第7話 ロミオと無色の光
琥珀亭のあるビルの軋む廊下を歩く。私たちが借りている部屋の扉の向こうから、微かに音楽が聞こえてきた。
私は鍵を開けて、取っ手を掴んだ。ゆっくりと扉を引くと、見慣れた玄関の向こうに、大地の丸まった背中がある。部屋の中にはプロコフィエフの『ロミオとジュリエット』が流れている。
咄嗟に振り返る大地の目が見開かれ、ぽかんと口が開く。そして、慌てて立ち上がった。私は靴を脱ぎ、彼のそばへゆっくり歩み寄った。その間、彼は伸ばしかけた手をすっと戻し、俯いた。言葉を探している。私と同じように。
だけど、言葉なんて見つからないの。この部屋で大地と向き合うことが、こんなに嬉しい。どうして、今まで当たり前のように過ごしてこれたんだろう?
私はそっと大地の頬に手を当てる。彼が驚いたように見返したとき、そっと唇を重ねた。言葉が見つからないから。ごめんねの一言じゃ追いつかないから。静かな音をたてて離れると、大地の目が見開いたままだ。
「......千里」
彼が勢い良く私を抱きすくめた。背中をかき抱く彼の手が、痛いくらいだった。
「大地、あのね......」
涙がこみ上げた私に、彼は耳元で囁く。
「先に言わせて」
胸が熱かった。嗚咽が漏れ出す。
「不安にさせてごめん。独りよがりでごめん」
「......それ、私だよ。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
大地の背中に手を回した。あの傷ついた背中を癒すように、何度も撫でた。
「おかえり」
優しく降る大地の言葉に、返事ができなかった。私は声を上げて泣いたから。尊さんの『おかえり』はほっとするものだったのに、大地のそれは私の心を締め付けた。
同時に赦されたことを知り、安堵の中で全身の力が抜けてしまった。
私たちはソファに座った。手を握り合ったまま。こんな風に座るのは、本当に久しぶりだった。大地がおずおずと私の顔を覗いた。
「あのさ、この曲を初めて聴いたとき覚えてる?」
私は頷いた。プロコフィエフの『ロミオとジュリエット』を忘れるはずがなかった。初めてのデートで行ったクラシックのコンサートの演目だった。あの日、もの凄く緊張しながら待ち合わせの場所で立っていたっけ。
「どうしてあなたはロミオなのってジュリエットの台詞があるじゃない?」
何故あなたはモンタギュー家の人間なのか。その名を捨てて私をとって欲しい。そんな想いのこめられた台詞だったと思う。
「女の子はいつも『どうして』って気にするけどさ。ロミオはロミオだし、俺は俺だから。自分でもどうしてか、わからないんだ」
大地が私の問いに答えようとしている。それを感じ取って、じっと聞き入った。
「俺はこうして生まれついて、その俺が千里を見たとき『この人だ』って心を奪われた。それだけなんだよ。自分でもどうしてかなんてわからない」
『どうして私を好きになったの?』というあの夜の問いに、彼はそう答えた。
「目を奪われたんだ。そう感じたんだ。俺はそれで充分だと思ってた。だけど、千里を不安にさせちゃったんだね」
私は首を横に振る。
「今まで一度だって不安になったことなんて、なかったの」
「じゃあ、どうして?」
「......私が甘えてたの。求めてばかりいたの」
私は大地に結婚を意識しはじめてから、不安になり出したことを伝える。彼は黙って耳を傾けてくれた。やがて、彼はふっと笑う。
「なんだか、俺たち、同じだね」
「え?」
「一緒にいてくれることが当たり前になってて、言わなくても通じてる気がしてたんだね」
彼は唇を噛んだ。
「俺も甘えてたんだな」
そして、私の額に小さなキスをした。
「あのね、俺が定期収入もなくて甲斐性がないって気にしてたのは本当だよ。でも、音楽教室に勤めたのは、それを解決させるためじゃないんだ。話が決まってから言うつもりだったんだけど......いや、それが千里を不安にさせちゃったんだけど」
彼は前置きしてから、噛み締めるように言った。
「俺は二足のわらじを履くつもりなんだ。ばあちゃんのバイオリン教室を折半して使わせてもらって、自分のチェロ教室を持ちたい。それと同時に親父の小料理屋も続ける」
「大丈夫なの?」
「バイオリンに比べてチェロを弾く人は少ないから、何とも言えないかもね。どのみち両立は難しいと思う。だけど、俺には選びきれないんだ。どっちも大事だから」
「だから、親父とばあちゃんと話し合ったんだ。そしたら、二人とも時間を短縮してもいいから、やってみなさいって言ってくれた」
「俺が音楽教室に勤務してるのは『教える』ってことの経験を積む修行のつもり」
彼の目が熱を帯びた。
「人間相手に教えるってことは、本当に難しいんだ。音大の先輩が音楽教室の講師をしてて、少しでも経験してごらんって言ってくれてさ」
そこまで言うと、大地は申し訳なさそうに眉を下げる。
「......本当は真っ先に千里に話すべきだったのに、俺はお前ならわかってくれるだろうって話そうともしなかったよな。ごめん」
大地が音楽教室に勤めると言い出したとき、私は何も聞かなかった。あのときは結婚を意識して定期収入が欲しかったのかと思ってしまった。
「ううん。私も同じ。ちゃんと大地に訊かなきゃならなかったのに、勝手に解釈してたんだもん」
本当、変な風にすれ違い。私たちは顔を見合わせて、くすっと笑った。
「千里は賛成してくれる?」
大地がこわごわ口を開く。
「甘く見るなって言う人もいると思うんだけどさ。やってみたいんだ」
私は握った手に力をこめた。
「大地が決めたことなら、応援するよ。ずっとチェロと小料理屋と、どっちをとるか迷って苦しんできたの知ってるもん」
「......ありがとう。自分の道を選ぶのって、難しいな」
大地がそう呟いた途端、彼は「あ」と顔を上げた。
「どうしたの?」
「思い出した!」
きょとんとしていると、彼がにっこり笑みを向ける。
「俺が千里を好きになった決定打!」
「え?」
「付き合ってすぐさ、美咲が俺に協力してくれたことがあったんだ」
「何?」
「千里の小学校から高校までの卒業アルバムとか写真を見せてもらった」
「えぇぇ? そんなことしたの?」
初耳なんですけど。思わず顔を赤らめる私に、大地が「はは」と声を上げて笑う。
「いやぁ、どんな風に過ごして来たんだろうって知りたくて」
私は心の中でふっと笑う。だから、美咲は私を「大地のことを知ろうともしなかった」と怒るのだ。だって、私は大地といることに安心しきって、美咲にそんなことを頼んだことはなかったから。
「その中でね、小学生のときの卒業文集を読んでさ。千里、覚えてる?」
「ううん。忘れちゃった」
彼がすっと目を細める。
「千里はね、あのときから『司書になりたい』って書いてたんだよ」
あぁ、思い出した。背後霊と呼ばれて、本に逃げていた私。本と過ごせる仕事しか自分にはできないと思ったあの頃。大地と出逢うまで、人と向き合うこともしようとしなかった自分。
そんな私の嫌いな私を、彼は「すごいよね」と言ってくれた。
「俺はあの頃からチェロと小料理屋の間で悩んでた。なのに、千里はもうとっくに将来を見据えてて、びっくりしたんだ。千里は可愛いだけじゃなくて、そういう強さも持ってるんだって気づいて。あのときが、俺の中で千里を好きになった決定打だった」
私を見る目が、どこまでも優しかった。きちんと答えをくれた大地に、私も口を開いた。
「私はね、ずっと誰かの後ろに隠れてるような子どもだったの。あだ名は背後霊だったし」
「うん」
「だけど、図書館で大地が友達と笑ってるのを見て、なんて真っ直ぐで無邪気に自分を出せるんだろうってびっくりして......自分にはできないことをあっさりできてる大地に、あっという間に魅かれてた」
「うん」
大地は満足したように、頷いた。彼はいつもこうだ。私が自分から足を踏み出すのをじっと待っててくれる。心の中から『ありがとう』と思った。
「私、大地を幸せにするから」
「うん?」
「今までずっと大地が私を見守ってくれたみたいに、今度は大地がどんなに大変でも、ずっと見守ってるから。だから......」
「......千里、ちょっと待ってね」
大地が苦笑して、ソファから立ち上がる。そして、彼は寝室へ消える。戻って来たとき、彼は小さな箱を手にしていた。
「このままじゃ先に千里に言われちゃいそうだから」
彼は笑いながら、私の目の前で箱を開いた。
息を呑んだ。そこに光っていたのは、ダイヤモンドだったから。
「本当は俺が音楽教室を辞めて自分のチェロ教室を開いたときに言おうと思ってたんだけど」
「......そうなの?」
「だから、俺の独りよがりでごめんって言ったんだ。ずっと千里は何も言わず待っててくれる気でいたんだよ。甘えててごめんな」
「私......」
「うん?」
私は震える声で呟くように言った。
「大地といるとね、いろんな色の気持ちになるの」
眩しかったり、愛おしかったり、羨ましかったり......大地への様々な想いが、それぞれの色に私を染める。
「だけど、いろんな色が集まりすぎて、真っ黒になっちゃうときもあるよ」
美穂さんに嫉妬したときのように。
「大地が思うほど、綺麗な人間じゃないんだよ? それでもいいの?」
変な話だと思う。あれほど結婚を意識していたのは自分のはずなのに、こんなときまで、素直に喜べない自分が汚れて見えた。透き通るほど綺麗な大地の心に、こんな私で良いのかな? ジン・トニックにもダイヤモンドにも、相応しくないように思えた。
すると、大地が私を見透かしたように笑った。
「俺が選んだ人だから」
そして、彼は指輪を取り、私の薬指にはめた。
「いろんな色が集まって黒くなるのは、絵の具だろ? でも、光はいろんな色が集まって無色になるんだよ。だから、どこまでも澄んだ透明になる。俺には千里がそう見えるから」
私の薬指を見て、彼は笑う。
「ほら、このダイヤモンドみたいでしょ?」
視界がぼやけて、ダイヤモンドの輝きが一層眩しかった。
「自由業の奥さんって苦労すると思うんだけど。それを承知でお願いします」
彼は私の手を握り、真摯な顔になった。
「結婚してください。また俺が大事なことを忘れそうになったら、叱ってください」
ぽたぽたと涙が落ちた。
「......ありがとう」
やっとそれだけ言うと、大地が無邪気に笑う。
「愛してるよ」
無言で頷くと、彼が私の顔を両手で包む。
「駄目だよ。ほら、ちゃんと千里も聞かせて。大事なことは言い合おう。今回の喧嘩で懲りたでしょ?」
ふっと笑みが漏れた。私は泣き笑いしながら、頷く。
「愛してるよ、大地」
彼がそっと抱きしめてくれた。耳元でため息が漏れた。
「......最高に幸せ」
思わず笑う。
「大地、お願いがあるの」
「何?」
「大地の卒業アルバムとか写真、見たいな」
彼ははにかみ、こくりと頷く。
「それからね、もう一つ。......琥珀亭でジン・トニックを飲みたいの」
「え? 千里、お酒飲めないでしょ」
思わず体を離した大地が、目を丸くしてる。
「いいの。一口だけでも飲みたいの。それでね、私が大事なことを忘れそうになったら、ジン・トニックを飲ませてね」
「へ?」
きょとんとする大地に、私が笑う。
「大地の愛情はジン・トニックだから」
「......うちのジュリエットは哲学的過ぎてわからないよ」
「ジュリエットになんかならないわ。私、悲劇のヒロインじゃないもの」
そう、私は大丈夫。もう悲劇のヒロインでも、待ってるだけのお姫様でもない。
願うだけの私じゃない。幸せはつかみ取るものだから。大地のところへ私から駆けて行くわ。崖を飛び越えるカモシカのように。
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