第十三話:花より男子

 夜も随分と深まった頃。

 諒は一人、部屋に隣接する温泉に浸かり、檜の浴槽にもたれかかりながら、天を仰いでいた。


 直ぐ側には名物である桜がひらひらと花びらを散らし。雲ひとつない満天の星空に浮かぶ満月と共に、ひとつの風景として収まるように存在している。


 鏡桜かがみざくらとはまた違う風情を感じさせる景色がそこにはあるのだが。当の本人は、それを堪能する余裕もなく、動揺する心を落ち着けるのに必死だった。


「諒君……」


 と。

 温泉と部屋の境に用意された、カーテンで仕切られた更衣室から、弱々しい自信なさげな萌絵の声が届くと、彼は思わずドキリとした。

 見れば、入り口から顔だけを出した萌絵が、不安と羞恥をあらわにこちらを見つめている。


「もう、そっち行っても、いい?」

「う、うん……」


 互いに緊張した声で、言葉を交わした後。

 彼女は白いバスタオルに身を包み、姿を現した。


 穢れのない白い肌に、バスタオル越しにも分かる、整ったスタイルの良い体型。

 あまりに刺激的な光景に、諒は思わず赤くなると、気まずそうに視線を逸らす。


 彼の反応に、これまた顔を真っ赤にして俯いたまま。萌絵はゆっくりと湯船までやってくると、しゃがんで側にあった木桶を手にし、身体に二度、湯を掛けた。


「や、やっぱりバスタオル、取ったほうがいいよね?」

「あ、その……。ま、任せるよ……」


 マナーを気にした言葉に、彼が気の利く言葉など返せるわけもなく。

 その言葉を受けては、彼女も自分で判断するしかなく。


 羞恥心が高まりすぎた萌絵は、ぎゅっと目をつぶった後、ついに覚悟を決めると、はらりとバスタオルを外した。

 その下から出てきたのは……赤いビキニの水着姿。


「あの……どう、かな?」


 ゆっくりと足を湯に浸けながら、かき消えそうな恥ずかしそうな声で、萌絵が聞いてくる。

 見てはいけない気持ちと、見なければいけない気持ちの狭間に揺れながらも。諒も英断して彼女の姿を少しだけ視線で追うと。


「う、うん。凄く、似合ってる」


 一瞬唾を呑み込んだ後、すぐに視線を湯船に落とすと、少しうわずった声でそう応えた。


 恥じらいが恥じらいを加速させたのか。

 その言葉に萌絵は顔をより紅潮させると、そそくさと湯船に入り、彼の脇に腰を下ろす。

 諒もまた、下にはサーフタイプの水着を履いている。

 とはいえ、細身の割に筋肉質な彼の身体が近くで目に留まり。自身の姿と相成り、限界に達したんだろう。


「やっぱり、恥ずかしい……」


 思わず両手で顔を覆う萌絵に。


「だよね……」


 諒はまたも天を仰ぐと、側に置いていた小さな濡れタオルを目の上に乗せ、困ったような表情を隠した。


* * * * *


 元々、諒は別々に入ることを提案したものの。やはり部屋に一人にされるのが少し不安だった萌絵が、できれば一緒に入りたいと願い出たのがきっかけだったのだが。

 とはいえ二人は恋人でもなく、まだ学生。流石に裸という訳にもいかない。


 そこで、この事を神楽夫妻に相談した所、客の要望に応えるために、旅館の地下にある衣類や下着などを売っているブティックで、水着を買えば良いとアドバイスを受けたのだ。


* * * * *


  ──うぅぅ……。


 萌絵は後悔していた。


 何時かはこういう経験をしたいと思っていた事が、今日は沢山叶った。そのせいで浮かれ過ぎてしまったのも否めない。

 だが。流石にこれはやり過ぎだったと。


  ──私、ただの破廉恥な女の子じゃない……。


 恥ずかしさと反省から、困ったように俯き、彼に視線すら向けられない萌絵。

 諒もまた、彼女と同じく少しの間言葉を発しなかったのだが。目に当てていたタオルを取りちらりと彼女に目を向けた先で、しょんぼりとした横顔を見せる萌絵に気づき、すっと姿勢を正した。


「萌絵さんって、何でその水着選んだの?」


 突然の彼の質問にはっとするも、顔を上げられない彼女は、情けない気持ちで短くこう応えた。


「その、安かったから……」


 地下のブティックは品揃えは豊富だったが、そこは流石に桜心館おうしんかん。置かれていた物の価格が半端なかった。


 二人共手持ちにそこまでの余裕はなく、宿泊のための下着類も購入せねばならなかった為、一緒にいた神楽夫妻のご厚意に甘え、立て替えてもらう事にしたのだが。

 流石に手が出ない価格のものを選ぶ勇気は持てなかったのだ。


「やっぱり。俺もそうなんだ。高いのばっかりだったし、お年玉残してあるけど、油断したらすぐ吹き飛んじゃいそうでさ」


 先程まであれほど恥ずかしげだった諒の自然な返しに、萌絵は不思議に思い顔を向けてしまう。

 こちらに視線を向けることなく、顔を正面に向けたまま、未だ困ったような笑みを浮かべる諒。

 だが、表情は何か割り切れたかのように、自然な笑みを見せていた。


「でも。謙蔵さん達には本当に感謝しないとだよね」


 諒がくるりと身を捻り、うつ伏せ気味に湯船のへりに両手を突くと、


「ほら」


 ちらりと彼女に視線をやり、頭上の桜を指差した。


 同じ姿勢を取り桜を見上げた萌絵の目に映る、夜桜に、満月に、星空。

 そこに広がる素敵な光景にやっと気づき、思わずその綺麗さに目を奪われる。


「こんな景色を温泉から見られるなんて、今までに経験した事なかったよ」

「うん。凄くいい景色だよね……」


 桜に見惚みとれる彼女にちらりと視線をやった諒は、少し安心した顔を見せる。


「でも。この景色を一緒に見られるのは、萌絵さんのお陰」

「え?」


 突然の言葉に、思わず彼を見ると、互いの視線が自然と重なる。


「だって萌絵さんが恥ずかしさに負けず誘ってくれたから、一緒に入ってるんだよ。俺からなんて、絶対言い出せなかったよ」


 屈託なく笑う諒に、萌絵は気づけば少しの間、ほうけるようにじっとその顔を見入ってしまう。

 側にある風情ある夜桜も魅力的だが、残念ながら、彼に敵うはずがない。


「勇気を出してくれて、ありがとう」


 耳元に届く優しい言葉と向けられた微笑みに、ふっと彼女も笑うと、こんな事を口にした。


「なんか諒君。この間より、少し頼もしい気がする」

「え? そうかな?」

「うん。皆で一緒に遊んだ時、私の名前を呼ぶのも何処か恥ずかしそうだったし」

「そりゃ、学年でも人気の萌絵さん相手だよ。恥ずかしいに決まってるよ」


 あまりに露骨な諒の褒め言葉に少し恥じらいつつも、彼女は言葉を続ける。


「でも、今日は何ていうか、前より地に足付いている感じがするんだよね」

「え、あ……。そう、かな?」


 確かに。二人っきりだった今日、彼は以前より自然体でいられていた。

 実際、今だって恥ずかしい。だがそれでも、それを割り切り、雰囲気が悪くならないよう動けているのも彼らしさ。


 心当たりは、ある。


  ──まあ、香純かすみ日向ひなたさんに振り回された時に比べたら……。


 諒は、そんな心当たりを言葉にはせず、少しだけ苦笑した。


 今日の萌絵も、何かと積極的ではあった。


 だが。腕に絡みつき、身体を押し付けられ。あまつさえキス寸前のプリクラを撮られたのに比べたら、ちゃんと友達としての距離がある分、気持ちが楽だったのは事実だ。


 流石にその話を彼女に話せる訳がない。

 しかし。タイミングがいいのか悪いのか。

 萌絵はふと、昨日日向ひなたと連絡を取り合っていた時の事を思い出した。


「あの、もしかして……日向ひなたかな?」


 まるで心を読まれたかのようなタイミングに、諒は心臓が止まりそうなほど、ドキッとすると、


「え? どうして? 何か聞いたの?」


 動揺を何とか誤魔化し、思わずそう問い返していた。


「うん。数日前に諒君と香純かすみちゃんに偶然会って、一緒に買い物できて凄い楽しかったって話してたんだけど。もしかしてその時に私の事、何か聞いたりしたのかな……って」


 答えを聞き、仮想恋人の話題まではされていなかったかと、内心胸を撫で下ろす諒。


「う~ん、特に萌絵さんの話はなかったよ。相変わらず香純かすみ日向ひなたさんは仲良さそうだったけど」

「そっか。彼女、また迷惑かけるような事言わなかった?」

「全然。寧ろ優しかった位。きっと萌絵さんがボウリング場でしっかり言ってくれたからだね」

「そんな事ないよ」


 彼の表情から褒められたのを感じ、嬉しそうな顔をし、萌絵は首を振った。

 と、今度はその話題から、諒の方がある事を思い出す。


「そういえば、あの日の萌絵さんもしっかりしてたよね」

「え? どうしたの急に」

「いやだって。名前で呼び合う事になって二日目だったのに、凄く自然に名前呼んでくれてたから」

「あ……あれは……。友達になってもらえて、心のつかえが取れたから、かも」

「そっか。萌絵さんはそういう所、人馴れしてるよね。羨ましいな」

「そ、そんな事ないよ」


 少しだけしどろもどろになりつつ、何とか誤魔化した萌絵だったが。


 言えない。言えるわけがない。

 友達となったあの日から、必死に諒の名を呼ぶ練習をしていたなどとは。


「さてっと」


 丁度会話が途切れた所で、諒は立ち上がると、彼女を笑顔で見下ろした。


「身体洗うの邪魔になるし、逆上のぼせちゃってもいけないからそろそろ出るね」

「あ、うん」

「じゃあ、ごゆっくり」


 魅力的な笑みを残し、更衣室に向かう彼の背中を名残惜しそうに見つめていた萌絵は。彼が部屋に消えたのを見届けると、大きく息をき、緊張感から解き放たれたように力を抜くと、そのまま赤らめた顔を誤魔化すように、半分湯船に沈める。


  ──もう。諒君の事、どんどん好きになっちゃうよ……。


 ちょっとした事すら優しさに繋げ、笑顔で癒してくれる魅力的過ぎる初恋の相手に、彼女はくらくらする頭を必死に落ち着けようとするのだった。


* * * * *


 一方。

 更衣室で浴衣に着替えた諒は、頭にタオルを被ったまま、部屋の隅にある一人がけのソファに深々と座る。


  ──萌絵さん、可愛かったよな……。


 まだ恋人に、などという自信はない。

 だが一人の男子として、その魅力だけは強く刻まれたのか。


  ── 「あの……どう、かな?」


 瞬間。目に焼きついた赤いビキニ姿を思い出してしまった彼は、顔を真っ赤にしたまま、まるで煩悩を振り払うように、タオルで必死に頭を乾かすのだった。

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