第6話 ジン・トニックのように
それから一週間近くを実家で過ごした。美咲の話を聞いてすぐに大地と話をしたい気持ちはあった。だけど、怖かった。またあんな風に背中を向けられるのが、心底怖い。
こんな風に喧嘩したのは初めてだった。そのくせ、どこかで期待する自分もいる。仕事帰り、この角を曲がれば実家が見えるってところで、ふっと思うんだ。大地が待っててくれないかなって。あのクリスマスイブの日のように。だけど、角を曲がっても実家の前には誰もいない。
「......そうだよね」
自嘲するように思わず呟く。ドラマや小説じゃあるまいし。第一、あんなひどい自分を晒しておいて、何を調子のいい事を言っているんだろう?
美咲の言う事は的を得ている。私はいつでも受け身なんだって痛感した。私は大地を傷つけた。あの背中を見れば、誰でもわかる。携帯電話にも連絡がない。自分から何を話していいのかもわからない。ごめんって言葉を言う前に、どんな顔をして会えばいいかすらわからないんだ。
その日は日曜だった。仕事の休憩時間に携帯電話を真っ先に見る。着信が一件あった。相手は美穂さんだった。
「千里ちゃん? ごめんね、急に」
折り返し電話した私に、美穂さんがいつも通りの口調で言う。
「ちょっと話があって。今夜六時に琥珀亭で会えない?」
大地に出くわすかもしれない。そう躊躇していると、彼女が見透かしたように笑った。
「大丈夫よ。大地なら、弦楽器の講師たちと打ち合わせで九時まで教室にいなきゃならないの」
私は「はい」しか言えなかった。電話を切り、携帯電話を握りしめる。大地から話を聞いたのかもしれない。そうじゃなかったら......なんだろう?
胸が風に揺れる草原のようにざわめいた。仕事が手につかない。私は終業時間になると、真っ先にタイムカードを切った。
琥珀亭の前に着くと、私は三階にある自分たちの部屋を見上げた。カーテンがしまったままになっている。発表会の日、家に戻ってがらんとした部屋を見た大地は、どんな気持ちだっただろう。今更ながら、自分がどれだけ彼を傷つけたかを思い、目を閉じた。大地は一人が苦手なのに。それなのに、私は......。
ふと、琥珀亭の扉を見つめた。いつもなら戸惑うことなく開けるそれが、別世界の入り口みたいに見えた。レトロな呼び鈴が響く。尊さんが「いらっしゃいませ」とにこやかに笑みを送ってくれた。今日は真輝さんはお休みらしかった。
「千里ちゃん、こっち」
声のするほうを見ると、既に美穂さんがテーブル席に着いていた。
「尊さん、ウーロン茶お願いします」
彼は頷き、そっとカウンターへ戻る。彼は今回のことを耳にしてるんだなとうっすらわかった。だって、何も訊かないもの。尊さんは、そういう人だ。私はゆっくりテーブルへ近づき、頭を下げた。
「......この前はすみません。挨拶もしないで帰って」
「そんなの気にしないでよ」
美穂さんはカラリとした笑顔で、椅子をすすめてくれた。彼女の前にはジン・トニックが手つかずで置いてあった。
「......あの、お話って?」
「うん、それなんだけどね」
私はふっと切なく笑う美穂さんに見蕩れていた。今日の彼女はストレートの長い髪をおろし、私には到底似合わなそうなレッド系の口紅をつけていた。
「大地から聞いたんだけど、喧嘩したんだって?」
やっぱり、その話だ。私はぎゅっと膝の上で両手を握り合わせた。
「はい」
「私にヤキモチやいたって聞いたけど?」
「......すみません」
美穂さんは「ふぅん」と頷き、バッグから煙草を取り出した。
「吸ってもいい?」
「あ、はい」
彼女は私の知らない銘柄の細い煙草を取り出し、華奢なライターで火をつけた。伏し目になると、彼女のまつ毛の長さが際立つ。悔しいくらい、綺麗だった。
尊さんが「お待たせ致しました」とウーロン茶を置き、黙ってカウンターへ戻る。
私は尊さんの顔を見れず、ただただ頭を下げていた。
不意に、美穂さんがニッと口角をつり上げた。
「正直に言うわね。あなたの嫉妬は正解よ」
「へ?」
思わず間抜けな声を上げた私に、彼女は意地悪い顔をして笑う。
「私ね、大地が気に入ってるの。だから、あの人が千里ちゃんの惚気話をするたびに、ヤキモチやいてた。だから、わざとあなたがヤキモチやきそうな話をして、喧嘩でもしてくれれば大地をさらえるかなって思ってたの」
言葉が出ないって、こういうことを言うんだろう。目を丸くしている私に、彼女は肩をすくめた。
「大地の愛情を当然のように浴びて、自分は何一つ大地を喜ばせようとしないように見えてね、心底いらっときたわ」
愕然とした。だが、美穂さんは何故か笑顔を浮かべている。
「だけどね、あなたって私がヤキモチやかせようとすればするほど、私を信頼してたでしょ?」
こくりと頷く。だって、それは『大地はモテるんだから、その手を離すな』って意味で応援してくれるんだとばかり......。
「なんだか、張り合うのもバカバカしくなっちゃって。そんな風に思ったとき、気づいたの」
彼女はそこで一息つくようにジン・トニックを一口含んだ。
「......私は、あなたのように愛されたかっただけ。誰かから大地のようなやり方で愛して欲しかっただけだって。そうしたら、あなた、発表会で私に嫉妬したって言うじゃない? なんだ、思ったよりとぼけた子じゃないんだって見直したわ」
「と、とぼけたって......」
「大地を気に入ってる私に嫉妬したんだもの。その直感は正しかったのよ」
そう言う彼女は目から意地悪な光を消した。
「安心したわ。千里ちゃん、ちゃんと女じゃない。単なるお姫様じゃなくってさ」
「あの......私、何て言ったらいいか......」
「うん、大地から聞いてるよ。物怖じしちゃう子だって。だけど、これだけは言っておこうと思って」
彼女は細い煙草を灰皿に押しつけた。
「私、無垢なあなたが羨ましかった。だから妬いたんだと思うけど。図書館で会うたびにあなたを好きになっていく自分も苛立ったけどね。だけど、あなたが私に嫉妬したときに、本当に好きになったわ。もどかしかったのよ。あなたは大地がいれば物怖じしないって聞いたけど、一番物怖じしている相手は大地じゃない」
彼女の言葉がカモシカのように二人の間を駆け抜けた。そして、それは私の心に突き刺さり、動けなくさせた。
彼女はにやりとして、長い髪をかきあげた。
「ごめんなさいね。これでも激励のつもりなのよ」
「......これが、ですか?」
苦笑する私に、彼女は笑う。
「そうよ。だって、あんな大地見てられないんだもの。早くなんとかしてよ」
大地の名前に、私はギクリとした。
「彼......どうしてますか?」
「そりゃ、ひどい有様よ。哀れでしょうがないわ」
私はテーブルのウーロン茶に目を落とした。硬直した心がハンマーで砕かれたみたいだった。彼女はそっとジン・トニックのグラスを持ち上げた。
「ねぇ、千里ちゃんはお酒飲まないの?」
「え? あ、はい」
「じゃあ知らないかな。ジン・トニックってとってもシンプルなの。ライムを搾ってジンとトニックを入れるだけ」
きょとんとしていると、彼女はふっと目を細めた。
「だからこそ、そのバーテンダーがどんな人か見えてくるのよ。ライムの切り方、ジンの種類と保存方法、混ぜ方、グラスの形......どれか一つでも違えば変わってしまう。ジン・トニックって大地の愛情みたいね。透明で、どんな気持ちでいるか、すごく伝わって来る。それがどれだけ丹精こめられたものかも知ってるでしょ?」
「......はい」
「じゃあ、お姫様は卒業してよね。私、抱っこされてる人よりも隣を歩いていく人とお友達になりたいの」
そう言うと、彼女は肩をすくめた。
「言っておくけど、私、最近付き合い始めた人がいるの。大地のことはとっくに付け入る隙もないってわかってるから。......彼ね、どこか大地に似てるのよ。だからかな。あなたたちには笑って過ごしてほしいの」
私はただただ、頭を下げた。
「......ありがとう」
顔を上げたとき、涙が滲んで来て思わず拭う。美穂さんが、眩しそうに笑みを浮かべていた。
「本当は内緒にしておこうと思ったのよ。私が大地を気に入ってること。だけど、友達になりたいなら、それってフェアじゃないと思った。それが私の性格なの。それでも、今まで通りでいてくれる?」
私はそっと頷いた。彼女はどこまでも強かで、野を駆けるカモシカのように澄んだ目をしていた。私にない力強さが、ひしひしと伝わる。そしてそれは、砕かれた心を繋いでくれた。美穂さんが席を立ちながら言う。
「私、あなたに一つ嘘をついたわ」
「え?」
彼女はニッと笑い、私の肩をぽんと叩いてカウンターへ向かった。
「あ、あの......」
慌てて追いかけると、彼女は清算を済ませて笑う。
「ここはごちそうさせてね。辛辣なこと言っちゃったし、わざとヤキモチやかせちゃった罪滅ぼし」
「あの、嘘って?」
「大地の打ち合わせはもう終わってるわよ。多分、アパートに戻ってるはず。小料理屋には九時から行くんですって」
また口をあんぐり開けた私に、美穂さんが声を上げて笑った。
「あなたって馬鹿みたいに素直で可愛いわよね。いじめたくなっちゃう。クセになるわ。大地が必死で守りたがるわけだ。納得したわ」
そして、あの赤い唇をニッとつり上げて手を振った。
「じゃあね。初めての仲直り、頑張って。今度は『三国志』を読みに図書館に行くわね」
ヒールを鳴らして、扉の向こうに消える。私は思わず追いかけて、扉を開けた。
遠ざかりつつある彼女に夢中で叫ぶ。
「あの!」
彼女が振り返る。髪を押さえて、小首を傾げた。
「あの......ありがとう。私、これから大地のところに行きます」
美穂さんはふっと笑みをこぼす。
「恋敵のために私が悪役になったのよ? 行かなきゃ、無理矢理ジン・トニック飲ませるわよ」
遠ざかる背中を見つめながらぼうっとしていると、尊さんが苦笑しながら私を中に入れてくれた。
カウンターに座り直した私に、彼はそっと呟いた。どこまでも優しい、温かい声で。
「おかえり」
おかえり、琥珀亭に。
おかえり、私の迷子の心。
私は久しぶりに心から笑うことができた。
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