第四話 介護職員として踏み出した一歩 --後編—
調理をはじめた優菜を見て、リーダーの大沢涼子が声を掛ける。
「大人数の調理したことないだろうから最初は大変だろうけど、慣れたら大丈夫だから頑張ってね。間に合わないなと思ったら、他の職員さんに手伝ってもらってね。今日は私が手伝うから大丈夫」
大沢が優菜の隣で手際よく料理をはじめ、調理に慣れていない優菜は何をしたら良いかを大沢に聞きながら必死に調理を行う。卵を割ってみるがどうしても殻が入るし、頑張ってわかめときゅうりの酢の物を作るが、あろうことか砂糖と塩を間違える。そして味見をしないで大沢に味見をしてもらう。
「!!!!!!!!。これ塩!塩入ってる!!!!」
「す・・すいません!作り直します!」
まさか自分がこんなにベタな失敗をやるとは思っていなかった優菜だが、その気持ちに隙ができて砂糖と塩を取り違えたらしい。早速やらかした優菜だが、落ち込む様子は無く淡々と作りなおす。ここは若菜の指導のおかげで、仕事中の調理時間はかなり時間がギリギリであること、失敗したときは落ち込むよりも手早く作り直すことに全力を尽くすように若菜が教え込んでいた。自宅で何度も失敗していたおかげで立ち止まることなく調理を続ける。
最初の味見をした時は強い不安を感じた大沢だったが、優菜の様子をみて緊張していただけなのではないかと今回の失敗を流すことにした。大沢が親子丼とお吸い物を作り、優菜が酢の物と漬物を準備した。
「手が空いてる人はご飯配ってくださーい」
出来上がった料理を配食するため、大沢が他の職員や入居者様に声をかけて配食を手伝ってもらう。早番の職員の長谷川和子と遅番の職員の櫻庭一華、入居者様では伊藤キヱ様、糸川ヤエ子様が配食の手伝いに集まる。大沢は慣れた様子で的確に指示を出す。
「長谷川さんと糸川さんは親子丼の盛り付けをお願いします。櫻庭さんと伊藤さんはテーブルに運んでください」
集まった全員が返事と共に動き出す。職員はともかく入居者様も手馴れている。
「みなさーん、そろそろご飯です。お席についてくださーい」
職員の櫻庭が声をかけるとすぐに動ける入居者様は自分で席に着きはじめる。ここで大沢は優菜に一緒についてくるように言って、居室で過ごしている八坂みよ子様をお迎えに行く。
「この方は普段お部屋で過ごされているんですけど、左の片麻痺ある方で杖を使って歩きます。最初は私が一通り付き添うので次からはお願いします」
居室の前で優菜に簡単な説明を終えた大沢がノックを2回する。
「八坂さん、お昼のご飯です、お迎えに来ました。お部屋に入ってもよろしいですか」
「はーい、いいよー」
部屋の中から少し枯れた声で八坂様がお返事を返してくださる。
大沢と優菜は二人で入室し、優菜はすぐに窓際の少し離れた位置で大沢の行動を食い入るように見ている。大沢が食事の席まで誘導を試みる。
「八坂さん、体調変わりないですか?」
「なんともないよ」
「おトイレは大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ」
「ご飯食べにいきましょうか。」
大沢はベッドの枕元に置いてあった杖を渡す。
「行きましょう」
八坂様は杖を使って自分で立ち上がるが、少し左側にふらつきがあった。大沢は八坂様に向かって右側に立ち、いつでも支えることが出来る位置で見守っている。立ち上がってからの歩行はしっかりとしていて、八坂様の左後方から大沢が付き添ってテーブルまで移動する。着席を確認した後に一度大沢は優菜を呼び、その場を離れて八坂様の居室に戻った。
「今の見ててわかりましたか?」
「杖を渡してついていけばいいんですね」
「八坂さんは立ち上がる時にふらつきがある人なんで、本当にたまになんですけど立ち上がる時転びそうになることがあるんです。立ち上がる時はすぐに支えられる位置で見守りしてください」
大沢が八坂様の布団をなおしながら続けて説明を行う。
「麻痺がある人の歩行に付き添う時は麻痺側の少し後ろからついていくといいですよ。転ぶときは踏ん張りがきかないので麻痺側に転んじゃうことが多いんです」
「わかりました」
ただ黙って見ていた優菜は全く気付かなかったが、ベッドから立ち上って食事の席までの移動でそれだけ注意しなくてはいけない事があった。
「食事中にトイレに立たなくていいように、食事前にトイレの声掛けもしたほうがいいですよ」
「はい。食事中にトイレにはいかないほうがいいんですか?」
「行ってもいいんですけど、食事中って危ないんですよ。むせたり喉詰まったりする人いるんで、そういうことを考えたら出来るだけ職員の目が多いほうがいいですし、気にする入居者さんもいますから」
「なるほど・・・・」
今までの生活で人の動作や気持ちにそこまで配慮することが無かったので、優菜は心から驚いていた。これが人と関わる仕事なんだと自分に言い聞かせ、大沢や他の職員の動作に目を見張る。
利用者様と他の職員全員が席に着き、大沢と優菜を待っていた。
「ごめんなさい、お待たせしました。それでは食べましょう」
大沢がそう言うと、全員でいただきますと発声した後に全員が食事を始める。早速八坂様がむせ込み始めた。隣に座っていた大沢が背中を軽くたたき、声をかける。
「大丈夫ですか?」
「はい、ごめんねぇ」
大沢や他の職員は食事中に気になる入居者様を直視することはないが、むせ込みがあるとすぐに反応し、食べこぼしがあるとすぐに拭き取っていた。経験のある職員にしかできない事だった。
利用者様の食事が終わるころには職員の食事は済んでおり、入居者様が動き始めると同時に職員も動き出す。それぞれが自分の食器を持ち、台所に向かう。
「これ持ってきたよー、あっちの人のも今もってくるから」
糸川様が張り切って手伝ってくださる。お皿やドンブリを3つ程重ねて持っても歩行に支障は見られず、次から次へと運んでくる。大沢と優菜は台所へ入り、運ばれてくる食器を必死に片付ける横で、櫻庭が口腔ケアの誘導を行う。
「洗面台あきましたよー、まだ歯磨きしてない人順番に来てくださーい」
櫻庭の声掛けで食事を終えた入居者様が入れ替わりで洗面台へと向かう。
食器の片づけと入居者様の口腔ケアが終わると、大沢は優菜と事務室へ向かう。事務室へ着くと大沢が優菜に声を掛ける。
「休憩入りましょう。大丈夫?まだ半日よ?」
「大丈夫です。休憩はここでとるんですか?」
「何かあったときに動けるようにはしてほしいんだけど、施設の外に出るなら他の職
員さんに言ってから出てくださいね」
「わかりました」
優菜は休憩時間に入居者様ごとの特徴と居室の位置をメモに書きだした。午前中にあったことや教えてもらったことも書こうと思っていたが、1時間ではそこまで書ききれなかった。
休憩を終えた大沢と優菜はリビングに戻り他の職員から特に変わったことが無いことを確認する。そして大沢が他の職員を集め話す。
「今日は人居るし、天気も良いからお散歩いきましょうか」
櫻庭が大沢に尋ねる。
「誰から行きますか?」
「糸川さんと木村さんから行きましょう」
早速櫻庭が二人に声をかけに行く。大沢は優菜にこれから気を付けることを説明する。
「今日は初日だし、いきなり色々言っても入っていかないと思うけど、とにかく転ばないように付き添いましょう。今日は木村静江さんの付き添いをお願いします。どんどん進んでいっちゃうんで、転ばないように付き添ってください。糸川さんと私から離れたなーって思ったら少し止まって待ってもらってください」
説明が終わったところで職員の櫻庭が糸川様と木村様を玄関前までお連れしていた。大沢が2名にトイレの確認を行った後に、説明通りに大沢が糸川様に、優菜が木村様について施設から出た。
「今日はどちらまで?」
木村様が優菜に尋ねるが、優菜は行先を聞いていなかったので大沢に尋ねると、木村様に話しかける。
「どこ行きます?その先の公園まで行きましょうか?」
「いいね。私少しお日様に当たりたくてさ」
天気は良く、非常に強い8月の日差しが4人を照らす。優菜は少し動いただけで汗がにじみ出てくるほど暑さを感じたので、隣にいる木村様の体調を確認する。
「暑くないですか?」
「ちょうどいいくらい。暑くはないよ」
この暑さの中で暑くないというのが信じられなかったが、本人が暑くないと言うので優菜は気にしないことにした。少し歩くと目的地の公園と、その手前に片側2車線の国道が見えてきた。優菜が信号のボタンを押して車道の2歩ほど手前で待っていると木村様が車道を覗き込むように身を乗り出す。
「いっぱい車走ってるねぇ」
慌てて優菜は木村様の体を少し引っ張り声を掛ける。
「危ないですよ。車道からは少し離れてください」
「あら、ごめんなさい」
信号が変わり、4人が歩き始める。無事に横断歩道を渡り、公園に着くと木村様と糸川様はすぐベンチに腰を掛ける。
「いやぁ・・・歳とったらちょっと歩くだけで怖いねぇ」
4人は5分程天気や季節の話をした後に施設へ向かって歩き始める。大沢が帰り道は少しペースを落として帰るよう優菜に言った。ゆっくり帰りましょうという声掛けをしたが、木村様は帰り道も張り切って歩いている様子だった。
大沢は施設に戻ってから最初に糸川様と木村様にトイレの確認を行った。2人とも希望があったため、トイレに誘導を行う。この時、木村様の排泄介助は櫻庭にお願いし、大沢は糸川様の排泄介助を優菜に見ているように指示を出した。
「後で説明しますから今回は見ていてください」
大沢が糸川様に、これから行う支援を一つずつ説明しながら手際よく介助を行う。声をかけズボンを下ろし汚染していたパッドを回収し、声を掛け糸川様の陰部を拭いた後に新しいパッドを当て、ズボンを上げる。手際が良かったこととトイレが狭かったことで、優菜には大沢の手元が見えていなかった。糸川様をリビングのテーブルまでお連れした後、大沢は優菜に声をかける。
「今みたいに、出来ないところのお手伝いをしてあげてください。パッドが汚れていたら変えてあげて、自分で拭けない人は拭いてあげます。誰がどこまで出来るかは最初わからないと思いますが、介助に入る時に他の職員さんに聞いてください」
排泄の介助が終わった後に、今度は大沢と櫻庭が他の入居者様のお散歩に付き添うことになり、優菜はお散歩に行った方に水分を摂っていただいて、施設に残っている方とコミュニケーションをとるように言われた。30分程話をして過ごしているうちに、関わっている人の名前や声、顔を少しずつ覚えてきたが、まだ顔と名前が一致する程ではなかった。
大沢と櫻庭が施設に戻ると、お散歩に出かけた人の排泄誘導を終えた後におやつの時間となり、職員の長谷川が準備していたおやつを配って昼食の時と同じ席について入居者様と一緒に職員もおやつを食べる。おやつが終わった後に、長谷川が夕食の準備にとりかかる。そして16時過ぎに夜勤者が出勤してきた。
「通常日勤者がその日の様子を利用者様ごとに分けて、介護記録に書きます。大体おやつが終わってから夜勤の人へ申し送りをする頃までに書き終わっていたら良いです。リビングで入居者さんの様子を見ながらしてくださいね。しばらくは誰かと一緒に日勤につきますからいいですけど、そのうちやってもらいます。他の職員さんの介護記録の書き方や、申し送りでどんな内容を話しているか今のうちに聞いておいてください」
大沢に日勤の夕方ごろの業務の説明を受けた後に、今日はとにかく入居者様と関わって、名前と顔を一致させるように言われた優菜は、大沢が申し送りをやっている時間以外は他の入居者様と関わることにした。大沢は申し送りが終わった後に夕食準備を手伝いに行ったが、その時間も優菜は入居者様と関わるように言われた。
夕食の配膳が終わったところで、大沢と優菜は事務室へ行った。
「今日の業務はこれで終わりです。初日で本当に疲れたと思うけど、大丈夫そう?最初は体調崩しやすいし、慣れるまでは気疲れすると思うから、今日は帰ったらゆっくり休んでください。お疲れさまでした」
「今日一日ありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
大沢が笑顔で見送り、優菜は事務室を後にする。バスに乗って帰宅する優菜だが、一日中笑顔を作っていたせいで、どうも顔が少し引きつるような感覚に襲われていた。
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