第6話 スフィンクスの答え

 いつもだったら学校帰りにまっすぐ凛々子さんのところへ行く。けれど、この日は一度部屋に戻ってから出かけた。キャリーバッグを持っていかなければならない。凛々子さんの部屋に入ると、今日の彼女は肩にストールをかけていた。


「冷えるわね」


 そう眉をしかめながら言った後、俺の荷物をしげしげと見やる。


「......何事だい?」


「今日はね、連れがいるんだよ。だけど、まずは約束のこれ」


 俺は一枚の写真を差し出した。そこには金色の目をした黒猫と、空色の目をした白猫が映っていた。黒猫のスモーキーと、白猫のピーティーだ。スモーキーは凛々子さんのバイオリン教室に入り浸っていて、彼女のお気に入りだった。凛々子さんは「まぁ、まぁ......」と震える指で写真の彼らをなぞった。


「懐かしいねぇ。やっと、会えたねぇ」


 まるで花束を贈られたような顔をして、彼女は懐かしむ。


「スモーキーは音楽が好きでねぇ」


 彼女はいつもより、随分とはしゃいでいた。


「お弟子さんの演奏がひどいとね、部屋を出て行くんだよ」


「へぇ」


 俺は思わず顔を綻ばせた。言われてみれば、そうだった気もする。


「ところで、その荷物は?」


「あぁ、そうだ」


 俺はキャリーバッグのロックを外す。中からひょこっと顔を出したのは黒猫だ。


「スモーキー?」


 目を見開く凛々子さんに、俺は笑った。


「まさか。スウィーティーだよ。凛々子さん、覚えてるでしょ?」


「まぁ、懐かしい。お前は、スモーキーの孫だね?」


 彼女は少女のように笑う。その笑顔が、なんとも言えず可愛く見えた。スウィーティーは部屋の様子が違うのにびっくりしていたが、そのうちおずおずとキャリーバッグから出て来た。顔を床に近づけて辺りの様子を伺っている隙に抱き上げ、俺はそっと凛々子さんの膝の上に乗せてやった。


「ほら、スウィーティー。凛々子さんだよ」


 言葉が通じたとは思わないけど、スウィーティーは金色の目を凛々子さんに向けてじっと見つめていた。


「お前は目の色まで、スモーキーと同じだったかね」


 彼女は嬉しそうに笑い、スウィーティーの顎を擦った。


「もう十六歳だよ。人間で言ったら八十くらいかな」


「すっかり、私と同じお婆ちゃんね」


 スウィーティーは目を閉じ、凛々子さんにされるがままだ。気持ち良さそうに、喉を鳴らしながら。


「まるで、スモーキーにまた出逢えたみたい」


 彼女は呟き、潤んだ目を向けた。


「......ありがとうね、澪」


 俺が微笑むと、彼女はこんなことを呟いた。


「澪、私はね、悔いのない人生なんてあるもんかと思っていたよ」


 そして、どこか遠くを見るような目をした。俺の心臓がドキリと跳ねる。まるで、彼女の心が手の届かないところへ行くような、あの感覚に襲われていた。


「だけどね、もう何にも怖くない。後悔なんてありゃしない」


 俺は何も言えなかった。ただただ、彼女の横顔を見つめていた。あの頃のように凛々しさを漂わせた顔を。


「馬鹿言うなよ」


 俺は咄嗟に呟いた。


「まだまだだよ、凛々子さん。文音の成人式も見てないよ。俺だっていつかは結婚して子どもも生まれる。そういうの、見たいと思わないの?」


「そりゃあ、見たいさ。だけど、その頃には目が見えてないだろう」


 彼女はくすっと笑ったが、俺は真面目な顔のまま言った。今笑ったら、涙がこぼれそうだった。


「嫌だよ。俺はそれまで凛々子さんを離さないからね。勝手に遠くに行くようなこと言うなよ」


 すると、凛々子さんがふっと目を細めた。


「馬鹿を言うのは、お前だよ。そういう言葉は、惚れた女に言うもんだ」


 俺は彼女の手をとり、そっともう片方の手を重ねた。


「俺は待ってるんだ。いつか、凛々子さんが教えてくれた答えと同じことを言ってくれる人を」


 きょとんとしている彼女に、俺は頷いて見せた。


「覚えてる? 昔、凛々子さんは俺に旦那さんと映ってる写真を見せてくれたよね」


「......そんなこともあったかな」


 記憶を手繰る彼女に、俺は「そうだよ」と囁いた。


「あのとき、俺は凛々子さんにこう訊いたんだ。『どうしてこの人だったの?』って。ひいじいちゃんを好きだったのに、どうして旦那さんを選んだのかってね」


「そうだったかい?」


「うん。それでね、凛々子さんはこう答えたんだよ」


『そんなのわからない。どうしてかなんて一言では言い表せないくらい、好きになったんだ。心には勝てないから、私は彼を選んだんだよ』


 それは、俺が今でも求めてる答えだった。凛々子さんのように想いを寄せてくれる誰かを、俺はこのときから待ち続けている。俺がそう言うと、彼女は笑った。まるで少女のように照れながら。


「澪も尊に似て、ロマンチストだね」


 俺は嬉しかった。だって、俺の澪つくしはロマンチストな人が好きなのを知っているからね。スウィーティーをキャリー・バッグに促し、俺はいつものように言った。


「また明日」


 彼女は大事そうに写真を両手で持ち、微笑んだ。


「またおいで」


 俺たちは微笑み合う。時が止まれば良い。本気で願った。だけど、それから三ヶ月後、凛々子さんは本当に手の届かないところへ行ってしまった。


「眠るような顔だった」


 大地君が電話の向こうで泣いていた。スウィーティーが後を追うように死んだのは、それから二週間後のことだった。

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