第六話:涙のち照れ

 突然耳にした酷く大きな乾いた音に、諒は思わず目を丸くすると、キョロキョロと辺りを見回してしまう。

 だが、傍目はために見ても、それらしい客の姿は見えず。他の客もみなが同じように音の出所を気にして周囲をちらちらを見ていたが、誰もわからないようだった。


  ──まったく……。


 大事な言葉を伝えた雰囲気を、何者かに台無しにされた気になり、少しだけ不貞腐れて頭を掻いた諒だったが。

 改めて視線を戻した瞬間。そんな気持ちは一瞬で吹き飛んでいた。


 萌絵はまるで、あの音などなかったかのように、先程見せた驚きの表情のまま固まっていたのだが。

 刹那。彼女の瞳からすっと、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「……霧島、さん?」


 どう声を掛けて良いのか分からず、呆然と呟いた諒に、萌絵ははっと我に返ると。


「あ……。ご、ごめんなさい」


 そそくさとソファに置いたポシェットからハンカチを取り出し、必死に涙を拭う。


  ──やっぱり、傷つけちゃったか……。


 女子を泣かせてしまったという事実が、強い罪悪感を生み。


「こっちこそ……。本当にごめん。がっかり、したよね……」


 諒は先程の覚悟は何処へやら。まるで自分が傷心したかのように気落ちする。

 その姿に気づき、涙を拭い終えた萌絵は、


「ち、違うの!」


 慌てて強く首を振った。


「え?」


 予想外の反応に戸惑う諒に。


「私……嬉しかったの」


 またも感極まりそうになるのを必死に堪え、萌絵は必死に笑顔を作った。


「へ? 何で?」

「だって。私、青井君の友達になれるんでしょ?」

「あ。いや、その。そう……なんだけど……」


  ──俺、昨日告白されたんだよな?


 彼女の返した言葉に、彼は少し混乱した。


「でも、恋人になれたわけじゃないんだよ? 俺、また答え待たせたようなもんなんだよ?」

「うん。でも、嬉しいの」


 まだ涙目ながら、本当に嬉しそうに笑みを浮かべる萌絵に、嘘や強がりは感じられない。

 未だ混乱の最中さなかにある、何とも困った諒の顔に、彼女は目尻に浮かんだ涙をハンカチで拭うと、ふっと微笑んだ。


「私ね。青井君の話を聞いてて。『あぁ、振られるんだなぁ』って思ってたんだよ?」

「え? あ……」


 諒はその言葉でやっと気づいた。

 彼は勿論、最初から友達にならないかと話す決意していたのだが。

 思い返せば、確かにあれだけ二人の現状を否定していたら、そう取られても仕方ない話し方をしている。


「ご、ごめん。俺の説明が下手だったから……」


 自分の会話の不慣れさと不器用さを嘆く彼に、萌絵は首を振った。


「そんな事ないよ。友達からって言葉を聞いて分かったの。青井君がちゃんと私の事考えて、一生懸命答えを選んでくれたんだって」

「でも、友達だよ?」


 念押しする様に同じ事を問い返す諒に、おかしな気持ちになったのか。

 萌絵はくすくすと笑った後、


「勿論、恋人になれたらもっと嬉しかったけど。私、十年経ってやっと、好きだった青井君とまともに話せたんだよ」


 そう言って、はにかんだ。


「今まではただの他人で、ずっと距離ばかり感じてたのに。好きな人が友達になって、自分の事を知ってほしいって言ってくれたんだもん。嬉しいに決まってるでしょ?」

「霧島さん……」


 彼女の想いを聞き、諒はそれ以上の言葉が出なかった。

 だが同時に。彼女の気持ちは分かる気がした。


 友達だとしても、好きな人の側にいられる。

 それは例え、付き合っていなかったとしても。

 側にいて、話をできただけで幸せだったと。

 好きになった人に告白する前。自分もそんな気持ちを抱いていた事があるのだから。


「本当に……友達になっても、いいの?」


 呆然とする彼に少し不安になったのか。

 少しだけ萌絵の表情が曇る。

 それに気づき、今度は彼が、安心させるように微笑み返した。


 本当は、未だに迷いがある。

 今まで人との関係を避けてきた自分が、彼女の友達となれるのか。

 友達となった後、うまくやっていけるのか。

 そして。未来でいつか、彼女との関係に本当の答えを返せるのか。


 だが、諒はそんな不安を心にしまい込んだ。

 これは自分のわがまま。そして、自分が決めた事。


  ──十年、見ててくれたんだもんな。


 ずっと恋焦がれ。ずっと見続けて。

 そして、勇気を持って告白してくれた彼女に、できる限り応えるため。

 わがままを言った自分が、少しでも変わるため。


「勿論。俺なんかでよければ」

「ふふ。私は青井君だから、友達になりたいんだけどな」


 彼の謙遜した言葉に、萌絵が冗談っぽく笑い返す。

 その言葉で互いに心の収まりがついたのか。二人は同時に、互いの飲み物を口にした。


「ちょっと新しいの取って来るね」


 コーヒーが最後の一口だった為、諒が一度席から離れようとする。

 すると。


「あ、私も行く」


 続くように彼女も立ち上がった。

 二人はまたも笑顔を交わすと、仲良くドリンクバーへと向かっていった。


* * * * *


 ドリンクバーでお互いの飲み物を取り終えた諒と萌絵は、戻ると席に着いた。

 ひとつ大きな話に片がついたのが大きいのか。その表情からは随分と緊張感も消え、どこか自然体になった……かと思ったのだが。


「そういえば……」


 席についた矢先。会話を切り出したのは萌絵だった。


「友達になったから、って訳じゃないんだけど……。青井君に、お願いがあるの」

「お願い?」


 内容がまったく分からず首を傾げる諒に、彼女は目を泳がせ、少しだけ言いにくそうな仕草をする。


「話しにくい事?」


 今までと少し違う反応に、思わずそう聞き返すと。


「そういう訳じゃ、ないんだけど……」


 少し気恥ずかしそうにもじもじとした後、萌絵は少し小声で話しだした。


「あの、ね。青井君の事……名前で呼んでも、いいかな?」

「え? どうして?」

「だって。青井君って赤城君といる事多いでしょ? 名字で呼んでたら、昨日みたいに赤城君の事かと勘違いされるかもしれないし……」


 口にされた理由は、とても納得がいくもの、なのだが。彼女はそう口にしながらも、何故か少し顔を赤らめている。


  ──そんなに、恥ずかしがる事かな?


 そう思いつつ。


「霧島さんが呼びたいなら、構わないけど」


 特に深く考えず、諒は了承した。

 瞬間。萌絵の表情がより赤くなると。


「あ、ありがとう。その……試しに……呼んでみても、いい?」


 そんな事を言いだす。


「あ、うん。別にいいけど……」


 不思議そうに返した諒に、彼女は恥ずかしげに視線を落とし、上目遣いになると。


「りょ、諒君」


 静かに、彼女が囁くような小声で名を呼んだ。


 瞬間。

 一気に血が頭に上り。心臓が高鳴り。

 諒は、ぽんっという音が出そうな勢いで、真っ赤になった。


  ──な、なな!?


 驚愕したまま固まった彼の反応に、はっきりとした恥ずかしさを感じ取ったのか。

 言った萌絵もまた、身を小さくし、視線を落とし。恥じらいと共に俯いてしまう。


  ──な、何!? 今の……。


 ここまで恥ずかしくなると思っていなかった諒は、少しの間戸惑いが消えなかった。

 だが、それも仕方ないだろう。


 彼は母を除けば、異性に名前で呼ばれた経験は殆どない。

 しかも母親は、物心ついた時には呼ばれていた相手なのだから、恥ずかしさも何もない。


 だが。

 諒は既に意識してしまっていた。

 彼女が美少女であると。彼女が告白してくれたと。

 結果。今は友達であるとはいえ、慣れぬ呼ばれ方を好意を向けてくれる美少女に囁かれては、衝撃が走らぬ訳がない。

 今までは、ただ経験がなかったから、それを知らなかっただけなのだ。


 そして萌絵もまた、改めて、好きな人を名前で呼ぶという恥ずかしさを痛感していた。


 彼女はずっと、この日を夢見ていた。

 二人が互いに名前で呼び合い、並んで歩けたら。

 ずっとそんな夢を見ていたからこそ、脳内で相当妄想もしていたのだが。


 いざ実践して見て、改めて想像と現実の違いを思い知らされた。

 それは思った以上に勇気がいるのもあったのだが。何しろ妄想上の彼は、ここまで恥ずかしがりはしない。


「……結構、恥ずかしいね」


 困ったように苦笑いを見せた諒が、落ち着こうとコーヒーを口に運ぶ。


「ご、ごめんなさい……。止めたほうが、いいかな?」


 恥ずかしさも相成り、思わず気後れする萌絵だったが。


「ううん。頑張って慣れるよ」


 彼は同じ気後れた気持ちを持ちながらも、何とか踏みとどまった。


 まだ、未来はどちらに転ぶか分からない。

 だが、それでも。


  ──俺も、変わらないとだもんな。


 諒もまた、彼女を見てそう強く感じたのだから。


 だが。


「あ……」


 変わろうとする気持ちは、彼にもうひとつの事を気づかせる。

 ぽろっと口にされた言葉に、ふっと萌絵が顔を上げると。


「あの、さ……。やっぱり俺も、名前で呼んだほうが、いいのかな?」

「……え?」

「いや、その。あおいが、『友達になったら、親しくなった証に名前で呼び合うものだよ』って、前に言ってて、その、さ……」


 恥ずかしげに頬を掻く諒の言葉に。


「え……ええ!?」


 思わず声を上げた萌絵が、諒のリプレイを見るかのように、ぽんっと一気に赤くなり、頭から湯気を出す。


 そのまま二人は沈黙を友とし。

 まるで今日この席に案内された後のように。互いに視線を目の前の飲み物に向け、静かに俯いてしまうのだった。

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