第5話 朝日のあたる家

 琥珀亭に行ってから数日後のことだった。


「嘘でしょ?」


 これから『エル ドミンゴ』に出勤だってのに、車が動かない。エンストかわからないけど、時間がないことだけはわかる。


「もう、寝過ごしたときに限ってこうなのよね」


 慌ててタクシーを呼んで出勤した。暁さんに事情を話すと、彼が驚きながらも心配してくれた。


「ここまでどうやって来たの?」


「タクシーです。時間がなかったから」


「なんだ、電話くれれば迎えに行ったのに」


 えぇ? 早く言ってよ! 暁さんの車に乗れるチャンスだったのに。

 そう思ったのが顔に出たのかわからないけど、暁さんがぷっと噴き出した。私の頬がかぁっと熱くなった。彼は眉を下げて、柔らかく笑う。


「じゃあ、帰りは俺が送っていくよ」


 思わず顔がぱあっと明るくなっちゃう。こういうの何て言うんだっけ? 捨てる神あれば拾う神あり? 塞翁が馬? 神でも馬でも何でもいいから、感謝したい気持ちだった。


 でも、それが私と暁さんの関係をぐっと変えてしまうきっかけになるだなんて、このときは予想だにしてなかった。


「お疲れ様でした!」


 退勤後、かけ声が散り散りになっていく。駐車場まで、私は暁さんの後ろを追いかけるように歩いた。吉田さんがニヤニヤしてた気がするけど、見ない振りをした。


 彼の車は黒のSUVだった。暁さんらしいなと思いながら見ていると、ロックが外される。


「乗って」


 言われるがまま、助手席に座ると、少し煙草の匂いがした。車の中は綺麗に片付いている。

 彼が運転席に身を沈めた。シュルっとシートベルトが締められる。すぐ右に彼の気配がある。店で散々近くにいるのに、手に汗をかいちゃう。


「で、家はどっち?」


 案内している合間に、他愛もない話をした。いつもよりお喋りな私がいた。もう、最後のほうなんて何を言ってるのか自分でもわからないくらい。

 だけど、暁さんは目を細めて、ちゃんと話を聞いてくれてた。嬉しくて、なんだか泣きそうだった。これくらいのことでって思うけどさ。こんなの初めてだった。ただ彼の車に乗れただけで、天にも昇る気持ちになるなんて。学生の頃、初めて好きな人と一緒に帰った日みたい。


「あ、そこの白いアパートです」


「はいよ」


 彼の車が私のアパートの前に止められる。


「へぇ、ここ?」


「はい、二階の右側です」


 暁さんが珍しいものでも見るように、私のアパートをじろじろ見てる。あぁ、これでハッピータイムも終了かぁ。そううなだれたとき、暁さんが「あれ?」と声を上げる。


「おい、誰かいるぞ」


「え?」


 私の部屋の入り口に目をやって、思わず「あ」と小さい声が漏れた。信吾が玄関で待ち伏せしてたから。


「あれ、お前と一緒に店に飲みに来てた男だな」


 暁さんが眉根を寄せる。


「......どうしよう」


 思わず呟いてしまった。なんで、よりによって暁さんといるところに信吾がいるのよ。ちゃんと断ったじゃない。


「会いたくないの?」


「......昔、好きだったんです。だけど、向こうに好きな人ができて諦めて」


「だけど、彼、気に入ってた子に男ができたって言ってなかった?」


 よく覚えてるなぁ。変なところで感心しながら、私は頷く。


「やっぱり、私が好きだったって気づいたそうです。断ったんですけど......」


「彼は未練があるってか」


 暁さんがちょっと考え込み、ふうっと軽くため息をつく。


「しょうがないな。ここのアパートの脇に車停めて大丈夫?」


「え? あ、じゃあ私の車に寄せてください。縦列で二台停められますから」


 暁さんは車を停めて、私を見た。


「ほら、行くよ」


「え? でも、あの......」


 彼が無言で車を降りる。私も渋々降りると、彼がロックをかけながら、私の隣に並んだ。


「帰らないわけにいかないだろ」


 そうなんですけど、なんで暁さんまで? そう言おうとして、ギクッとした。前に押し出すように、私の腰に暁さんの手が回ったからだ。


「俺が彼と話している間に鍵を開けて中に入れ」


 そっと耳打ちされた掠れ声に、体の芯が痺れそうだった。

 彼は私を引き連れてアパートの階段を上がる。信吾が強ばった顔でこっちを見ていた。


「こんばんは」


 暁さんが営業スマイルで信吾に声をかけた。


「......こんばんは」


 信吾がむすっとした声で返事をする。敵意をむき出しにする目なんて、初めて見た。


「志帆、話があるんだけど」


「何? 電話じゃ駄目なの? この前のことなら終わったじゃない」


 私が小さい声で答えると、彼が唸るように呟いた。


「直接、聞きたいんだよ。お前の口から」


 参った。鍵を開けようにも、信吾が扉の前に立ちはだかっている。おどおどしていると、暁さんがため息を漏らした。


「ねぇ、君さ。とりあえず、彼女も困ってるし夜も遅いし、明日にすれば?」


「あんたには関係ないでしょう」


 トゲのある声だった。初めて聞く信吾の声色が、なんだか怖い。


「大体、あんた何なの? 志帆をスカウトしたと思ったら、アパートの前まで送るなんて下心でもあるんじゃないの?」


 信吾の目に宿っているのは嫉妬だった。


 やめてよ。暁さんには真輝さんしか見えてないんだよ。そう言いたくても、声が出ない。


 泣きそうになる。なんで、もっと早く私を好きだって気づかなかったのよ。......なんで、暁さんにこんなところを見せなきゃならないのよ。


 すると、暁さんが観念したように肩をすくめた。


「あるよ。下心」


「......へ?」


 びっくりして暁さんを見上げると、彼が唇の端をつり上げていた。


「俺たち、付き合ってるんだから。そりゃ、下心なく彼女のアパートに来る彼氏なんていないんじゃない?」


 呆然としていると、信吾の顔がみるみるうちに歪んでいった。


「......志帆。本当?」


 胸がズキリとした。でも、暁さんがそんな嘘までついてかばってくれることが泣きたいくらい嬉しい。......私って嫌な女だ。

 私はぎゅっと手を握る。心臓がバクバク大きな音をたてた。


「......本当」


 暁さんも信吾も、私を見つめている。足元の景色がぼやけてきた。

 ごめん、信吾。私、あんたのこと大好きだよ。でも多分、私が求めているのはあんたとの居心地の良さじゃない。もっと熱くて、もっと私を燃やしてくれるもの。キッと顔を上げて、私は呟くように言った。


「......私、この人のことが好きなの」


 ぐいっと暁さんの腕を掴んで、顔を引き寄せた。


「お......」


 何か言いかけた暁さんの唇を必死で塞いだ。今度は暁さんが目を丸くしている。


「......好きなの」


 涙が落ちた。そう、私はこの人が好き。車に乗っただけで泣きそうになるくらい。腰に手が回れば胸を鷲掴みにされるくらい。大好き。


 信吾が苦々しい顔で立ち尽くしていた。


「そんなに俺が嫌?」


「違うよ。ただ、タイミングを逃したんだよ、私たち」


 私は彼の顔を見ないようにして、鍵を取り出した。信吾の横を通り過ぎ、玄関の前に立って呟いた。


「.....本当にごめん」


 傷つけてごめん。涙でぼやけて、鍵穴が見えない。鍵がうまく入らない。

 すると、そっと暁さんの手が伸びて鍵を取り上げた。ガチャっと鍵が開き、私を中に押し入れる。


「......今日は帰りなよ。待ってても、俺は朝まで帰らないから」


 立ち尽くしている信吾を見やり、暁さんも部屋の中に滑り込んで鍵をかけた。呆気にとられていると、暁さんが唇に指を当てる。私の耳元に顔を寄せて、囁いた。


「あいつ、俺が帰ってから戻って来ても困るから」


 部屋に二人っきり。本当なら死にたいくらい嬉しいはずなのに、私はその場に泣き崩れていた。こんな形で信吾を失いたくなかったから。


 男と女に友情なんてないのかな? あの嫉妬の目に、覚えがある。あれは、真輝さんを見る私の目だ。信吾にも同じ想いをさせてしまったことが、何より辛かった。


 暁さんは私が泣き止むまで、そっと髪を撫でてくれた。落ち着いてきた私が、我にかえって暁さんに「すみません」と頭を下げる。


「いいよ。咄嗟に下心あるだなんて言っちゃった俺も共犯」


 私の顔がかあっと赤くなった。


「あの、すみませんでした......」


 しどろもどろでやっとそれだけ言う。......キスしちゃったよ。暁さんの唇の感触を思い出して、頭に血が昇る。


「いいえ。美味しい思いさせてもらいました」


 暁さんが屈託なく笑った。少しは動揺してよね。本当に憎たらしい。


 私はソファに座るよう促して、お茶を煎れた。掃除したばかりで良かったなんてほっとしつつ、心臓がどぎまぎする。コーヒーを飲みながら、暁さんが笑う。


「志帆ちゃんさ、自覚ないんだね」


「何がですか?」


「君ね、ときどき男をハッとさせる火花散らすの。その気になってる男は彼以外にもいると思うよ」


「......そんなことないと思いますけど」


 もし本当にそうだったら、暁さんに集中発射したいわよ、その火花を。彼はぐいっと伸びをして、部屋を改めて見回した。


「俺、女の子の部屋で朝まで過ごすって初めて」


「へ?」


 朝までって言った? きょとんとしている私に、暁さんが笑う。


「だって、彼にそう言っちゃったし。安心してよ。俺、ソファで寝させてもらうから」


「べ、別にいいですよ! 信吾もきっと帰ってると思いますから」


「うん、でも思い詰めた男って何するかわかんないし。様子見に来て『嘘だった』ってバレるともっと面倒」


 そう言うと、彼は欠伸をする。


「それに疲れてるから、もうここで寝る」


 唖然としている私の目の前で彼がごろんとソファに横になる。


「初めてって言うけど、暁さんって女の人と朝まで過ごさないんですか?」


 目を閉じながら、彼はくくっと笑った。


「俺が朝まで過ごすのは、特別な人って決めてるから」


「......ってことは、真輝さんと一緒に夜を過ごしたことないんだ」


 思わず呟いてハッと口をつぐんだ。でも、もう遅い。暁さんが目を開けて私を見つめてる。


「......どうせ、吉田にでも聞いたんだろ? そうだよ。だから初めてって言ったじゃん」


 その声は怒ってもいなかったけど、その代わり何の感情も見出せなかった。


「志帆ちゃんさ、初めて店に来たときに言ってたよね」


 彼は昔話でもするような口調で天井を仰ぎ見ていた。


「想い続けて奪い取るか、新しい恋を探すかって」


「はい」


「あれ、ぐさっときたなぁ」


 彼は横になりながら、私に眉を下げて笑いかけた。


「俺のこと言われてると思ったんだ。だから君に興味を持った」


 何も言えなかった。


「まぁ、吉田が何て説明したかはわからないけど、真輝と最初に結婚した男は俺の親友だったの」


「そうなんですか?」


「そう。高校時代の俺ってすごく暗かったんだけど、真輝に救われたところがあったんだよね。ずっと好きだったけど、親友と結婚しちまって」


 何故、彼はそんな話をするんだろう? 聞きたくない。胸が潰されそうだった。


「だけど、親友は真輝のお祖父さんと一緒に事故で死んだんだ。その後、尊と結婚した」


「......そうだったんですか」


「俺ね、尊を初めて見たとき、こうなるのがうっすらわかったよ。あいつは死んだ真輝の旦那に似てるところがあったから」


 暁さんが呟くように話しているのを、私はじっと聞いていた。


「真輝をよく知るからこそ、わかっちゃったんだよね。真輝が尊に魅かれていくのを止められないって。だから、俺は尊の邪魔をしなかった」


「暁さんは、まだ好きだったんじゃないですか?」


「......なんで、志帆ちゃんが泣いてるの?」


 私を見た彼が眉を下げた。私は泣いていた。何故だかなんてわからない。ただ、どうしようもなく切なかった。


「好きなのに。そんなに好きなのに......」


「仕方ないよ。俺はやれるだけのことはやったんだ。だけど、きっと真輝が真輝でいられるようには接してやれなかったんだ。俺ね、ちょっと君に感謝してるんだよ」


 彼はソファからもぞもぞ動き出すと、床に膝をついて私の顔をのぞきこんだ。


「君のあの言葉で、ガツンと頭殴られた気がしてさ。いい加減、後ろ向いてちゃいけないのかなって」


 そんなつもりなかった。首を横に振ると、彼が笑う。


「こんな俺だから、あの信吾って男の気持ちもわかるんだ。だからこそ、俺みたいになるなよってつもりで、あんなこと言ったんだけど......」


 彼が困ったような顔で、私の涙をぬぐう。


「迷惑だったかな?」


「違います」


 私はしゃくり上げながら、首を横に振った。


「私が泣いているのは......」


「うん?」


「本当に暁さんが好きだからです」


 彼の表情が固まった。私は溢れる涙もそのままに呟いていた。


「......苦しいです」


 そう言うと、また涙が溢れてくる。暁さんは何も言わずにいたけど、そっと呟くように言った。


「......琥珀亭でお凛さんに会った?」


「はい」


「俺ね、あの人に言われたことがあるんだ」


 静かに、静かに彼は言う。


「お前と付き合う女は『朝日のあたる家』みたいになっちまうって。この歌知ってる?」


 私はこくりと頷いた。『朝日のあたる家』はアニマルズがヒットさせた名曲だ。力強いヴォーカルと迫るようなサウンドが好きだった。ギャンブル好きな恋人がいた女が彼のために街を転々として犯罪まで犯して、最後には娼婦になったのを嘆く歌だ。


「お凛さんが言うには、真輝を想い続けること自体が勝算のないギャンブルだって。そんな俺に尽くす女の行き着く先なんて悲惨だってさ」


 彼はそっと、涙でくしゃくしゃの顔を覗き込んでくる。


「......お前、そんな風になってもいいの?」


 私は唇を噛む。だけど、口をついて出た言葉は自分でも驚くくらい強気だった。


「そんな風になりません」


 首を傾げる暁さんを、めいっぱい見つめた。まるで睨みつけるように。


「私がギャンブルなんて終わらせてみせます。歌の内容だって変えてみせます」


 貴方の腕に抱かれるなら、朝日のあたる家にたどり着いても構わない。だけど、それじゃ満足できないの。だって、幸せになるために一緒にいたいから。真輝さんと尊さんが一緒にいた光景が瞼に浮かぶ。


「私は......暁さんと朝日の中で一緒に笑ってたいんです」


 そう、あの二人のように。


「つくづく思うけど、俺、とんでもない子を雇っちまった」


 暁さんが笑って、ふっと顔を近づける。彼の冷たい唇が私の涙を拭うように触れた。


「やってごらんよ。今まで誰も俺に朝日をくれなかったけど」


「じゃあ、私が朝日になります」


「......だから、そんな顔すんなって言ったのに。火をつけるから」


 だから、どんな顔ですか。そう言いかけた私の唇を、彼のそれが塞ぐ。啄むように繰り返されたキスの後、彼は目を細めて笑った。


「......知らないよ?」


 私はふっと泣き笑いした。


「受けて立ちます」


 私たちは深く、長くキスをした。彼の腕の中は太陽の真下みたいに熱かった。

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