第三話 介護職員として踏み出した一歩 --前編--
電話は優菜が先日面接に行った施設の施設長からだった。
「この度は弊社へご応募ありがとうございます。優菜さんが今も面接の時と同じ気持ちでいるなら是非、採用させていただきたくご連絡させていただきました」
「はい、よろしくおねがいします」
優菜は面接に行った日から心の準備はしていたが、採用の言葉を耳から聞いた瞬間に頭で考えるよりも先に口が動いていた。優菜の返事を聞いた相手の施設長は話を進めた。
「お返事を聞いて安心しました。これからよろしくお願いします。一度入職前に渡す書類がありますのでご都合よろしい日に職場に来てもらえませんか?」
そう言われ、翌日に施設へ行くことを伝えた。
翌日施設へ着くと、先日面接を担当した管理者が居た。管理者から色々な手続きの書類を一式渡され、記入するときの注意点などを一通り話された後に資格の取得を勧められた。
「今後この仕事を続ける予定があるなら絶対に資格は取っておいた方が良いと思います。仕事をしながら取りに行くならシフトはこちらで調整しますよ」
管理者はそう言って優菜に資格の説明を行った。ホームヘルパー2級の取得を勧め、取得にかかる期間や受け入れをしている学校、費用の話も詳しく説明を行った。
「母もこの仕事をしてるので、母に相談してみます。前向きに検討させていただきます」
優菜は一通り説明を受けたが、かかる費用と期間以外はほとんど頭に入っていなかった。業界の事は業界の人間に聞いた方が良し悪しもわかるだろうと母親を頼ることにした。他に初出勤は翌月からであることを説明され、配属先の部署へ連れていかれた。面接の時に受けた説明をもう少し詳しく受け、優菜の配属先は比較的介護度が軽い人が多い部署であることを説明された。優菜が見た印象では自分が配属される部署のほうが自分で動いている人が多いという印象を持った。
一通り説明を受け、施設を出る優菜を管理者が送り出す。
「改めて来月からよろしくお願いします」
「はい。来月からよろしくお願いします。がんばります」
そう言った優菜の言葉にはもう迷っている様子は見られなかった。帰る途中は何か月もかけてやっと決まった仕事の事を考えていて、嬉しくてしょうがなかった。
思い返すと他に選択肢が無くてたまたま選んだ仕事であっただけで、特別な想いをもって施設や業種を選んだわけでもなかったし、応募を決めるまで予備知識も無かった優菜だったが、就職が決まった途端に興味が沸いた。仕事についても相手をする入居者様についても全く分からない状態で出勤するほど楽観的でもなかったので、帰宅してすぐに若菜に色々と聞き始めた。
優菜が最初に勤務することになった施設はグループホームで、そこでは食事や入浴などの生活全般のお世話に加えて調理も業務に入る事を若菜から聞いた。何故か面接に行った翌日から若菜の料理指導は厳しくなっていたが、優菜は素直に受け止めていた。
「これからは家族に出すものを作るんじゃなくて、入居者様に食べるものを提供するんだから、盛り付け方がいい加減だとせっかくおいしいものを作っても食べる人からみたら残念に見えちゃうからね」
若菜の熱が入った指導の甲斐もあって、2週間程度で優菜の料理は見違えるほどに上達した。優菜自身は上達に喜んでいたが、誰よりも一番喜んで胸を撫で下ろしていたのは若菜だった。事故、事件を未然に防いだ功績は非常に大きい。
優菜はまだ実感が湧いていなかった。社会人経験が無いこともあり、アルバイトとどう違うのかわからず不安は大きかったが、意思や感覚に関係なく時間は進んでいく。
-----出勤初日-----
通勤用の服や靴などを勤務当日までに用意してほしいと言われ、室内用のシューズやエプロンなどは購入し、記入した書類を一式持って優菜は職場へ向かっていた。心配に心配が重なり、家では落ち着いていられなかったので1時間程早い時間に到着していた。
施設に入ると、職場には夜勤の職員と早番の職員しか居なかった。夜勤の職員が優菜の姿を目視し声を掛ける。
「あ、もう来たんだ。日勤でリーダー来るからそれまで事務所で待っててくれる?」
そう言われ優菜は事務室に行き、座って待つことにした。それから30分程でリーダーが出勤してきた。
「早いですね。何時に来たの?ロッカーはここ使ってね。まず着替えて終わったらまたここに来てください。」
ロッカールームに案内された優菜は着替えを終えて事務室に戻り、リーダーさんに話しかける。
「まず朝礼で紹介させてもらいますね」
そう言われてそのまま事務室前の通路に出ると、他の職員も通路に集まっていた。リーダーが他の職員にむけて話始める。
「おはようございます。最初に今日入った職員さんの紹介をします。鈴木優菜さんです」
名前を呼ばれると同時にリーダーから優菜に目線で合図がきた。
「初めまして、鈴木優菜です。よろしくお願いします」
この時優菜は何故か強い違和感をおぼえていた。他の職員達がほとんど無表情で、優菜を見ていなかった。学校で転校生が来たときにみんなが興味津々で転校生のことを見る光景。あの真逆の印象・・・そう、全く関心がないような。
優菜の挨拶が終わるとすぐに夜勤者からの申し送りが開始される。
「夜勤帯の申し送りです。昨日は八坂みよ子さんと西川トヨさんが夜中ほとんど寝てません。他の方は良く眠られています。体調不良の方はいませんでした。以上です」
夜勤者からの申し送りが終わるとリーダーが続けて話始める。
「今日の午前中は鈴木さんに施設内の説明と業務の説明をするので、何かあったら声をかけてください。今日も一日事故が無いように頑張りましょう」
リーダーの話が終わると他の職員はそれぞれ業務に取り掛かる。
「まず最初に入居者さんの名前覚えないと何もできないし、入居者さんも知らない人が居て不安だろうから一人ずつ挨拶してきてもらっていいですか?」
そう言われた優菜は目の前に座っている入居者様から順番に挨拶してまわることにした。
「はじめまして。今日からここで勤務させていただきます鈴木優菜と申します、よろしくお願いします。」
リビングに居れば聞こえる大きさの自己紹介だったが全く反応が無かった。『ちょっと早口だったかな?』と思い、今度はゆっくりと同じ挨拶をしてみるが、それでも全く反応が無い。無視しているというよりは気付いていない様子だ。夜勤者が優菜の様子を見てすぐに声を掛ける。
「あー、その人は耳聞こえないから紙に書いて見せたらわかるよ」
そう言った夜勤者は優菜にメモ紙とボールペンを渡した。早速さっき口に出していた自己紹介をメモに記入し、目の前の入居者様に渡してみた。そうすると、笑顔で優菜を見て会釈をする。次の方、その次の方とご挨拶をして回っていると、話しかけた瞬間に立ち上がり、他の入居者様のことをと怒っている入居者様の対応を試みる。
「あいつダメなんだ。いっつも何回言ってもわかんないんだ」
正面に座っている利用者様を指さしながら言っているが、とっさのことでどのように対応したら良いか判断に困った優菜は、まず落ち着いていただこうと怒っている利用者様に座っていただくよう声をかけ、隣に座って話を聞こうとする。
「あんたからも言ってやってくれや。あいつダメなんだ!」
「落ち着いてください。私、今日からここで働くことになりました鈴木優菜です」
自己紹介を終えたところで怒っていた入居者様の興味が優菜に向いた。
「あんた今日からここで働くのか。そーかそーか、頑張んなさいよ」
さっきの怒りは何処かへ行ってしまった様子で、笑顔で優菜に声を掛けた後は落ち着いた様子だった。とにかく怒っていた方が落ち着いたことに安心し、他の入居者様への挨拶に回る優菜だが、中にはずっと歩き続けて話しかけても立ち止まろうともしない方もいた。 一通り挨拶が終わった優菜はリーダーに報告を行う。
「入居者様と一緒にお茶でも飲んでお話しましょうか」
「お話してていいんですか?」
「ええ、入居者様の生活に合わせてお手伝いしますから、入居者様がお茶飲むときやご飯食べるときは出来るだけ一緒にしましょう」
優菜にはお話ししていてくださいと言われても何を話したら良いのかわからなかったが、指示通りに利用者さんのお茶を入れ、テレビの前に座っている3名の入居者様の所へ行き、そこで話をすることにした。
「あんた立ってないでここ座ってお茶飲もうよ。」
「あんた今日からここで働くの?」
「家どこなのさ。」
「あんた結婚してるの?」
黙っていても入居者様からの質問が止まらないので話題に困ることは無かったが、同じ話題を10回以上繰り返し受けていた。まだ朝礼から1時間程度しか経っていなかったが、同じ質問を何回も繰り返され答え続けた疲労感よりも、これがこの先毎日続くことに対しての不安と心配のほうが大きかった。
少し落ち着いた頃に優菜はリーダーに呼ばれた。
「日勤がお昼ごはんを作るんだけど料理はできる?」
「少しだけ出来ます」
「今日は一緒に作りましょうか」
メニュー表を見ると、作ったことがある料理はほとんど無かった。食べたことが無い料理も書かれており、メニュー表を見て先行きの不安を感じた。
「そんなに難しい料理はメニューに入らないし、どうしてもわからなかったら他の職員さんに聞いたら教えてくれるよ」
今でこそ介護施設の料理はボイルするだけでいいレトルト系の物が多く使われるようになってきているが、このグループホームでは魚を台所で捌き、茶わん蒸しは蒸し器で作ることになっていた。
この日のメニューは親子丼で、今までに何度か作った経験があった優菜は安心していた。ただ気になっていたのは、10人以上の食事を用意した経験が無く、分量も計量して行う調理はしていなかった為に自信が無いまま調理を行った。
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