛ばして、そのまま刑吏の腰に飛びつ――こうとして、もう一人の助手に邪魔された。でも今のぼくにはそんな奴、眼中になかった。
がむしゃらに暴れて、助手の顎を殴って、殴られて。贅肉のついた腹を蹴って、蹴られて。わーわーと周りの声がうるさい。自分でも何か怒鳴り散らしていた気がするけど、ちっとも声は届かない。
それでも助手はいつの間にかいなくなっていた。台の下に落ちたのかもしれない。となると、あとはその先に変な顔をして立つ刑吏だけだ。
「母さんを返せ!」
「はあ?」
再び兎のように跳ねて飛びかかった。最早左足の激痛は、慢性化したように感覚がない。踏ん張りもきかなかったけれど、でたらめに拳を振るった。
今の今まで、誰かを殴るなんて想像さえできなかったのに、今日だけでもう三人目だ。殴る方も拳が痛むなど、初めて知った。
でも上がったのは、ぼす、という音にもならない音だった。刑吏の体が僅かに揺れる。それだけ。
「……え?」
「何だ、この子供は」
今までの勢いが嘘みたいに、ぼくのがむしゃらは何の役にも立たなかった。そこでぼくは、愚かにも顔を上げてしまった。
刑吏の目は、ただ淡々と仕事をこなすだけの、観衆たちと同じ何の感情も宿らない目だった。
「ひ……っ」
喉の奥で悲鳴が上がって、必死でもう一度腕を引く。でも拳が届くよりも先に、刑吏のもう一方の手で無造作に払われた。
そんなに強い力じゃなかったはずなのに、ぼくの体は呆気なく尻餅をついていた。途端、それまで気にならなかった笑声が、背中を刺す。
「くすくす。なにあの子供」
「何がしてぇんだ」
「はは。実に滑稽だな」
「良い余興じゃねぇか。考えたな」
「…………!」
一瞬で羞恥が込み上げた。顔も首も熱い。でも、だから何だ、とも思った。
ぼくはやり遂げる。母を守るんだ。
ぼくは奥歯を食いしばって、もう一度立ち上がった。その眼前で、刑吏が観衆に見せ付けるように鞭を持つ手を大きく振り上げる。
その真下――母に覆いかぶさるように、ぼくは背骨の浮いた背中にむしゃぶりついた。襲い来る痛みに、ぎゅっと目をつぶる。
「ぐあっ」
「っ?」
その声を上げたのは、ぼくじゃなかった。
何をどうしたのか、気付けばぼくは板の上に手を突いていた。守ろうとしたはずの母の背はどこにもない。
「……なんで」
代わりに、背中が温かかった。ずしりと重い。鼻をつくのは、牢獄で嗅いだ何日も洗っていない体臭と古い木の香りと、血の匂い。
「か、あ、さん……?」
自由になる首だけを無理に回して、背後を見やる。
まず視界に入ったのは、ぴんと伸びきった麻縄と、ぼさぼさに縮れた髪の毛先。その向こうのぼろぼろに破れた服と、周囲に飛び散った幾つもの紅点。
でも何よりもぼくに現実を認識させたのは、背中から伝わる両手の平の熱だった。
初めて会った晩、檻の向こうから差し出された手。
あの時握り返せなかった手が今、優しくぼくを押さえつけている。骨のような見た目と同様、がさがさと冷たい感触しかしないと思っていたのに。
ぼくの背に触れるその手は、信じられないほど優しくて、温かくて。
「本当、馬鹿だねぇ」
それはさっきと同じなのに、全然違う響きを持っていた。
まるで、こんなことをする自分の方が愚かだとでも言うように。
「な、んで……」
理解が出来なかった。
母は逃げたがっていた。そのためにはぼくが守って、逃がしてあげなくちゃいけないのに。
ぼくなんかを庇ったら、もっと体が傷ついて、上手く逃げられなくなっちゃうのに。
なんで。なんで?
「母さん、なんで……!」
「――来るな、って」
吐息が、ぼくの背中を湿らす。ぜえぜえと零れる呼気のほうが煩くて、ろくに声になっていない。それでも、その声は不思議とよく聞こえた。
「本当の母親は、言うんだよ」
怒るような、呆れるような声だった。
でもぼくは、やっぱり理解できなかった。
だって母さんは、逃がしてくれって言ったじゃない。ぼくの分を削ってでも、食事をくれって。
それなのに、今度は来るなっていうの?
本当の母親はって、何?
《あぁ、憐れだねぇ。ここまで言われても、まだ分からないのか?》
分からない。分からないよ。
でも答えを求める前に、刑吏の舌打ちが鳴った。
処刑人は、刑に的確で迅速であらねばならない。特に斬首は、僅かでも逸れて即死させられないと、死刑囚に同情的な見物人などから石が飛んできたり、ひどい時には集団で囲んで襲撃されることもあるという。
相手は村人から忌み嫌われる放浪者だが、それでもこの刑吏が焦っていることは、公開処刑をよく知らないぼくでも察することができた。
今回の見物人たちが同情的でないにしろ、鞭打ちはあと八十回近く残っている。それで助かれば神はこの罪人に慈悲を与えたとなるし、死ねば神に見捨てられたとして、偶然刑として処理される。
どちらにしろ、早く片付けてしまいたいのだ。
それなのに、ぼくという異分子が邪魔をし、乞食までが同情を引くような行動をとった。
この男は内心、戦々恐々としているだろう。
いつ、群衆の中から可哀想だと訴える声が上がらないかと。
「どけどけ! 早くどけ! 邪魔をするな!」
ぼくに覆いかぶさったままの母の背や脇を、刑吏は構わず打ち続ける。観衆には聞こえないように小声で、けれど必死に、刑吏が怒鳴り続ける。
助手が、驚きと困惑の間で回数を数えるのを再開する。残る一人は、手も出せずおろおろしている。
振動が、何度もぼくの体を揺さぶった。
だんっ、だんっ、だんっ。
その後には、ぴっとあちこちに血が飛んだ。僅かに出ているぼくの手にも、足にも飛ぶ。その度に、今まで味わったことのない恐怖がひたひたと降り積もった。
怖い。怖い。怖い。
ぼくは痛くないはずなのに、恐怖で死んでしまうと思った。でもどうにもできなくて、ゆっくりと体の芯から冷えていく。
背中だけは、どんどん熱くなるのに。滴り続ける、母の血のせいで。
涙が、滲んだ。
《弱い。弱いなぁ》
母の手が温かかった。最初は、それだけのことで涙が出そうだった。理由も分からないまま。
今は、明確に一つのことで涙が目尻に浮いた。
守れない、という現実に。
《弱いから守れない。弱いから決断できない》
守れない。命がけで庇ってくれる母さんを、ぼくは守れない。弱いから。
《弱いことは悪だ。悪は癖になるものなぁ?》
弱いことが悪いことだと、考えもしなかった。弱いことに甘んじ、仕方のないこと、変えられないことだと受け入れていた。それこそが、きっとアイゼンを苛立たせていた。
ぼくが、何もしてこなかったせいで。
「もう、やめて……」
だん、だん、という音の中に、皮膚の下の肉を掻きまわす、ぐち、ぐち、という不快音が混じる。耳を塞ぎたい。でもこの体は痛みと疲労と恐怖と絶望で、もうがらくた同然だった。
「やめて……母さん、もういい……やめて……!」
もう耐えられない。弱いことがこんなにも辛いなんて。がらくたを庇うなんておかしいよ。そんな無駄なこと、誰もしない。だからやめて。もうやめて。
《望んでいたのじゃないか? 愛してほしいと。全力で守ってほしいと》
違う。こんなことをしてほしかったんじゃない。
抱きしめてほしかったよ。でも違うの。守りたかっただけなんだ。一緒に逃げるって、少しの希望を夢見て、母さんの心に少しだけ寄り添ってみたかっただけなんだ。
《母を求めるとは、愛を求めるとは、つまり庇護を求めていたのだろう? 決して自分を裏切らない、絶対に安心できる存在を》
違う、とは言えなかった。
希望に縋っていたのは、ぼくの方だったんだ。
だから、言わなくちゃいけない。
「騙してたんじゃないの!? 本当の母さんじゃないのに、どうしてぼくなんかを庇うの!?」
血を吐く思いで叫んだ。
本当は気付いていた。悪魔に指摘されるよりもずっと前から。でも認めたくなかった。知らぬ間に、承知の上で縋りついてた。真実の庇護者を求めてしまった。
何かが変わると、変える努力もせずに待っていた。ただ期待していたんだ。血も繋がらない、赤の他人に。
《あぁ、なんと酷い奴だ。無垢で無実な顔をして、その腹の底では他者を利用して自分だけ救われようとしている!》
言葉もなかった。だって、事実だったから。
《どうせなら、そのまま騙されたふりをしていれば良かったのに。そうすれば、お前は母を助けようとした勇敢な孤児になれた》
出来ないよ。
だって、温かかったから。
赤の他人なのに、温かかったんだ。ぼくを守る両手が。母ではないのに。本物ではないのに。ずっと忘れていた涙が出るほどに、温かかったから。
だから、騙し続けることなんて出来なかった。
けれど返されたのは、驚くほど静かな声で。
「本当に、馬鹿な子だねぇ」
何度も聞いた言葉なのに、今まで一番、愛されていると感じた。
「……うん。馬鹿でいいよ」
母さんが助かるなら、馬鹿でいい。できるならずっと母さんの子でいたかったけど、いいんだ。
「だから、母さん。死なないで」
最後の力を振り絞って、無理やり体を捻って、母の体を抱え込もうとして、
「かあさ――」
ばしゃっ、と今までと違う音がした。まるで液体を床にぶちまけたような、鈍い水音。そしてそれは、ぼくの左手にかかって、毛羽立った板の上に音もなく広がる。
色は、深緋。
事態が飲み込めないうちに、今度はずる……と背中から重みが消えた。どさっと重たげな音を立てて、左側に落ちる。
伸びっぱなしで長いだけの髪が、死相の浮いた顔を覆っている。その隙間から、ぎらつく目と赤黒いほどの唇が見えた。
母が、横ざまに倒れている。飢え死にした野良犬のように。
「な、……かあさ――?」
「うわっ、こいつ……!」
混乱したまま、とにかく母に手を伸ばそうとした時、刑吏が異様な素早さで後ずさった。空いた手を口に添え、嫌そうに眉根を寄せる。
「血を吐いた……!」
「……え?」
「まだ背中しか打ってないのに――内臓は傷ついてないはずなのに、血を吐きやがった……!」
言いながら、既に鞭打ち台の端まで逃げた刑吏を見て、ぼくはやっと理解が追いついた。
そうだ。これは吐血だ。
自分の左手の甲にかかった赤い液体を眺めながら、記憶を掘り起こす。
修練教会の施療院で、たまに見られる症状だ。吐血した病人は奥の部屋に隔離され、修練士様たちも能面を作って近寄りたがらない。
《なぁんだ。これでは助からないな》
悪魔が、詰まらなそうに呟いた。
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