第九話:善には善の報いあり

 諒と萌絵を落ち着けた後。

 四人はそのまま、ややゆっくり目のペースで公園を離れ、神楽夫婦の滞在する宿泊施設に向かった。

 それは公園から少し歩いた、非常に近い場所にあったのだが……。


「あの……ここって確か……」


 萌絵はまたもぽかーんとした顔で、石段の前から目の前の建物を見上げ。


桜心館おうしんかん……」


 諒もまた、呆然としながらその名を口にしてしまう。


 桜心館おうしんかん

 それは、桜ヶ丘さくらがおか深緑公園しんりょくこうえんの側の高台にある、高級旅館である。

 テレビでも度々取り上げられるこの旅館は、この場所で最も格式高い旅館で有名である。

 宮大工の技術を取り入れた素晴らしい和風建築だけでなく、桜の樹を堪能しながら露天風呂に入れる一泊十万じゃ下らない豪華な部屋や、食事、サービスなどで有名であり。一般人では簡単に宿泊するのもはばかられるような高級な宿なのだ。


「そんなに驚くほどでもないよ」


 そんな建物を前にしても、余裕を感じる謙蔵の言葉と神楽夫婦の微笑みは、庶民である二人とは対象的に、富裕層そちらの世界の住人だと、改めて認識させられる。


「でもごめんなさいね、あなた。久々にゆっくり色々見られるって喜んでらしたのに」


 旅館を前にした一恵は、ふとそう言って申し訳無さそうに謙蔵を見る。


「な〜に。当分こっちにいるんだ。また来れば良いだろう?」

「ですが、やっといただけた休みでしょう?」

「気にするな。二人でゆっくりできるだけで充分だよ。それじゃ行こうか」


 気落ちする一恵を慰めながら、謙蔵は優しい笑みを向け彼女を促す。

 そんな二人のやり取りを見ていた萌絵は、ふと脇にいる諒の表情がまた変わったのに気づく。


  ──諒君は、きっと……。


 二人に向けられし彼の視線に、彼女は誰に向けるでもなく小さく頷くと。神楽夫婦に続き、諒と共に旅館の玄関を潜った。


「お帰りなさいませ、神楽様。お早いお戻りですね」


 そう言って出迎えたのは女将と従業員。

 彼等は玄関で深々と頭を下げる。


「妻が足を痛めてしまってな。今日は観光はここまでに──」

「あの、すいません」


 謙蔵が女将に状況を説明しようとした矢先。

 その言葉に割って入ったのは諒だった。


「車椅子をお貸しいただくことはできませんか?」


 真剣な表情で尋ねられ、女将が一瞬不思議そうな顔をする。


「ええ。それは構いませんが……」

「あと、車椅子でも観光できそうな場所が書かれているパンフレットなどありませんか?」

「あ、はい。ご用意できますが……」


 答えを返した女将に、続け様に質問を投げかけたのは萌絵。

 諒が思わず彼女を見ると、視線に気づきにっこりと微笑む。


「諒君なら、こうするなって思って」

「……うん。ありがとう」


 意図を察し微笑み返す彼だが。神楽夫婦はそんな二人の行動に、はっきりとした戸惑いを見せていた。


「諒君。萌絵ちゃん。一体何を……」


 謙蔵の声に二人は振り返ると、諒が真剣な顔で口を開く。


「謙蔵さん。一恵さん。折角です。今日はもう少し観光しましょう」

「え? だけどこの足で出掛けるなんて……」


 思わず自身の足を見て、少し気後れする一恵に、諒は安心できるよう笑みを見せた。


「はい。本当はよくありません。ですが、車椅子なら負担もかからないでしょうし、自分達が付いて回れば、何かあってもまた手当できると思います」

「だが、それじゃ折角の二人の旅行が……」

「私達は日帰りで散歩に来ただけですし、お二人に付いて回れば色々見て回れますから。まだ時間もありますので」


 謙蔵の戸惑いの言葉にも、萌絵が笑顔でそんな気遣いを口にする。

 若者二人の行動力と言葉に、思わず圧倒される神楽夫婦は、顔を見合わせて少し困った顔をする。


「あなた、どうします?」

「ううむ……」


 厚意を受ける事は簡単かもしれない。

 しかし、それは本当に諒達の邪魔にしかならぬだろうと思ってしまう。

 そんな悩みを顔に見せる彼等に、諒と萌絵は真剣な表情を見せた。


「先程旅館に入る前に言っていましたよね。折角の休み。ゆっくり色々見られたはずって。だったら、悔いは残さないほうがよいと思います」

「勿論私達がお邪魔かもしれませんけど……。もしこちらにお気遣いいただいているなら気にしないでください。これも折角のご縁ですから」


 諒と萌絵は、思い思いにはっきりと本音を口にした。

 凛とした二人の真剣な瞳。その素直すぎる視線に、彼等は少しだけ呆然とする。


  ──久々だな。こんな目を向けられるのは。

  ──本当に、純粋なのね。


 経営者とその妻として、多くの者を相手にしてきた謙蔵と一恵。

 様々な思惑、打算、機嫌取りなど、決して綺麗事で済まない者達ばかりを相手にしてきた二人にとって、若き彼等の視線はとても眩しく、暖かく感じる。

 夫婦は改めて顔を見合わせたあと、ふっと笑みを浮かべると、愛おしそうに彼等を見た。


「まったく。血は繋がっていないというのに、こういう所はしっかり父親譲りなんだな。諒君は」

「そ、そうですか?」

「ええ。萌絵ちゃんも、ちゃんとそんな彼の優しい性格を分かってるのも、素敵だわ」

「そ、そんな事……」


 掛けられた褒め言葉に、軽く視線を交わした二人は肩をすくめ、恥ずかしそうにする。

 彼等の初々しさに、ふと若き日の自分達を重ねたのだろうか。無意識に優しい目を向けた二人は。


「では、老若男女でダブルデートと洒落込もうか」


 謙蔵のそんな言葉と共に、楽しそうな笑みを浮かべるのだった。


* * * * *


 四人は、それから色々な場所を巡った。


 途中に見つけたステンドグラスの写真立てを作る体験が出来る工房。

 温泉まんじゅうや上生菓子が美味しい甘味処かんみどころ

 これまた綺麗な桜が咲き誇る、桜ヶ丘さくらがおか神宮じんぐう

 街を一周する人力車など。


 それらはどれも、とても魅力的で、四人の心に残る楽しい一時ひとときだった。


 だが、何故楽しい時間とはこうも無情なものなのだろうか。

 あっという間の一時ひとときは、気づけば彼等を夕闇にいざなっていた。


* * * * *


 時間も夕方五時半を回り。夕日が山陰に沈み始めた頃。

 四人は再び、桜心館おうしんかんの玄関前に戻って来ていた。


「いやぁ。年甲斐もなく楽しませてもらったよ」

「父さんのお世話になった方とはいえ、わがままを押し付けお邪魔してしまいすいません」

「何言ってるの。お二人がいたから楽しめたのよ。せめてお金くらい出させてくれればよかったのに」

「こちらが勝手にさせていただいた事ですから。お気になさらないでください」


 四人がそれぞれ言葉を交わすと、ふっと笑みを浮かべる。

 と、一恵が膝の上で手をぽんっと叩いて謙蔵を見あげた。


「そうだ、あなた。せめて夕食くらい一緒にいただいてもらっては?」

「ああ。それは名案だな。どうだい二人共?」


 嬉しそうにそう提案した神楽夫婦だったが。それを聞き、諒と萌絵は一度顔を見合わせると申し訳無さそうな顔をした。


「あの、お気持ちは嬉しいのですが。私達、ここから電車で一時間以上家まで掛かっちゃうので、そろそろおいとましないと……」


 おずおずと萌絵が口にすると、一恵がきょとんとする。


「あら、そうなの? 夜の鏡桜かがみざくらとか、見てないんでしょう?」

「はい。ですがあまり遅いと自分の親も、萌絵さんの親も心配しますし……」

「明日用事でもあるのかい?」

「そういう訳じゃないんですが……」


 謙蔵の声に申し訳ない顔で返した諒に対し。少し……いや。はっきりと残念そうな顔をしたのは萌絵だった。


  ──家に帰ったら、諒君との二人きりの時間も、終わり……。


 確かに諒の望みを叶え、彼といることを楽しんだ。

 神楽夫妻が一緒だったとはいえ、それこそ経験していない色々な事も経験し、諒を沢山感じる事ができた。

 これはとても贅沢な時間であり、友達であってもこれ以上望むものはないほど。


 だが。気持ちは簡単に割り切れる程甘くはない。

 己のわがままだと分かっているが。別れが近づくのはやはり、寂しいもの。


 そんな本音を裏に秘めた表情に、謙蔵と一恵はぴんとくると、互いに視線を交わす。

 何も言葉は交わさない。

 だが、それこそが長年連れ添った夫婦故の呼吸。


「そうか。だが何も礼を返さないのは我々としても不本意だ。だから、ひとつこちらの申し出を受け入れてほしいんだが……」


 謙蔵が凛とした顔で二人を見ると、脇で車椅子に乗った一恵も、同じように真剣な眼差しを向ける。

 何処か空気が変わった二人に、諒と萌絵は少し困ったような顔をするも、まだその申し出を聞いていない。


「あの、どんなお話ですか?」


 諒が謙蔵に尋ねると、彼は真剣な顔でその提案を伝えたのだが。

 その瞬間。


「「……えぇぇぇぇっ!?」」


 二人は目を丸くし、飛び上がるほどの驚きを見せたのだった。

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