第四話:すれ違いつつも、同じ気持ちで
規定時間の三十分を過ぎ。
ゆっくりと互いに足を水槽から出した二人は、丁寧にタオルで足を拭き始めた。
「何かお肌少しつるつるしてる」
「本当だね」
萌絵が自分の足の滑りを確かめるようにすっと手で触ると。釣られて諒も自分の足の肌さわりを確かめる。
確かに、間違いなくその肌触りの変化を二人ははっきりと感じることができた。
「角質をちゃんと食べてもらった証拠ね。あ、あとこちらをどうぞ」
「「え?」」
突然やってきた女性が、すっとテーブルに置いたもの。
いつ撮影されたのか。それは二人が少し顔を赤らめつつ、笑顔を交わしている瞬間を捉えた、インスタントカメラの写真だった。
「カップルの方にサービスでお渡ししてるのよ。是非貰ってね」
「え!? カ、カップル!?」
憧れの言葉を口にされ、萌絵は顔を真っ赤にしてもじもじとしてしまい。
「あ、その。違うんです。友達なだけで。だから、撮ってもらう資格もなくて」
諒は必死に手を振りながら、必死にそれを否定する。
「あら? そうなの? お似合いに見えたけど」
先程から初々しさばかり見せる二人の反応が面白いのか。茶化すように女性が笑う。
「まあ、撮影しちゃったものは戻せないから。折角だから記念にどうぞ」
そう言われた二人は恥ずかしげな表情のまま、互いに顔を見合わせる。
「じゃあ、ご厚意に甘えておく?」
「う、うん……」
恥じらいつつも、彼女は嬉しそうに頷いた。
だが。そこにある写真は勿論、一枚だけ。
「これ、萌絵さん貰ってくれる?」
「え? いいの?」
「うん。二人だけが入った、初めての写真だと思うし」
ずっと自分を見ていてくれた萌絵の記念になるのではと、諒が気を遣った台詞だったのだが。
──「二人だけが入った、最初の写真だと思うし」
そんな彼の言葉が、心に木霊し。
──初めて……だよね……。
初めて一緒に映る写真が手に入る喜びに、思わず彼女は恍惚としてしまう。
動きを止めた萌絵に、諒はその理由が分からず、思わず困ったような顔で女性の方を見る。だが、彼女の視線は「気づいてないの?」と言わんばかりの悪戯っぽい笑み。
そんな彼女の意味ありげな表情に、彼ははたと気づいた。
──あ……。そりゃ、急に写真押し付けられても嫌か……。
……いや。気づいていなかった。
残念ながら、萌絵がずっと浮かれているのと同じ位、諒はとにかく彼女がこの散歩で気分を害さないよう気を遣ってばかりいた。
だからこそ、こんな些細な反応ですら不安を掻き立てられ、彼女の想いと異なる感想を持ってしまう。
「あ、ごめん。急に押し付けられてもだよね」
申し訳無さそうに、彼がすっと写真に手を伸ばそうとすると。
「そ、そんな事ないの!」
はっとした萌絵は、慌ててその手を遮るように、まるでかるたを抑えるかのような勢いで先に写真に手をかけた。
だが、それは偶然か。必然か。
写真を取りかけた諒の手と手が思わず重なってしまい。
「あっ!」
瞬間。萌絵が恥ずかしげなか細い声を上げてしまう。
「え? あ、ご、ごめん!」
彼はその反応に慌てて手を引っ込める。
これもまた、彼女が嫌がったものと感じての咄嗟の行動だったのだが。
──りょ、りょ、諒君の、手……。
萌絵は、瞬間ぽんっと一気に顔を真っ赤にし、写真に手をかけたまま、僅かに身を震わせ、俯いたまま動かなくなった。
手が触れただけなのに。
感情に流されただけではあったが、彼と抱き合った事もあるのに。
彼女はその僅かな刺激だけで、たまらなく嬉しく、そして恥ずかしくなる。
二人のあまりの反応の違いに、女性は思わず吹き出し。奥にいたマスターも。彼等のやり取りが面白く映る他の客もまた、思わず微笑ましい顔で二人を見てしまう。
誰もがこの時、はっきりと感じた。
惚れているのは彼女だと。
何処か温かく二人を見守る空気が店内に生まれる中。
あまりに浮かれる彼女の一つ一つの反応に、未だ戸惑いが隠せぬまま。唯一取り残されたように、諒だけが僅かに表情に陰を見せてしまっていた。
* * * * *
「ご
「いえいえ。また是非来てね」
レジで会計を済ませ諒が会釈すると、女性も笑顔で頭を下げる。
「ありがとうございました」
店主もまた笑顔で彼等に声を掛けると、二人はそちらにもぺこりと頭を下げ、店を後にした。
諒に続いた萌絵だったが、未だに恥ずかしそうに、顔を真っ赤にして俯いたまま。
その理由は、あの写真のやり取りの後にあった。
何とか心を落ち着けた萌絵は、彼と共に会計の為に席を立ったのだが。
「ちゃんと手放さないようにね」
すれ違いざま、女性に耳元でそう囁かれてしまったせいだ。
勿論、その言葉の意味を知っているからこそ。
「は、はい……」
小さくそう返事をし、顔を真っ赤にしてしまい今に至るのだが。
結局、その気恥ずかしさのせいもあって。会計で諒にここは奢ると言われた時も、しどろもどろになってしまい、その厚意を受けることしかできず。
恥ずかしいやら。情けないやら。
複雑な表情で俯いてしまっていた。
「そ、その。ごめんね。お金出させちゃって」
流石に良心が痛んだのか。諒と並んで歩く萌絵が、横目でちらりと諒を見ると、こちらもまた、申し訳無さそうな顔をした。
「それはいいよ。それよりこっちこそごめん。色々恥ずかしい思いさせちゃって」
「え?」
「あの時くすぐったいのとかで凄く恥ずかしそうにしてたし。写真の時も手とか当たっちゃって驚かせちゃったし。俺があそこを選んだからだよね。ごめん」
彼の気落ちしたような表情を見て、萌絵ははっとすると。
「そんなの全然気にしなくていいよ。私も貴重な体験できたし、楽しかったから。本当だよ?」
慌ててそんな本音を口にしながら、やっとそこにあった想いに気づいた。
──諒君、色々気にしてくれてたんだ……。
あの時浮かれていた彼女は、諒の気持ちに気づけなかった。
今思い返せば、彼はどこか壊れ物を大事に扱うかのように、ちょっとした事でも気にしてくれていたと、はっきりと分かる。
──「俺はそれこそ人と距離を置こうとするだけの、全然ダメな奴なんだなって」
そう自嘲してしまう、自信のない彼だからこそ、こんな風に謝ってしまうのだろう。だが、それでも逃げはせず、一生懸命に気を遣いながら側にいてくれている。
──大事に、してくれてる……。
それは嬉しい感情。
だが。
──でも、凄く気も遣わせてる……。
そんなもうひとつの感情が、心にちくりと刺さる。
思わず視線を地に伏せ、すこしだけ切なげな表情を浮かべる萌絵。
諒は、それを見逃さなかった。
──やっぱり、迷惑掛けてるよな……。
そんな不安が募る。だが同時に。
──「あのね。二人で逢うってことは、二人で楽しむ事を前提とすべきなの」
妹が教えてくれたその言葉が、胸に蘇る。
そう。
楽しまなきゃダメ。
楽しませなきゃ、ダメ。
──……疑っちゃダメだよな。萌絵さんは楽しいって言ってくれるんだから。
諒は心苦しい気持ちを心の奥にしまい。ぐっと不安を奥歯で噛み殺すと。
「次、何処入ろうか?」
自然にそう、笑いかけた。
彼女を楽しませるため。そして、自分が楽しむため。
萌絵は、そんな彼の笑みを見た瞬間。またも心が熱くなる。
だがそれは、先程までの熱烈な情熱ではなく。そこにある優しさを感じた柔らかな温かさ。
──……そう。今は、諒君といるんだもん。
彼女は諒が
だが何故だろう。本能か。それとも願望か。
自然と心に思った。彼と楽しまねば、彼に悪いと。
「じゃあ、あそこなんてどうかな?」
諒に微笑み返した萌絵は、周囲を見回すと、
「絵にある景色見つけたら面白そうだもんね。行ってみようか?」
「うん!」
互いに、ほんの少しだけ肩肘張って。
互いに、それでも楽しそうに笑みを交わし。
──楽しまないと。
──楽しまなきゃ。
心からそう思った二人の心の温度差は。
熱を上げ。熱を下げ。その差を埋め、近づけながら。
二人はゆっくりと、新たな楽しみに向け、歩き出すのだった。
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