第7話 初恋は海底の真珠のように
凛々子さんの親族はほとんどいなかった。だけど、弔問客の多さが生前の彼女の人柄を物語っていた。
俺は制服で椅子に腰掛け、白黒の凛々子さんの遺影を見ていた。何年か前の写真かな。ちょっと綻んだ目がとても穏やかだ。視線を親族の席に移すと、文音の姿が見えた。目を真っ赤にし、心細そうだった。お袋が大地君と千里さんをそっと抱きしめた。親父と暁さんが、葬式の準備を手伝っていた。俺のそばには志帆さんと炯人もいる。
お通夜の間、俺は数珠を手にしながら、心がどこかに行ってしまったようだった。まるでドキュメントでも見てる気分だった。長い読経の後、弔電を読み上げる。焼香をし、僧侶が出て行く。そんな段階を踏むにつれ、なんだか凛々子さんが死んだって事実を無理矢理認識させられている気がした。葬式っていう儀式がすすむたび、少しずつ冷たい事実が俺の中に植え付けられていく。
棺の中に花を供えるときが来た。正直、俺は凛々子さんの顔を見るのが怖かった。ちょっと遠巻きに人々がすすり泣きながら彼女に話しかけるのを心もとなく見ていた。一人のよぼよぼのお爺さんが、家族に付き添われて花を添えていた。
「お凛さん、覚えてますか? 私ですよ、藤田ですよ」
彼は棺をのぞきこみ、涙でしわくちゃの顔で話しかける。
「私もすぐ行きますからね。向こうでモンキーショルダーを用意して待っててくださいよ」
琥珀亭の常連仲間だろうか。藤田という人はまるで子どものように泣きじゃくっていた。
不意に、文音が俺の袖を引っ張った。俺は頷いて、文音と一緒に棺の傍へ歩み寄る。覗き込んだ先には、凛々子さんのようで、凛々子さんではないような顔があった。蝋人形みたいなその顔に、俺は悟った。
『あぁ、本当に彼女はいないんだ』
涙が堪えきれず、慌てて手で荒く拭う。さっきから握りしめていた花を添えて、俺は呟いた。
「さよなら」
さよなら。俺の祖母であり、母であり、姉であり、親友であった人。さよなら。俺の厳しくも優しい師匠。さよなら。俺の大切な澪つくし。
隣で文音が声を殺して泣いていた。俺はそっと彼女を抱き寄せ、ゆっくり棺から遠ざかる。棺桶が閉ざされたとき、凛々子さんと一緒に、俺の心にまで蓋をされたようだった。
お通夜の後、俺と両親は琥珀亭に戻った。葬儀は明日の昼かららしい。俺は部屋に戻ると、靴を脱いでソファにドカッとなだれ込んだ。全身に疲れが重くのしかかる。何の音もしない部屋が息苦しい。
俺はそっとポケットから封筒を取り出した。帰り際、文音がこれを差し出して言ったんだ。
「ひいばあちゃんからね、預かってたの。もしも私に何かあったら、澪に渡すんだよって」
俺は「ありがとう」とだけ呟き、それを受け取った。怖くて、すぐには中身を見れなかった。それが俺の涙腺を壊してしまう気がしたから。
気持ちの準備を整えたくて、バッハの『マタイ受難曲』をかけた。それは凛々子さんの特に好きな曲で、これを聴きながらよく言っていたんだ。
「私はね、これからステージに上がるってときにはコレを聴いていたんだよ。気持ちが落ち着くからね」
カール・リヒターの指揮で流れる悠然としたメロディが、まるで儀式に赴くような気分にさせた。そっと封筒を開けると、中から出て来たのは一枚の写真だった。手紙はない。ただ、あの日俺が見せてもらった若き日の凛々子さんと旦那さんの白黒の写真だった。裏には彼女の達筆な字でこう書いてあった。
「いつまでも共に」
俺は声を上げて泣いた。十字架を負うイエスを嘆くコーラスが、俺の嗚咽を隠してくれた。
写真を見て、つくづく思う。俺は本当にこの人が好きだった。大好きだった。もし、俺と同じような年に生まれていれば、きっと恋に落ちていた。だって、俺が求める答えは彼女が持っていたんだから。
泣き止んでから、俺はふっと自分を笑う。......参ったなぁ、俺ってババコンかよ。
でもさ、本当に思うんだ。きっと、俺の初恋は凛々子さんだ。この写真の彼女を見たとき、多分もう恋の海に身を投げていたんだよ。だけど、スフィンクスの行く末と同じように、俺の初恋はあっという間に死んで海の底に沈んでいただけ。
俺はやっと、初恋を見つけた。海底で静かに輝く真珠のように、そっと眠っていた初恋を。月の光にも似た、穏やかな光を。
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