第8話 赤い封蝋の追憶

 俺が泣き疲れてぼうっとしているときだった。なんとなく、琥珀亭のカウンターを思い出した。凛々子さんを待つあの埋まらずの席を。


 ぼんやりと辺りを見回して、ふと思う。凛々子さんの魂は、もしかしたらまだこのへんにいるかな? 最後に大好きだったウイスキーを飲みに来るかな?


 居ても立ってもいられず、俺は部屋を出た。一階への階段を下り、店に通じる扉が見えたとき、俺は立ち止まった。扉の隙間から光が漏れていたからだ。


 恐る恐る扉を開けると、カウンターの中に親父がぼんやり立っていた。親父は俺を見て、何も言わずにふっと微笑む。


『考えることは一緒だな』


 その目がそう言っていた気がする。凛々子さんの席には既に、ウイスキーの入ったロックグラスが置かれていた。俺は黙って、埋まらずの席の隣に座る。親父も黙って、俺のためにウーロン茶を出してくれた。


 しばしの沈黙の後、親父が掠れた声で呟いた。


「人が一人いなくなるってのは、寂しいもんだ」


 返事ができなかった。もしかしたら、親父はここで一人で泣きたかったかもしれない。その手にはロックグラスがあって、琥珀色の液体が煌めいていたから。


「お凛さんはお前と飲みたがってたよ」


 親父が目を細めて、俺を見た。


「澪が二十歳になったら、真っ先に一緒に酒を飲むんだって張り切ってた」


 凛々子さんの馬鹿。俺は涙をこらえて心の中で呟く。そんなこと言っておきながら、先にいなくなるなんてひどいじゃないか。


「......これ、凛々子さんのキープボトルでしょ?」


 隣にあるグラスを目で示し、俺が訊いた。親父は「あぁ」と赤い封蝋の瓶をつまみ、俺にラベルがよく見えるように回した。


「メーカーズマークっていうバーボンだよ。お凛さんはいつもこれを飲んでた」


「どうして、この酒なの?」


「お前のひいじいちゃんの蓮太郎さんがすすめたんだってさ」


 そういえば、彼女はひいじいちゃんに惚れていたんだっけ。俺が「ふぅん」と頷いていると、親父が小さく笑った。


「......でもな、それは表向きの理由だよ」


「どういうこと?」


「お凛さんは照れ屋だったから、なかなか本当の理由を話さなかったけど」


 黙って話の続きを待っていると、親父は酒の並んだ棚から一本のボトルを取り出した。


「蓮太郎さんの命日には、お凛さんは必ずこれを飲んでた」


 目の前に置かれたのは、ちょっと背の高いボトルだった。


「蓮太郎さんの好きだったブッカーズだ。これを、彼の好きな飲み方だったハーフ・ロックで飲んで偲んでいたよ」


 親父はウイスキーで舌を湿らせた後、カウンターにグラスを置いた。


「俺がここに来て何年かした頃に、訊いたことがある。『こうして命日に蓮太郎さんを偲んでますけど、死んだ旦那さんには同じことをしないんですか?』ってね」


「凛々子さんは何て言ったの?」


 すると、親父が切ない笑みを浮かべた。


「お凛さんは滅多に旦那さんとの思い出を話さなかった。とても大事なものだったからだろうし、あんな強気そうにしていても、照れてたんだろうな。だけど、そのとき初めて教えてくれた。死んだ旦那さんはメーカーズマークが好きだったんだよ」


 この琥珀亭で若き日のお凛さんがいつものようにメーカーズマークを飲んでいたとき、ふと話しかけてきた男がいたそうだ。


『それ、俺も好きな酒なんですよ』


 人なつこい笑顔の彼こそ、後に凛々子さんの旦那さんになる人だったらしい。彼女は親父にこう言ったんだそうだ。


「私は毎日、旦那を偲んでいるわけじゃない。一緒に飲んでるんだ。だって、旦那は私といつまでも共にあるからね」


 それを聞いたとき、俺はあの白黒の写真の裏に書かれた文字を思い出していた。


『いつまでも共に』


 それは旦那さんが死んでから書かれたものかもしれないし、写真が出来たときに書いたものかもしれない。今となってはわからないけど、それは確かに二人の合い言葉だったんだ。俺は心底、凛々子さんの旦那さんが羨ましかった。この俺にも、そういう風に想ってくれる人がいるんだろうか。すっかり氷が溶けて薄くなったウーロン茶を飲み、俺は鼻をすすった。


「澪、ありがとうな」


 親父が突然礼を言い出したもんだから、俺は目を丸くした。


「何が?」


「お前、バーテンダーの服を着てお凛さんに会ったんだって?」


 なんだか気恥ずかしくなって、下を向いた。そういえば、文音に口止めしておくのを忘れてたな。親父は俺のグラスにウーロン茶と氷を足しながら、静かにこう言う。


「でもなぁ、好きにしていいんだぞ」


 思わず顔を上げると、親父は眉を下げて笑っていた。


「お前がここを継いでも継がなくても、自由だ。大学に受かったら、行ってごらん。俺みたいにふらふらしてからだって遅くない。焦らずにゆっくり決めるといいよ」


 そして、親父は「お前は俺に似たからな」と付け足した。俺はじっと親父の手を見る。数えきれないほどのカクテルを作ってきた手は、骨張って大きかった。


「......うん。ありがとう」


 小さく呟くと、親父は「うん」と微笑んだ。


「その代わり、二十歳になったら一緒に酒を飲むぞ。こうして、お凛さんの席を囲んでな」


「親父......お願いがあるんだ」


「うん?」


「俺の初めての酒はさ、この凛々子さんのボトルでもいい?」


 彼女のためだけに置かれているメーカーズマークをそっと撫でた。親父はちょっと黙っていたが、ふと囁く。


「あぁ。お前ならいいよ。お凛さんだって許すはずだ。生きていたら、きっとそうしたはずだから」


 拭っても拭っても溢れる涙で、ボトルがぼやけて見えた。

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