第4話 初めての喧嘩

 ロビーに出ると、大地や美穂さんが生徒たちに囲まれていた。彼は一仕事を終えて寛いだ顔で写真を撮られたり、花束をもらったりしている。


「ごめんなさい、お凛さん」


 私は誰かと目を合わせる勇気がなかった。自分の顔がどれだけ醜いか、鏡なんて見なくてもわかる。


「私、目眩がするんで先に帰ります」


「大丈夫かい? 顔が真っ青じゃないか」


「大丈夫、タクシーで帰りますから」


「あ、千里!」


 お凛さんがどんな顔をしていたかはわからない。私はバッグを抱えるようにしてホールを急ぎ足で出た。階段を駆け下りる間に、我慢していた涙が溢れる。


 こんなに苦しい嫉妬なんて、初めてだった。惨めさと絶望がそれを彩って、心の中でどす黒く胸を焦がす。

 ステージの上の二人には、私の手は届かない。音楽を愛する者だけが、あの場で心を裸にして通い合う。大地がチェロを弾く以上、そんなことは当然のことだ。今までも、大地があんな風に演奏するのを見てきた。なのに、相手が美穂さんというだけで、気が狂いそうだった。同時に、美穂さんだからこそ、私は余計に自分が醜く見えた。


『その手を離さないように』


 そんな意味をこめて、教室での大地のことを話してくれる彼女にまで、私は嫉妬していた。

 なんて小さくて、エゴイストだ。大地の愛情を独り占めしていることを知っていながら、それでも我がままばかり。本当だったら『大地、お疲れ様でした。とっても良い演奏だったよ』って笑顔で言いたいのに。彼もきっと、心からそう言って欲しいはずなのに。なんて勝手で、醜いんだろう。

 私は自分の頬を両手でパンと叩いた。痛みが走り、両頬をじんじんと痺れが襲う。でも、胸の痛みは誤摩化せなかった。


 文化センターの出入り口を出ると、辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。タクシー乗り場を見ると、がらんとしている。いつもなら何も思わずに歩いて帰るだろう。

だけど、このときばかりは無性に焦りと苛立ちが私を襲った。一瞬一秒でも早くこの場から消えてしまいたい。そういうときに限ってこうなんだ。


「千里!」


 ビクッと肩が震えた。大地が階段を駆け下りてくる。彼は息を切らし、私の顔を両手で持ち上げて覗き込んだ。


「具合悪いって? 大丈夫か?」


 私は大地の顔を見つめながら、全身から力が抜けていくのを感じていた。

涙が溢れ、大地の指を濡らす。


「千里、泣いてるの?」


 大地が目を見開く。彼は振り向いて、慌てて私の手をとった。


「父兄たちが降りてくるから、こっちにおいで」


 出口から死角になるところまで私を連れて行く。薄暗い中、彼が私の髪を撫で、顔を見つめてくる。


「どうした? 何かあった?」


「......大地」


 名前を呼んだ途端、堪えきれなくなった。私は声を上げて泣き出した。


「ごめん......笑って言えなくてごめん」


 お疲れ様でした。二人ともとっても素敵だったよ。そう言いたいのに、言えないの。

 彼は困り果てたように、私を抱きしめた。


「千里、何か言いたいことあるんじゃないの?」


 またビクッと肩を震わせた私を、彼は力一杯抱きしめた。


「千里は自分で気づいてないかもしれないけど、最近、ぼうっとしてることあるよ」


 彼はそっと私を離して、この目を見据える。


「......見ないで。ひどい顔してる」


「嫌だ。どんな顔でも千里でしょ」


 お願いだから、優しくしないで。真っ黒い気持ちが溢れてしまう。そう思った途端、大地が両手をそっと取り、私の目の前で握りしめた。


「千里が話すまで、俺は手を離さない」


 大地が知らない人に見えた。私をじっと見つめる強い眼差しが、痛いくらい力のこもった大きな手が、包み込もうとする真摯な面持ちが、いつもの無邪気な大地じゃない。そこには、紛れもなく一人の男がいた。


 私は惚けてしまった。なんて馬鹿なんだろう。今まで大地の何を見て来たんだろう。付き合って十年以上経つのに、私はもう高校生じゃなく、いい年した大人なのに。


 いつも可愛いくらい無邪気で、明るくて、真っ直ぐな照れるくらい素直に私を愛してくれる大地。呆れるくらいキスをして、数えきれないくらい抱き合って。それなのに、そんな彼を本当の意味で大人の男として意識してなかったんだ。


 私は、一人の女として大地に向き合えていなかったんじゃないの?


 自分で自分を最低だと思った。だって、きっと大地はずっとこんな風に私を見守ってきてくれたはずなんだ。なのに、私がいつまでも幼稚なだけ。大地の愛情を当たり前のように受けて来ただけ。いつまでも学生の頃のような気持ちで、大地を大人として見てもいなかった。


 そのくせ、自分の中に二人の予想図を勝手に作り上げて自分の思うようにいかないことに一人で拗ねて喚いていただけなんだ。私はあまりの恥ずかしさに消えてしまいたかった。こんな私じゃ、結婚を意識しなくて当然じゃない。


「大地、私......しばらく実家にいる」


「え?」


 困惑する大地に、私は涙もそのままに首を横に振った。


「私、大地のそばにいる資格ない」


「何言ってんの?」


 眉根を寄せる大地から、私は後ずさりした。


「千里! はっきり言えよ。何を思ってる?」


 彼の声が強くなる。私は虚しい笑みを浮かべた。


「......大地、どうして私を好きになってくれたの?」


「え?」


「どうして、結婚しようって言ってくれないの?」


「千里、お前......」


「私が幼稚だから? 美穂さんにも嫉妬しちゃうような、小さい女だから?」


「......馬鹿言うなよ」


 大地が苦々しげに呟いた。でも、一度口にしたら止められなかった。


「知ってるよ。私、大地がどれだけ私を好きか知ってる。でも、不安なんだよ」


 足が震えて、立っているのがやっとだった。沈黙が流れ、時折通る車の音だけが響いた。『言ってしまった』という後悔と、答えを聞く恐怖が私を襲う。


「......言いたいことは、それだけ?」


 大地は下を向き、ぽつりと呟いた。そして、そのまま背を向けてホールへ戻って行く。

 追いかけることなんて出来なかった。彼の広い背中が小さくなる。寂しそうな、傷ついたような背中に、私の嗚咽が漏れた。そして、世界がぼやけて何も見えなくなった。ただただ、惨めだった。

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