幕間:初恋の想い出より恥ずかしいもの

 諒と友達となった日の夜。


「ご馳走様!」


 私服姿のまま家で晩御飯を済ませた彼女は、未だ食べ終わっていない両親への挨拶もそこそこに。食べ終えた食器を流しに持っていくと、鼻歌を歌いながらそれらを洗い始めた。


「なあ母さん。萌絵に何かあったのか?」


 唐揚げを飲み込んだ父親の不思議そうな問いに。


「わかりませんけど、随分とおめかししてたから、何かあったのかもしれないですね」


 母親はそう言って、淡々とサラダを口に入れた。


 昼にマンションに帰ってきて以降。萌絵はいつになく笑顔で買い物に付き合い、帰ってきてご飯の支度を手伝い。そして今も溢れ出るご機嫌っぷり。

 彼女がここまで機嫌がいい事が、最近あった記憶がない。それほどの浮かれっぷりを、両親もはっきりと感じ取っていた。


「も、もしかして、男か?」


 少しだけ不安そうに小声で囁く父に。


「それならそれで、良いじゃないですか?」


 逆に微笑む母。

 そんな二人を他所に。


「お風呂入れておくね!」


 洗い物をを終えた萌絵はそう手短に声をかけると、更衣室の入り口付近のパネルで給湯を開始させると、そのまますたすたと自室に入って行く。


「……やっぱり、男なのか?」


 娘に彼氏ができたのか。

 父親が信じられないといった顔をするも。


「父親ならしゃんとなさい。あの子だってもう年頃ですよ?」


 呆れた顔でそう返した母親は、変わらず淡々とご飯を食べ進めるのであった。


* * * * *


 自分の部屋に戻った萌絵は、扉を閉め勢いよくベッドに転がって仰向けになると、ポケットからスマホを取り出し素早くロックを解除しMINEを起動する。


 勿論開いたのは諒とのタイムライン。

 昼に交わしたお礼だけがあるその画面を開いて早々、彼女は素早く設定画面を開くと、迷い事なく背景にとある写真を選択した。


 設定後、タイムラインの背景に映し出されたのは、諒の画像だった。

 彼が中学三年の体育祭でリレーのアンカーを任され、バトンを受け取ってまさに走りださんとする躍動感ある一枚。


 これは、彼女が直接撮影した写真ではない。

 中学の卒業アルバムの一枚に選ばれていた写真を、彼女がスマートフォンで撮影したものだった。


 じっとその画像を見ている内に。

 彼女の顔は緩み、赤くなり。気づけばほうけていた。


  ──友達に……なれたんだよね……。


 MINEの彼とのやり取りを見返しつつ、改めてその事実を噛み締めた萌絵の心が、とても温かで、幸せな気持ちで満たされていく。


 夢じゃない。

 その事実が、今までずっと見ているだけだった日々を振り返らせる。


 中学。小学。そして、幼稚園。


  ──がなかったら、私……どうなってたんだろ?


 過去をさかのぼる内に、ふとそんな疑問が心に過る。


 あの日。

 そう。それは幼稚園での彼女が初めて恋をした日のことだった。


* * * * *


 萌絵は、幼稚園が好きではなかった。

 元々内気で大人しい彼女だったが、当時は少しぽっちゃりとしており、そのせいで周囲の男の子に『仔牛こうしのもーちゃん』などと呼ばれ、からかわれる事もしばしば。


 女の子達はそんな男子達に怒りを見せ、萌絵を庇い、仲良くしてくれたが。

 そんな彼女達に感謝をしながらも、同時に迷惑をかけているという罪悪感もあり。子供ながらに常に申し訳なく思っていた。


 だからこそ。

 彼女は母親が迎えに来るのが待ち遠しかった。


 母がくれば、男の子達に笑われずに済むから。

 母がくれば、女の子達に迷惑をかけずに済むから。


 そんな幼稚園嫌いの萌絵にとって、忘れる事ができない日があった。

 夏が終わり。虫の鳴き声が耳に心地よく届くようになった、九月も半ばを過ぎたある日の事。


 日の入りが少し早くなってきたと感じる夕暮れ時。

 何時もの時間にやってきた母を見て、萌絵は幼稚園の先生達への挨拶もせず、飛び出すように駆け出していた。


 これで帰れる。

 そんな逸る気持ちを抑えられなかった彼女だったが。

 それが空回りしたのか。思わず足がもつれると、前のめりに転んでしまった。


 瞬間。

 強く身体に走る痛みに。


「うわぁぁぁぁぁん!」


 萌絵は思わず、声を上げ泣いた。


「あらあら。萌絵、大丈夫?」


 堪えることも出来ず泣き出した彼女を、母親が心配そうに起こしてやるも。


「痛いよぉぉぉ!」


 その場に座り込み、萌絵は泣きじゃくってしまった。


 と。

 そんな時だった。


「あの。これ」


 突然彼女と母の側に駆け寄ってきた男の子がいた。

 同じ水色の園児服。胸のワッペンは、桃組の彼女とは違う、花組。その表情は、どこか真剣。


 そこにいた彼を、萌絵は見たことがあった。


 名前までは知らない。

 だが、ある時起きた事件が、園内で彼を有名にした。


 金髪の髪を持つ年少組の女の子が髪の毛の事で馬鹿にされ、いじめられていた時。年長にも関わらず、年下の子達の輪に割って入り、相手をビンタして「妹を馬鹿にするな!」と叫んだ少年。


 幼稚園でも問題となったその事件は、彼女をいじめた側にも、そうでない側にも何処か近寄りがたい存在に変え。多くの者が幼稚園でも距離を置くようになった相手だった。


 何故彼がここに現れたのか。

 泣き止んだ理由は、そんな疑問と不安。


 最初見た瞬間は怯えが走った。

 だが、彼が絆創膏を母に手渡すのを見て、何故彼がそんな事をしたのか分からず困惑し。

 母が感謝を込めて頭を撫でたのを、何処か気恥ずかしそうに受け止めた彼が、母の手が離れた後。


「気をつけてね」


 そう言って、とても優しく、眩しい笑みで微笑んでくれた時。萌絵は、子供ながらにとても衝撃を受けた。


 今まで幼稚園で出会った男子は、彼女を小馬鹿にする子ばかり。

 こんな笑顔を向けてくれる男子はいなかった。


 彼はそんな男子より怖いと思っていたのに。実際に見せてくれたのは優しさと笑み。

 それは萌絵の心にしっかりと刻みこまれ。

 その日より、彼が忘れられない存在になった。


 それから。少しでも彼が見えれば目で追ってしまうようになり。早く帰りたいという気持ちより、幼稚園でもっと彼を見かけたいという気持ちが強くなった。


 最初は何故そうしているか分からなかった。

 だが、彼を見る度にドキドキし。だが、組も違うため声をかける事もできず。小さいながらにそんなもどかしさと恥ずかしさを感じていく内に。


 萌絵は、気づいてしまったのだ。

 自分は、彼を好きになってしまったのだと。


* * * * *


 あれから気づけば十年が経ち。

 やっと一歩を踏み出し。ついに、諒と話すことができた。


  ──長かったな……。


 じっと彼の写真を惚けたまま見ていた彼女は。そのままスマートフォンを胸の上に置き、両腕で抱きしめる。

 そこには彼の温もりも、肌触りもない。

 だが、そこに彼と繋がるものがあるだけで、こんなにも嬉しいと感じてしまう。


 幸せそうな顔で目を閉じた彼女は。


「ありがとう。りょ……りょ……」


 そう、無意識に彼の名前を呟や……けず。火が出るほどに顔を真っ赤にし、思わず両手で自分の顔を覆う。


  ──うう……。やっぱり恥ずかしい……。


 そう強く感じると同時に、次に思い出してしまったもの。それは……。


  ──「も、萌絵さん」


 恥ずかしげに名を呼んだ彼の声。

 人生で初めての経験は、妄想していた名を呼ぶ彼とは全然違い。

 恐ろしく蠱惑こわく的な声が、一気に恥じらいを加速させ。


「ああ! もう!」


 頭側に置いていた柔らかい枕を手に取ると、ぽふっと頭に置き顔をうずめる。


  ──こんなんで私……次逢った時、ちゃんと出来るのかな……。


 枕に顔を埋めたまま、そんな不安を持った彼女だが。

 諒の前でもしゃんとした女子でありたい。そんな気持ちも強く感じる。

 

  ──今度逢う時までに、自然に呼べるようにならなきゃ……。


 そんな決意を持った萌絵は。枕を避け、スマートフォンを手にベッドを降り、部屋の隅のドレッサーの前に座ると、彼の写真を表示したスマートフォンを鏡に立てかける。

 そして。


「りょ、諒、君……。りょ、う、く……りょ……あーもう!」


 じっと写真を見ながら。何度も恥じらう姿を鏡に写し。

 それでも彼に自然に語りかけるようになるため、ひたすら名前を呼ぶ練習をしたのだった。

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