5節 介護職員として踏み出した一歩 –帰宅後--
自宅に着いた優菜は真っ先に若菜の所へ行き、今日一日の出来事や職場の感想を話そうとした。今までの学生生活や就職活動中にはない新しい経験が優菜には新鮮で楽しかった。その楽しさと興奮を抑えきれず、若菜に話したくて止まらなかった。
「あなた、話をする前に手洗ってうがいしてきなさいよ。ご飯出来てるから食べながら話そ」
優菜は言われたとおりに手を洗い、うがいをした後にテーブルにつき、話し始める。
「すっごい疲れたし、良くわからなかったけど新鮮だった。楽しかったよ」
「そう。そんなに忙しそうなイメージ無かっただろうけど、結構暇無く動いてたでしょ?」
「うん、今日はとにかく職場に慣れてって言われて結構入居者さんの横に座って話してたんだけど、他の職員さん達は常に何かしてたかも」
疲れよりも新しい環境への興味が顔に出ていた優菜を見て若菜はホッとしていた。介護業界の事情を知っている若菜は、職場や同僚によっては初日から何も教えてもらえずに見て覚えろという職場や、どうしてこんなこともできないのかと叱責しながら仕事を覚えざるを得ない職場があることを知っている。先入観を持たせたくない気持ちと、そうはなってほしくないという気持ちがあり、若菜はそういう介護業界の実態については一切話をしていなかった。そうではない職場であることが優菜の表情から伝わり、安心した若菜は続けて優菜の話を聞き続ける。
「入居者の人に付き添って歩くだけでも気を付けることいっぱいあるんだね。いままで体の片側が動かない人の付き添いするときに、何に気を付けるかなんて考えたこと無かったからわからなかったけど、介護やってる人ってみんな立つ位置とか支える場所に気を付けてるもんなの?」
「みんな考えてるよー。私らと違って入居してる人たちはみんなちょっと転んだだけで骨折れたり大怪我したりしちゃうのよ」
「そんなに大怪我するの?」
「うん、年取ってる人って骨が脆くなっちゃってる人結構いるのよ。女性は特に多いんだよ。それに、結構体型細い人居たでしょ?そういう人たちは皮膚がクッションにならなくて、転んだときにぶつけると皮裂けちゃう人もいるんだよ」
「うわぁ・・・それおおごとだね」
「そうだよ、私らより大怪我しやすいし私らよりも体の自由が利かない人多いから。優菜もあと10年もしたら年齢感じるからわかるよ。お肌からね」
「ちょっと怖い事言わないでよ!わかりたくない・・・・」
「黙ってても歳はとっちゃうからね。本当に相手の気持ちになったり相手の立場になって考えるなら同じくらいの歳にならないとわからないんじゃないかな。私もまだわからないこと一杯あるよ。若いから!」
「若いってお母さん、無理しすぎ」
「それがそうでもないのよね。私41歳でしょ?この業界だと41歳だったら若いって言われるんだよ。50代とか60代の人でもバリバリ働いてる人たくさんのよ」
「60代であの仕事してるって凄いね」
「元気な人は本当に元気だから、20代の人より元気な60代の人も珍しくないのよ」
実際に若菜の経験上、60代の人はかなり活発な職員が多かった。その後も優菜の話は止まらずに、食事が終わるまで続いた。食器を下げた若菜がお風呂のお湯を貯め、食器を洗い始める。
「私食器洗っちゃうからお湯貯まったらお風呂入ってきなさい」
「はいはーい」
お湯に浸かりながら優菜は今日一日の出来事を整理する。慣れるのにかかりそうな期間や業務を覚えるのにかかりそうな期間、入居者様の特徴などを覚えるのに最低でも2か月位はかかるのではないかと想像していた。合わせて自宅に帰ってきてから何か出来ることは無いかと考え、若菜にもらった教材があることを思い出した。
「お母さーん、この前くれた本持ってきてー」
お風呂の時間を有効に使うために介護関係の本を読む習慣をつけることにした。呼んでいてもわからない言葉が沢山出てきて、一人で理解するのは無理がありそうだと思った優菜はお風呂を上がって若菜に聞くことにした。
「ねぇ、このADLとかQOLって何か良くわかんないんだけど、こんなの仕事してて使うの?難しい書き方してるだけで実際に働いてたら使わない?」
「んー、普段の仕事中でそこまで頻繁に使うことは無いけど、定期的に入居者様ごとに会議やるのよ。多分職場ではカンファレンスとかケアカンファって言ってると思うんだけど、そういう場では話の所々に出るよ」
「こんな難しい言い方してるの?」
「うーん・・・確かにわかりづらい書き方してるけど、意味があってそういう書き方してるんだし、慣れたらそんなに引っかかることもないんだけどね」
「こんな難しい言い方したらかえってわかりづらいんじゃないの?日常生活動作がどうこうって話かたするくらいならこの人の立ち上がりがいいとか悪いって言い方じゃダメなの?」
「それでもいいんじゃない?ちょっと難しい話になっちゃうけど、なんとなくでいいから聞いててね。今優菜が働き始めた施設には高齢の入居者様がいるじゃない?高齢の人ってさ、怪我したり特定の病気で体の一部が不自由になることもあるんだけど、大体の人は年齢重ねていくうちに全体的に衰えていくのよ。だから、立ち上がりの動作とかトイレの動作っていう部分的なシーンだけの話ってよりは、その人の生活動作全般の話になる事が多いの」
「うんうん、なるほど」
「この人は最近ADLが低下してきたので、そろそろ一人で自由に歩いてもらってると転ぶかもしれないから職員が付き添いましょうなんて話になるわけなんです」
「おおー、お母さんすっごーい。プロっぽい!」
「ぽいじゃなくてプロなの!何年やってると思ってるのよ。お母さんだってそれなりに勉強して研修行ったり資格とったりしてるんだよ」
「さっすがー、お母さん頼りになるわー」
「難しい話だとすぐに答えられないこともあるかもしれないけど、今の優菜の質問ならだいたいこたえられると思うから、初めのうちはなんでも聞いて。ただ、頼りっきりで聞いてばかりじゃダメ。自分で調べたり、普段からちょっとずつ勉強して積み重ねておかないと、説明聞いてもわかんないよ」
「はーい、仕事慣れたら勉強しまーす」
「うん、まずは入居者様の名前とか仕事の内容覚えてからだよ。それからでいいと思う」
学生時代にどんなに勉強を進めても拒絶反応を起こす優菜に、いっそ本人のペースで勉強をしたら少しは自主的に机に向かうのではないかと思って見守ってきた若菜だが、定期テストや受験の少し前の期間以外には机に向かう娘の姿はほとんど見たことが無かった。それなのに、仕事を始めてから自分と同じ職に就くとは思っておらず、まして自分に頼ってくることなど想像もしていなかったので、若菜は嬉しくてしょうがない。学校の勉強を教えてほしいと頼まれても教える自信は無いが、介護の知識を教えてほしいという話なら3年目くらいまでは教えられる自信があった。
「初日から張り切りすぎるとバテるわよ、ほどほどにして今日はゆっくり休みなさいね」
「わかったー」
自分の部屋に戻って早速若菜の言うことを聞く気が無い優菜は、ベッドに横になりながらテキストをめくり始めた。何か一つでも明日役に立ちそうなことを持って出勤したい気持ちだったが、数ページめくっても内容が全然わからない。眠くなってしまった優菜は、せめて今日職場で教えてもらったことや、若菜に教えてもらったことをメモして忘れないようにしようと机に向かった。
机に向かう自分に少し違和感を感じていたが、優菜は楽しかった。学校の勉強をしていてずっと引っかかっていたのが、この勉強は将来役に立つことなのだろうか?という点だった。それに比べて今やっていることは明日すぐにでも役に立つ可能性があるし、何のための勉強なのか目的がはっきりしていたことで、モチベーションが全然違った。若菜は何かを勉強することが嫌いなのではなくて、受験の為だったり試験の為というその先の目的が不透明な勉強が嫌いなだけであることを自覚していた。
今日覚えたこと、教えてもらったことを一通りノートにまとめ終えると、急に疲れがどっと押し寄せ優菜はそのまま休むことにした。
【優菜の介護メモ】
入居者さん・介護関係
・八坂さんのような片側に麻痺がある人の付き添いやお手伝いをするときは、動かない側に立って転ばないようにする。
・食事やお散歩の前にはトイレに誘う。
・食事中は喉詰まりが起きやすいから出来るだけ職員が居るようにする。
・むせる人の隣に座るときは結構いきなり食べ物吹き出してたから、手元にティッシュ用意しておいた方がよさそう。
・耳が遠い人にはメモを見せてこっちの言葉を伝える。
・お散歩から帰ってきたらトイレに行った方がいい。
職員関係
・大沢リーダーめっちゃ優しい。
・櫻庭さんマヂ天使。わかんないことあったらこの人に聞こう。
・長谷川さん怖っ。朝の自己紹介したとき目合わせてくれなかったし、それからもなんだか避けられてるみたいだった。怒られないように気を付けよう。
・夜勤の職員さんの名前忘れた。明日大沢さんに聞いてみよう。
母上から教えてもらったこと
・ADL=日常生活動作の略らしい。意外に使う事があるらしいから覚えておいた方がいい。
・普段見たことない顔で話してた。実はすっごい頼りになるのでは?しばらくは甘えて頼っちゃおう。母上カッコイイ、マヂで尊敬。
介護福祉士は定時で帰りたい ゆるけあ @carestepzero1
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