第4話 琥珀亭にて

 琥珀亭は繁華街からちょっと離れた所にあった。古めかしいビルの一階にあって、夕陽のようなライトが扉を照らしている。真鍮で出来た看板が年期を感じさせた。


 扉を開けようと思うのに、手が躊躇って動かない。この向こうに真輝さんがいると思うだけで、怖かった。どんな人なんだろう? 誰かの心にずっと住み続ける人って、どれくらい綺麗なんだろう?

 私がそんなことを考えているときだった。


「入らないのかい?」


 後ろから声がした。振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。


「あ......」


 どこかで見た顔だ。咄嗟に思ったけど、思いつかない。彼女は年配で、鼻筋の通った派手な顔をしていた。パーマをかけた髪が肩に垂れている。


 彼女は「お」と目を丸くして、私を見つめた。


「あんた、もしかして『エル ドミンゴ』の新人さんじゃないか?」


「え? はい、そうです」


 びっくりしていると、彼女がにやりとしながら、バイオリンを弾く仕草をした。


「この前は世話になったね」


「あ! もしかして、あのときの」


 先月、店でバイオリン・デュオをテーマにした生演奏が行われたことを思い出した。そのとき、バイオリンを演奏した一人だ。


「あのときはお世話になりました。私、神谷志帆といいます」


「私は三木凛々子。お凛さんでいいよ」


 朗らかに言うと、彼女は扉を目で指し示した。


「ここじゃなんだから、入ろうか」


「あ、はい......」


 お凛さんに促されるまま、扉を開ける。レトロな呼び鈴が、私に『宣告の時だ』って言ってる気がした。


「いらっしゃいませ」


 女性の声にドキリとした。

 あぁ、彼女だ......。一目見てすぐわかった。だって、彼女は儚げな笑みを浮かべていたから。暁さんが気に入る女性客と同じようなまなざしだった。女の私から見ても惚れ惚れする顔だ。柔らかそうな肌に、大きな目で、綺麗にカットしたボブが線の細い彼女によく似合ってる。透明感のある美人だった。


「お凛さん、お友達ですか?」


 鈴の鳴るような声に、お凛さんが笑った。


「いや、そこで会ってね。ほら、前に暁のところに新人の女の子が入ったって話したろ。彼女だよ」


「暁の? ああ、お噂はかねがね」


 呼び捨てなんだ。さっそく胸がチリチリ焼けるようだった。


「あの、神谷志帆といいます。よろしくお願いします」


 礼をすると、彼女は満面の笑みを浮かべていた。


「こちらこそ、よろしくね」


 お凛さんはカウンターの一番奥に座り、私はその隣に案内された。


「あの、尊さんは?」


「そういや、いないね。尊の奴、どこに行ったんだ?」


 辺りを見回すお凛さんに、真輝さんが笑う。


「今夜は用事があって遅れてきますよ」


 なんだか、心細い。そう思ったのを見透かしたのか、真輝さんが眉を下げた。


「すぐ来るから待っててね。しょうがない人よね。自分から志帆ちゃんを招待したってのに」


 志帆ちゃんと呼ばれて、ドキリとした。彼女は暁さんの弟子というだけで、無条件で私に好意を持っているようだった。バカみたいだ。私一人でヤキモチやいて、ぎくしゃくしてる。


 そのとき、他の客からカクテルのオーダーが入った。マティーニとサイド・カーだった。


「真輝、こっちはいいから」


 お凛さんが目配せする。一人で店をこなすのは大変そうだ。


「ごめんね、志帆ちゃん」


 真輝さんが申し訳なさそうに言ってくれて、思わずぶんぶんと頭を横に振った。

 真輝さんは手早くミキシンググラスとシェイカーを取り出す。氷を掴み、グラスとミキシンググラスに入れていった。氷を掴むスピードが私と段違いだ。それにパズルのように綺麗にミキシンググラスに収まっている。それも氷がよく回るように計算された形になっている。目が離せなかった。シェイキングが暁さんのそれと似ていた。暁さんも綺麗だけど、彼女も引けを取らない。バー・カウンターという名のステージでライトを浴びて踊っているよう。指先の動きまでしなやかだ。


 なによりステアに惚れ惚れした。バー・スプーンってあんなにスムーズに動くもんなんだなぁ。自分との差に愕然とする。


「お待たせいたしました」


 彼女はそう言って、カクテルをすっと差し出した。その手つきだけでも優雅で、今まで何杯のカクテルを作ってきたんだろうって思う。


「真輝ちゃん、さすがだね」


 カクテルを飲んだ客がとろけるような笑顔になった。


 ......私、お客様からあんな顔をしてもらったことあったかな? なんだか自分がバーテンダーとしてスタートすらしていないのを思い知らされる。だって、仕事をこなすことしか考えてなかった。お客様がどんな顔して、私の作ったドリンクを飲んでいるか見てもいなかったんだもの。


 私はため息しか出なかった。悔しいけど、太刀打ちできない。女としても、バーテンダーとしても。自分で自分に絶望する。


「お待たせいたしました。何になさいますか?」


 彼女は私に向かって言う。カクテルを作るところをもっと見たかったけど、せっかくだから、好きな物を飲むことにした。


「じゃあ、タリスカーをロックで」


 そのとき、真輝さんの笑顔がちょっと変わった。何かを懐かしむような目だ。笑みが古い友達に向けるようなものに変わった。


「......かしこまりました」


 グラスを取り出す真輝さんを横目に、お凛さんが唇だけで笑っていた。


「あんたもウイスキーが好きとは嬉しいね」


 真輝さんはお凛さんには何も訊かなかった。ただ、当然のようにメーカーズマークをロックで出す。メジャー・カップの手つきも滑らかで綺麗だ。


「真輝、あんたも飲みな」


「ありがとうございます」


 真輝さんが緑茶をグラスに注いだ。下戸なのか、仕事中はアルコールを飲まない主義なのか。

 三人のグラスが出揃ったところで、乾杯を交わした。


「暁にスカウトされたんだって?」


 猫が喉を鳴らすように、真輝さんが笑う。


「あいつ、本当に強引なんだから」


「あの、暁さんとは親しいんですか?」


「暁とは中学と高校が一緒だったの。クラスが一緒になったのは高校のときだけど。専門学校を出てから、うちに修行に来たのよ」


 なるほど、そりゃ呼び捨てにもするわ。ちょっとほっとしつつ、私はタリスカーを口にした。ピートの香りが鼻を突き抜け、弱気になった私を励ましてくれるようだった。


 話をしてみると、真輝さんは儚げな見かけと裏腹にしっかりした物言いをする人だった。暁さんが芯の強い人を気に入るのが腑に落ちる。お凛さんが私を見ながら、微笑んでいた。


「志帆は筋がいいって聞いてたけど、なかなかしっかりしてたよ」


「そうですか?」


「うん。あんた、状況把握がうまいね。機敏だし、相手の話を盛り上げるウィットもある」


 私、ただ仕事をこなしてるだけなのに。お金をいただく以上はやれることをやろうって思ってるだけ。真輝さんみたいに、お客様を喜ばせた実感もない。だけど、そう見てくれたんだって素直に嬉しかった。


「ありがとうございます」


 はにかんだところで、お凛さんが意地悪く笑う。


「まぁ、カクテルは荒削りだけどね」


「精進します」


 心からそう言った。なんだか、負けてられないじゃない。私に火がついた音がした。


 真輝さんは私が欲しいものを全部持ってる。綺麗な顔に、芯の強さ、プロのバーテンダーとしての意地と腕、そして、暁さんの心まで。

 私はすっかり真輝さんに感服していた。暁さんの想い人ってことがなければ、心に何のもどかしさも感じずに友達になれたかもしれない。


 神様って意地悪だ。そんなことを思っていると、扉が開いて尊さんが入って来た。


「ごめん、遅くなって」


 彼がにこやかに言う。

 私はちょっとドキリとした。真輝さんがどことなくほっとした顔を見せたから。きっと、心を許した人にだけ向ける笑顔なんだろう。


「お疲れ様。志帆ちゃん来てるわよ」


「え? あ、本当だ! 来てくれてありがとう」


 尊さんが無邪気に笑う。その傍らで真輝さんもそっと微笑んでいた。二人揃うと、見る人を安心させるほど穏やかなものを感じた。なんという二人だろう。春の陽だまりにいるような気さえする。思わず、羨望の眼差しを向けた。暁さんだけでなく、何者でも立ち入れない絆を感じたから。


 二杯ほどタリスカーを飲んだ私が清算して店を出ると、尊さんが見送ってくれた。


「また来てね」


「はい。是非」


 私は目を細めた。正直、真輝さんを見ると自分が惨めになるけど、でも、尊さんといる真輝さんなら話は別だ。また、この二人を見ながら飲みたいと思った。二人の姿に純粋に憧れたんだ。


 神様なんて大嫌い。恋のライバルを、私まで好きになってしまうなんて。

 帰り道、真輝さんの言葉を思い出す。彼女はちょっと困った顔をしてこう言った。


「暁ってね、素の自分を出さないのよ。誰でもいろんな顔があるでしょ? 親への顔、友達への顔、恋人への顔。暁の場合、特にそれが強くて、必要以上に人に合わせてしまうというか......暁は私にも素の自分を見せたことがないの。誰より優しくて気を遣いすぎて、強がりなのよね」


 私は腑に落ちた。だから、彼女は彼を選ばなかったんだ。そう思えた。だって、尊さんは真輝さんに自分をさらけ出してるから。尊さんがどこまでも真っ直ぐだからこそ、彼女もありのままの自分でいられる気がした。


「だから、暁がありのままの姿でいられる人がいればいいんだけど」


 彼女はそう言って、私に笑みを送った。無言で『暁をよろしく』って言われた気がした。彼女は彼女なりに暁さんを好きで、心配してるんだ。でも、彼女の居場所は暁さんの傍じゃなかった。私と信吾みたいに。私はいつの間にか、きつく唇を噛んでいた。


 翌日『エル ドミンゴ』に出勤した私に、吉田さんが訊いてきた。


「琥珀亭、どうだった?」


 また面白がってる顔してる。


「参りました。レベルが違います」と、『降参』するように、両手を上げておどけてみせた。


「でも、負けませんよ。私、まだスタートラインにも立ってませんから」


「男前だね」


 吉田さんが目を細めて笑う。


「頑張れよ」


 彼が応援してくれているのが、嬉しかった。本当はまだ弱気だから。あの人の影に勝てるかどうかわからない。けれど、背中を押してもらった気がして、力一杯頷いた。


「受けて立ちます!」


 ガッツポーズと共にカウンターに入ると、暁さんが「おはよう」と迎えてくれた。


「琥珀亭に行ったんだって?」


「はい。勉強になりました」


「そうか。皆元気だった?」


 皆と言っておきながら、真輝さんを気にしてるんだろうけど。私はチクリと胸を刺す痛みに気づかない振りをする。


 がむしゃらにやってやる。私の中で真っ赤な火が揺らめいた。バーテンダーとして、女として、なりふり構わずやればいいんだ。それで駄目なら諦めもつくよ。だって、そのほうが私らしいじゃない。私、くよくよしてばかりで、何もしてなかった。


 『エル ドミンゴ』の中を見回す。ここが私の戦場だ。最後に、暁さんの横顔を見た。標的は彼の心。覚悟してよね。

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