第十四話:おやすみなさい

 温泉から出て一息いた二人は、互いに座卓で向かい合い、冷たい飲み物を口にしながら、ゆったりとした時間を過ごしていた。


 この時間は普段何をしているのか。寝る前はどうしているのか。

 そんな他愛ない会話を交わしていく時間は、気まずいという事はない。


 とはいえ。浴衣から見えるまだ潤いを感じる胸元や腕や脚。そしてしっとりとした艶のある髪。

 互いにそんな相手の姿が気になってしまい。


  ──な、何か萌絵さん。ちょっと色っぽいかも……。

  ──りょ、諒君の胸元、少しはだけてる……。


 お互いそんな恥ずかしさは常に感じていた。

 と、そんな時。


「……あっ」


 諒はふと何かを思い出したのか。慌てて立ち上がり、自分の鞄に駆け寄った。


「どうしたの?」


 突然の事に少し戸惑った萌絵だが、彼はそれに応えず鞄を漁ると。


「やっぱり……」


 苦笑しながら取り出したのは、自身のスマートフォンだった。

 食事に行く時にマナー違反は嫌だと、鞄に仕舞ってからすっかり見るのを忘れていたのだが。


「あっ!」


 それを見て、萌絵も何かに気づいたのだろう。

 慌てて彼に並び鞄を漁り、スマートフォンを手にすると、


「忘れてた……」


 これまたしまったと言わんばかりの顔をした。


 そこには、互いの事を心配する相手からの不在着信。そしてMINEのメッセージがある通知が残っていた。


 諒は香純かすみから。

 萌絵は日向ひなたから。


 二人は互いに画面のロックを解除すると、その場で正座しじっと内容を見る。


 諒のスマートフォンには、香純かすみから二度ほどの不在着信。

 そして、直後にMINEに並んだ言葉は、兄の行動を心配する言葉から始まる、こんなメッセージの数々だった。


『おにい。お母さんから聞いた』

『いきなり萌絵先輩とお泊りとか、何考えてるの!? 助けたご夫妻の厚意って言っても、まだ恋人でもない女友達でしょ!? ちゃんと断らないとダメでしょ!』

『いい? 絶対に変なことしちゃダメだよ? まだ友達なんだから。分かった?』

『……おにい?』

『まさか、もう変なことしちゃってなんて、ないよね?』

『ねえ? おにい? もしかして、怒ってる?』

『お邪魔、だったかな。ごめん』


 既読にならないことで不安になったのだろうか。

 最初の怒るような勢いは何処へやら。最後には弱気な言葉を並べた妹のメッセージに変わっていた。


 一方萌絵の方も、時間を空けて三度ほど日向ひなたからの不在着信があった後、同じくMINEのメッセージが並んだのだが。


『萌絵~。妹ちゃんから聞いたけど、流石に早くない?』

『っていうか、もしかしてもう二人は恋人になってイチャイチャしちゃってる?』

『まあそれならそれでいいけど。まあ二人の事だしいきなり同じベッドで~、な~んてのは無理かな? とりあえず恋仲になったならキスのひとつもしてくること! そうじゃないなら変な事はしちゃダメだからね! あとあまり諒君を困らせない事!』

『明日戻ったらしっかり聞かせてもらうから、帰ったら連絡入れてね。じゃ。お幸せに~』


 兄の反応の無さに焦る香純かすみとは異なり、早く恋人になっちゃいなさいと言わんばかりのメッセージだった。


  ──これ、絶対に勘違いさせたよな……。


 バツの悪そうに頭を掻く諒に。


  ──もうこれ、決めつけてるでしょ……。


 連絡を取った後の日向ひなたの猛攻を容易に想像し、少しげんなりする萌絵。


「これ、一旦連絡入れたほうがいいかな?」

「そうだね」


 二人は思わず苦笑を交わすと、一旦互いに部屋の反対の隅に立ち、それぞれの相手に電話を掛け始めた。


* * * * *


 あれから二十分程。


「ふぅ……」


 疲れ切ったようにバタリとベッドの上に大の字になった諒に、


「諒君大変そうだったね。ご苦労さま」


 萌絵は反対のベッドの横に腰を下ろし、そんなねぎらいの言葉を掛けた。


 二人は先程やっと電話を終えたのだが、その内容は互いに気疲れが半端ないものとなった。


 諒は開幕。いきなり香純かすみに泣かれた。


『折角二人きりで楽しんでるのに……。私、邪魔しちゃってるみたいで。凄く嫌な子になってて。おにい、本当にごめんね……』


 涙声でそう語る彼女に、電話に出られなかった理由を説明し、謝り、慰めの言葉を繰り返し掛けてやり、やっと妹の気持ちを落ち着けられたのだが。

 香純かすみの裏にある恋心を知らぬ兄は、今までに経験しなかった展開に、ただ戸惑うばかりであった。


 萌絵と日向ひなたといえば、これはこれで大変で。


『で? で? 今何処まで進んでるの? 手を繋いだ? あ、それともキスしちゃってたりして? それに貸し切りの温泉でしょ? 一緒に入った? もうそこから諒君が興奮してがばーっと襲われてあんな事やこんな事──』

「してません!」


 勝手に盛り上がる彼女を真っ赤になりながら一喝し、逆に説教をすることになる。

 勿論、一部には事実だった内容もあるものの。そこは敢えて話さず押し通したのだが。ある意味これはこれで疲れ切る展開だった。


「でも、萌絵さんもかなり疲れてるよね。日向ひなたさん、相変わらず?」

「うん。勝手にば~って盛り上がっちゃって、ある事ない事話すんだもん。思わず怒っちゃった」


 横目に諒にそんな言葉を掛けられ、やり取りを思い出したのか。思わず呆れ笑いを浮かべる萌絵に、諒もまた


「お疲れ様」


 そんな優しい言葉を掛けた。

 二人はお互いにふっと微笑み合ったのだが。萌絵は少し天井に視線を向けると、少し足をぷらんぷらんとしながら。


「でも香純かすみちゃん。やっぱり羨ましいなぁ」


 突然そんな事を言いだした。


「え?」

「だって、毎日家で諒君と一緒にいられるんだもん」


 確かにその言葉は、今の萌絵にとって憧れる環境だが。現実にその立場にある諒はそれを聞くと、苦笑いをして同じく天井に顔を向けた。


「まあ、そりゃ兄妹きょうだいだからそうだけど、別に良いことないよ」

「そうかな? 私だったら、大好きなお兄ちゃんの側に居られて幸せだと思うけど」

「いやいや。香純かすみはそんな事思ってないよ」

「そんな事ないと思うけどなあ」

「どうして?」


 香純かすみを擁護する言葉に、思わず萌絵の顔を見ると、彼女は羨望の眼差しで見つめ返してきた。


「だって。小さな時から沢山守ってもらって、気を遣ってもらってるでしょ? 辛いこともいっぱいあったかもしれないけど、きっと諒君がいたから、今の香純かすみちゃんは笑えてるし、幸せなんだと思うよ」

「それはそうかもしれないけど……それだけだよ。萌絵さんに告白された話をした時だって、『今まで彼女すらいたことないおにいが!?』って馬鹿にされたし……」


 ふとあの時の事を思い出し、少しだけ不満げに口を尖らせる諒。その表情が珍しかったのか。萌絵はくすっと笑う。


「そういう所も仲が良い証拠じゃない?」

「そうかな?」

「うん。それにもしかしたら、今まで諒君に告白した子がいなくて、当たり前にお兄ちゃんを独占できてたのに、突然ライバルが現れて、本気で驚いちゃったのかも?」

「ライバルって……」


 萌絵の女の直感は、しっかりと的を射ていた。

 しかし、それが分からないのが身近すぎる男。


 彼が思い返してみても。

 ゲームで遊んだり、一緒に買物したりと仲良くはするが。その馴れ馴れしさはあまり異性扱いされている気はせず、何かとふざけて小馬鹿にしてくるイメージしかない。


「やっぱりないよ。男扱いされている感じもしないし」

「そうかなぁ? でもボウリング場で、私が勢いで抱きついちゃった時の嫉妬っぷりは、間違いなくお兄ちゃんを取られたくない妹って感じだったけど」


 顎に指を当て少し考えつつ、そんな話をする萌絵だったが。とはいえ本当に香純かすみが兄を慕っているとまでは思っていないのか。ふっと笑うと彼に悪戯っぽい笑みを向けた。


「明日旅行が終わったらはまた香純かすみちゃんに諒君取られちゃうし。それまではしっかり諒君を感じさせてもらおうっと」

「それはいいけど、そろそろ良い時間だし、明日もあるから寝よっか?」

「うん。そうだね」


 気恥ずかしさを隠すように諒がそう切り出すと、彼女も頷き。

 そのまま二人はそれぞれのベッドに潜り込んだ。


「部屋の電気は暗くしたほうが良い?」

「ううん。暗いのはちょっと怖いから、少し明るいほうが良いかな」

「じゃあ、サイドテーブルの電気だけ付けておくね」

「うん。お願い」


 諒がサイドテーブルにある竹編みに和紙を付けたテーブルランプの灯りを付け、リモコンで部屋の電気を消すと。淡い光が二人の側だけを柔らかく照らす。

 二人は互いに向かい合うように横向きになると、ふっと笑みを交わし。


「じゃあ萌絵さん。おやすみなさい」

「おやすみなさい。諒君」


 互いに少しだけ恥じらいながら挨拶を交わすと、そのまま静かに瞼を閉じた。

 ……諒だけが。


 気疲れもあったのだろうか。

 そのまますぐ静かな寝息を立て始めた彼の寝顔を、萌絵はとても幸せそうな笑みで見つめる。


 部屋が暗いのが怖いというのは嘘だ。

 普段の彼女は寝付きやすいよう、部屋を真っ暗にして寝ている程。

 今日こうやって、灯りを残してもらったのは唯一つ。


 少しでも長く、彼を見ておきたかっただけ。


  ──きっと、いっぱい気を遣ってくれたんだね。


 そんな彼を知っているからこそ、気を遣いすぎないでほしいと口にするのは辛かった。

 だがその言葉にも、諒は応えてくれようとした。


 自分のわがままも受け入れてくれて。

 沢山優しい笑みを浮かべてくれる。


 そんな優しく思いやりのある彼を、側で見ていられる幸せを噛み締めながら。


「ありがとう、諒君」


 そう呟いた彼女もまた、ゆっくりと瞼を閉じ。まどろみにいざなわれていくのだった。

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