第9話 からっぽの心に流れ込むもの

 翌日の葬儀は淡々と進んで行った。俺たちはバスに乗って、火葬場へ向かった。隣には文音が座っていたが、何も喋らなかった。俺はただただ、窓の外の景色を見つめていた。凛々子さんがいなくても、空は相変わらず青いままだ。


 火葬場でまた読経があり、係の人が慣れた様子で棺を分厚い扉の向こうに押しやった。凛々子さんが灰になる。お袋が親父の肩に顔を押しつけて泣いていた。親父は黙って扉を睨みつけながら、お袋の肩を抱いている。

 俺の横で文音が嗚咽を漏らした。そっと小さな頭を抱き寄せると、彼女は俺の腕にすがって泣いた。本当は俺も泣きたかったけど、なんだか泣く訳にいかない気がしてた。だって、親父も本当は泣きたいんだ。あの噛み締めた唇と広い背中を見ればわかる。だけど、親父は黙ってお袋を包み込んでいた。俺も、文音に同じようにしてやりたい。そう思った。


 人間が骨と灰になるには、結構時間がかかるってことを初めて知った。俺たちは座敷に案内されて、しばらく待つように指示された。暁さんは外に煙草を吸いに行き、大地君夫婦と親父たち、そして志帆さんが思い出話をしていた。炯人と文音は疲れたのか、言葉を交わすこともなくじっと座っている。


 俺は居たたまれなくなって、座敷を離れた。通路を行くと、奥にどでかいホールがあった。天井が高く円形をしていて、ベンチと植木が並んでいた。ご丁寧に新聞や雑誌まで置いてある。

 俺はとりあえず一番奥のベンチに座ると、高い天井を見上げた。ここを設計した奴は、どうしてこんながらんとした天井にしたんだろう? 俺の気持ちまでぽっかり穴が空いてがらんとしてしまうよ。そう思ったときだった。


「ここにいたのか」


 かけられた声に顔を上げると、そこには暁さんが立っていた。そっと俺の隣に座る。ふわりと煙草の匂いがした。

 俺たちはしばらくの間、お互い黙ったままだった。暁さんは炯人の父親で、バルとアイリッシュ・パブを経営している人だ。琥珀亭で修行していたらしいし、お袋とは同級生だった。彼が黒いネクタイを緩めると、炯人と同じ浅黒い肌の首筋が露になった。


「澪、疲れたろ?」


 俺は黙って首を横に振る。本当は疲れ切っていた。泣くことがこんなに生気を奪われるとは知らなかった。だけど、文音や大地君に比べれば、俺の痛みなんてまだまだだ。


「澪、お前に訊きたいことがあってな」


「何ですか?」


「お前、バーテンダーになるのか?」


 暁さんがじっと俺を見つめていた。


「......そのつもりです」


「そうか。尊はあの性格だから何も言わないと思うけど、本当は嬉しいはずだぞ」


「そうだといいです。親父はただ『焦らずに決めろ』って言ってましたよ」


 俺が苦笑すると、暁さんが「はは」と声に出して笑った。


「あいつらしいよ」


 彼は膝の上で両手を組み、ベンチの背もたれに身を預けた。


「なぁ、澪。提案があるんだけど」


「はい」


 いささか緊張する。だって、この人は親父よりも先輩のバーテンダーで、琥珀亭創業者の一番弟子なんだから。彼は顔だけこちらに向けて、真面目な顔をしていた。


「お前、大学に受かったら炯人とカナダにホームステイしてみないか?」


「カナダ?」


 びっくりして大声を上げると、暁さんが頷く。


「うちの炯人、実は通訳になりたいらしくてな。カナダに志帆の友達がいるんで、来年の夏休みにでも二週間くらい行かせるつもりなんだ」


 ......初耳だ。炯人が通訳を目指してるなんて、あいつはそんなこと一言も俺に言わなかった。なんだか、皆動き出しているんだな。ふと、そう思った。医学部に通う響歌も、カナダに行こうとする炯人も、そして、俺も。


「まぁ、お前も大学に行って、いろんなことを経験しておけ。英語は喋れたほうがバーテンダーとしてもいい」


 暁さんがふっと笑う。


「いろんな知識をつけて、引き出しを沢山作っておけよ。バーテンダーはお酒相手だけじゃない。人間相手の仕事だ。人間味があるほうが、良いに決まってる」


 俺が頷くと、彼はふっと目を細めた。


「バーテンダーの人間性の深さが、酒の味をより深める。......まぁ、これはオババ様の持論だけどな」


 『オババ様』とは凛々子さんのことだ。彼だけが、彼女をこう呼んでいた。


「あの人はなぁ、俺にとっても、真輝にとっても、志帆や尊にとっても特別だった」


 彼が呟く。


「オババ様は不思議な人だった。悩みなんか打ち明けたら『なにやってんだい』って叱られそうなのに、無性にすがりたくなるんだ。今思えば、彼女は皆のお母さんだったな。俺たちは叱って欲しくて、オババ様に打ち明け話をしてた気がするよ」


 まだ元気にバイオリンを弾いていた頃の凛々子さんが思い出された。ぐっと背筋を伸ばして、くいっと右の眉を上げる。俺はそんな彼女の後をいつも追っていた気がする。


「澪は恵まれてるぞ。あんな魅力的な人に育ててもらったんだからな」


「......俺もそう思います」


「いつかあの世で再会したとき『良いバーテンダーだったね』って言われるように、頑張れよ」


「......はい」


 俺は長い息を吐いた。すうっと腹の据わる音がした。


 その後、暁さんはバルを吉田さんという後輩に任せて、自分は琥珀亭のようなオーセンティックなバーを開くつもりだと言った。琥珀亭とは違うタイプの店をずっとやって来たけど、結局のところ自分の求めているものは、琥珀亭のようなバーだったと彼は言った。


「遠回りしたけどな。気づいて良かったよ」


 そう笑った後、彼は俺に言った。


「どんな選択をしても、最短距離で答えを見つけられる奴なんていないさ。皆、どこかで遠回りするんだ。でも、それをただ見送るか糧にするかは、自分次第だ」


 俺は黙って頷いた。俺たちは動き出す。それぞれの航路を、思いのままに。凛々子さんがいても、いなくても、それは避けられないんだ。だって、時間は無情に流れるものだから。


 暁さんが呟く。


「あぁ。今頃天国では蓮太郎師匠夫婦とオババ様夫婦が大宴会だな」


 俺たちもいつか混ざるんだろうけど。暁さんがそう苦笑した。

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