第5話 若葉の時代

 歩いて帰った私は、琥珀亭のあるビルの三階を見上げる。私たちの部屋の窓は、まだ暗かった。大地は帰ってきていない。

 私は急いで部屋に入り、バッグに着替えと化粧道具を突っ込んだ。そして、そのまま実家へ走った。ただただ、大地と向き合うのが怖かったんだ。


「しばらくここに居るから」


 実家に戻ってそう言うと、両親は顔を見合わせたが、何も訊かなかった。自分の部屋のベッドに座り、着替えを広げる。その間に、何度もため息が漏れる。


 私、何をやってるんだろう。どこまで子どもなんだろう。もう29歳なのに、自分は小学生の頃から何も変わってない。


 ぽつりと涙が落ちた。大地と出逢って、自分は変われたと思ってた。物怖じして何も言えず、ひっそりと誰かの後ろを歩いていた自分。自分が楽になれる本の世界に逃げ込むだけの毎日。.......何も変わらないじゃない。そう思ったときだった。


 勢い良くドアが開いて、妹が飛び込んで来た。


「お姉ちゃん、しばらくいるってどういうことよ?」


 慌てて涙を拭うと、彼女はドサリと私の横に座る。


「大地と喧嘩した?」


 無言で頷く私に、妹は大きなため息を漏らす。


「話してみなよ。どうせ、誰にも言えなくて悶々してるんでしょ。お母さんたちだって心配してるんだからね」


 私は妹に抱きついて、泣いていた。我ながら呆れちゃうけど、本当に子どもみたいに。


「馬鹿じゃないの?」


 私の話を聞き終えた妹が、大きな声でそう言い放った。


「あのね、私、お姉ちゃんのそういうところ大嫌いよ。どんだけ悲劇のヒロインなのよ」


「......返す言葉もございません」


 私は頷いて頭を下げる。これじゃ、どっちが姉でどっちが妹かわかったもんじゃない。


「あのさぁ、お姉ちゃんは知らなさ過ぎなんだよね。ていうか、知ろうともしてなかったでしょ」


「何を?」


「大地の愛情が当たり前だったんでしょ? なんで、十年以上も経ってから今更『どうして私を好きになったの』なんて気になるのよ」


「そうかもしれないけど......」


 私は唇を噛んだ。


「なんかね、私、大地とこのまま結婚するものだと思ってたの。彼が甲斐性を気にしてるって知ってたから、それで結婚できずにいるんだなぁって思ってて。でも、音楽教室に勤めて定期収入があっても言い出さないってことは、それが理由じゃないんだって不安になって。そんなことを考えてたら、そもそもどうして私なんかを好きになったんだろうって......」


 そこまで言うと、妹が呆れたように天井を仰ぎ見る。


「あのね、お姉ちゃんのそういうところも嫌いだわ」


「え?」


「私『なんか』って止めなよ。お姉ちゃんを選んだ大地まで落とすつもりなの?」


 恥じ入る気持ちで、顔が赤くなった。


「あのさぁ、お姉ちゃん」


 美咲は私に向かい合い、顔を覗き込んでいた。


「私、大地とクラス違ったじゃない?」


「うん」


「だけど、大地がどれだけお姉ちゃんを好きだったか知ってるよ」


 彼女はそう言うと、初めて口許に笑みを浮かべた。


「教えてあげる」


 美咲は手を組んで、懐かしむように話し出した。


「大地のクラスの女子に聞いたんだけどさ。お姉ちゃんと付き合い始めた大地を、クラスの男子がからかい始めたときがあってね。そのうちの一人が、大地に付き合わされて図書館に一緒によく行ってたらしいの」


 あぁ、なんだか覚えがある。大地はいつも同じくらいの背の男の子と一緒だった。

彼に向けた大地の笑顔に、私は魅かれたんだ。

 もしかしてあの笑顔は、私を見て浮かんだ笑顔だったのかな? そう思うと、なんだか胸が締め付けられた。


「そうしたら、その男子が『意外だよな。大地の好きな子って暗そうで地味なんだぜ』って言い出したの。ちょうどその時ね、お姉ちゃんと同じ図書委員だった女子もいて『先輩から聞いたことあるけど、その人ってあだ名が背後霊でしょ? 大地君とは正反対じゃない』って言ったの」


 胸がえぐられた。背後霊と呼ばれた日々がサッと甦った。思わず唇を噛んでいると、美咲が笑った。


「大地、どうしたと思う?」


「......わかんない」


 泣きそうになりながら呟くと、妹は笑いを噛み殺しながら言った。


「キレた」


「へ?」


 あの大地が?


「椅子に座ったまま、目の前の机をガンって蹴っ飛ばしてさ。すっごい冷たい目で『俺の千里を悪く言うんだったら、覚悟して言えよ』って言ったの。そんで、お姉ちゃんのあだ名をからかって笑った女子を睨んで『女でも許さない』ってさ。それ以来『大地君がそんなことするなんて』って引いちゃう子もいたけど、圧倒的に『彼女を守る大地君って素敵』って熱心なファンができちゃってたけどね」


 そこまで言うと、妹はたまらないといった顔で爆笑しだした。


「ちょっと、なんで笑うのよ?」


 泣きそうな私が口を尖らせると、妹は「だって」とますます笑う。


「すっごいクサいこと言うじゃない!」


 『抱腹絶倒』という言葉を体現しながら、彼女は言う。


「しかも、それを聞いて大地を見直したのにさ、後になって私のクラスに来て、こんなこと言うのよ」


「なんて?」


「誰にも千里の写真を見せるなって。絶対、惚れる奴が出て来るから、ライバルを増やしてくれるなって泣きそうな顔で言うんだもん。器が大きいんだか小さいんだかわかんなくない?」


「そんな必要ないのに......」


「お姉ちゃん、恋してみるみるうちに垢抜けたじゃない。大地も焦ったんでしょ」


「それは、だって......大地の隣にいるのに地味だったら、大地が趣味悪いとか言われちゃうから」


 だから、私は必死になった。今まで気にしなかった服や化粧、そして髪型も、手探りで変えていった。なにより、大地が嬉しそうに「可愛いよ」って言ってくれることが嬉しくて。


「本当、お姉ちゃんは知ろうとする努力が足りないのよ。いつまでも受け身になってないでさ、自分から動きなよ」


 妹が肩をすくめる。


「私みたいに手を伸ばしても届かない人を好きになった訳でもあるまいし。幸せなんてつかみ取ってなんぼでしょ」


 ぽかんとして妹を見つめた。何でも口にして、自分に正直な妹だ。その性格だったら、私のように悩んだりしないだろうにってずっと羨ましかった。だけど、そんな妹でも苦しんでいることがあったんだ。そんなことを言うと、妹は顔をしかめた。


「当たり前でしょ。この性格だから厄介なこともあるんだから。人間だもの」


 美咲は足を組んで、私に懇願するような目を向けた。


「とにかくさ、大地を幸せにしてやんなよ。それが出来るのはお姉ちゃんだけなんだよ? 大地に幸せにしてもらうことだけ考えてないでさ。大地のために出来ることって、お姉ちゃんにしか出来ないこととイコールだと思う」


 美咲が眉を下げて笑っていた。


「若葉の時代に聞かせてあげれば良かったかな? でも、私ね、お姉ちゃんに変わって欲しくて言わなかったの。自分から訊いてくれるのをずっと待ってたんだよ」


 『若葉の時代』とシェイクスピアの名文句を借りておどけたように言う。それが妹の照れ隠しだと、すぐにわかった。彼女は俯いて、こう囁くように言ったから。


「私、お姉ちゃん好きだもん」


 すっと涙がこぼれた。


「あ、ほら、しょうがないなぁ」


 妹が慌ててティッシュで私の顔を拭う。


「しっかりしてよね。あんな愛情に十代で出逢えたことに感謝しなさいよ」


 姉のような妹に、心から『ありがとう』と繰り返していた。

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