きっかけはきっと些細なモノである
同僚同士の年末忘年会に坂下真紀子は来ていた。
「やってられないのよ! 分かるぅ!?」
日頃のうっ憤を晴らすかのように料理もほとんど食べずに自分で手酌をする独身二十五歳女性の図がそこに出来上がっていた。当然同僚たちはいつもの凛とした彼女からかけ離れたその姿に距離を取る。
しかし坂下真紀子はそんな事を気にもしないでキューっとビールのコップを空ける。
「先輩、飲み過ぎですよ・・・。」
流石に見かねた後輩の女の子がそう言っておしぼりを差し出す。それは先ほど店員から持って来てもらったばかりの湯気の立つおしぼり。真紀子はそれを受け取り手を拭いて口元も拭く。当然まだついている口紅がおしぼりにうっすらと移る。
それを見ながら坂下真紀子は大きくため息をついた。
「勝さんたち今頃楽しくやっているのかなぁ?」
「営業部は別で忘年会ですもんね。私たちは女同士で寂しく飲みましょうよ。」
そう言って後輩の女の子は真紀子の手からビール瓶を取って自分のコップにビールを注ぐ。真紀子はその様子を何となく眺めながら今年一年の事を思い出す。
大学を出てそこそこの商社に勤めたはいいが事務に回され早数年。同僚は早々と寿退社をする中に自分は徐々に仕事をいろいろと任され気付けばリーダーをやっていた。仕事自体は嫌いでは無いものの煩雑な事務仕事は覚えることが沢山有る。更に後輩なんかが出来ればその教育もいつの間にか任され常に気を引き締めなければならない。
だからだろうか、女同士の忘年会で思わず飲み過ぎ羽目を外してしまった。
「そろそろお開きですよ先輩。」
後輩にそう言われこれが最後だとでも言うようにお茶を差し出される。真紀子はそれを受け取りくっと一気飲みしてむせる。そんな様子を後輩たちは笑って見ていたが意外な一面を見れた為か心なし真紀子に対して親近感がわいていたようだ。
「この後どうします? カラオケにでも行きませんか?」
そう言ってくれる後輩たち。しかし真紀子は最近の歌など知らない。仕事が忙しくなってきてだいぶ流行りの曲に疎くなってきていたのだ。そんな事を思うと途端に自分が情けなくなってくる。
―― もう若くは無いんだから ――
実家の母が良く口にする言葉。それをいまさらながら実感させられる出来事。真紀子は一挙に憂鬱になって後輩たちに首を振りながら、飲み過ぎたので今日はもう帰ると言い、先に席を立った。その後姿には哀愁さえ漂っていたものだ。
* * * * *
一人ぶらぶらとしながら寒空の下、徐々に人気が少なくなっていく駅に向かって歩いて行く。
自分は何をやっているのだろうか?昔描いていた自分の理想の姿とくたびれた二十五歳独身女性の姿が全くと言っていいほど重ならない。
「はぁ、どうしてこうなった?」
酒が入ったせいもあり本音が口から出る。しかしそれは誰に聞かれる事も無く暗闇に消えていく。
と、真紀子の前に牛丼屋が現れた。
悩んでいるはずの真紀子だったがその牛丼屋の看板を見た途端小腹がすいて来た事に気付く。それもそのはず、最初からずっと飲む方がほとんどで出てきた料理なんてほとんど手をつけていなかったからだ。そして寒空のお陰で酔いもさめて来ていた。
「ふん、どうせ私は行かず後家ですよ~だ!」
そう言いながら真紀子は空腹を満たす為にその牛丼屋に入った。既に数回入っているからもう牛丼屋に入る事に抵抗感は無くなっていた。
しかし入っていつもと雰囲気の違いに気付く。適当にカウンターに座って食事をしようとしても一向に店員が来ないしメニューも見当たらない。少し待っているとせわしい店員がやって来た。
「お客様、お決まりですか? 当店は食券を先に買っていただくのですが。」
ここまで言われて真紀子は初めて食券機が入り口にあった事に気づいた。慌てて席を立ち食券販売機に向かう。そして液晶画面のそれに向かって驚く。そこには牛丼以外にも様々な品が掲示されていたのだ。
「なにこれ?ハンバーグや焼肉定食まである?」
タッチパネルで品物を見ていくと驚くほどの品数だった。思わず真紀子は店内を見る。そこには数人の客が思い思いの食事をしていた。それは牛丼だけではなくいろいろなモノであった。
真紀子はしばしそれを見て考えるが結局いつもの牛丼を注文する。
食券を買いカウンター席に着き店員に渡す。そしていつも通りに真紀子の目の前にはおいしそうな牛丼が運ばれる。
「牛丼屋で牛丼以外を選ばないから私って駄目なのかな?」
「あれ?坂下先輩じゃないですか?」
ぽつりと独り言を言ってみると後ろから声をかけられた。驚き慌ててふり返ると営業部の網野がそこにいた。彼は真紀子の一つ下で入社した一応後輩である。真紀子はバツの悪そうな表情をして一応社交辞令をする。
「となり良いですか?」
そう言って網野は真紀子の了解を得る前に席に着く。そして食券を出して自分の食事が来るのを待つ。
真紀子は以前彼に食事に誘われていたことを思い出す。あまりぱっとしない彼だが地道に仕事はこなしている。真紀子としては気のある勝が隣に座ってくれれば言う事無かったのであるが。
そんな事を思っていると網野の食事もやって来た。それは定食でお皿に牛丼の具が載っているもので他にも野菜の小鉢やみそ汁もついていた。それを見て思わず真紀子は聞いてしまった。
「その定食って牛丼と何が違うの?」
「え?ああ、牛皿定食ですか?そうですね、食べれば同じでしょうけど一つ一つの味が楽しめますし、サラダもついてきますしね」
そう言って網野は美味しそうに牛皿定食を食べ始めた。
真紀子はそんな彼を何となく見ながら自分も牛丼に手をつける。それは今まで食べてきた牛丼とやはり少し違った味わいがしていた。
しかし真紀子は何となくそれがうれしくなってしまった。前と同じように紅しょうがを少し入れてみたり、備え付けの七味唐辛子を少しかけてみたりとしてこの牛丼を楽しむ。
そして二人とも程無く完食する。
水を飲み何となく二人して店を出る。
そして真紀子は網野に向かって聞いてみる。
「今日は営業部でも忘年会じゃ無かったの?」
「いやぁ、一次会は強制参加ですけど二次会のカラオケは苦手で。結局一次会も飲む方がメインで小腹が減ってここに来たって訳ですよ」
網野は屈託なく笑ってそう言う。一瞬前に食事に誘ってくれたからと淡い期待をするも、全くの偶然だったようだ。しかし何となく彼の笑い顔を見ていたら肩の力が抜けた。
「なんだ、偶然か」
「はい?何か言いました?」
真紀子は先に歩き出し振り返りながら網野に答える。
「なんでもない! あ、でも今度一緒にカラオケ行かない?新しい歌は歌えないけどたまには行きたいからね」
そう言う真紀子の顔にも屈託ない笑顔が浮かんでいたのだった。
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