第四話:あったような、ないような
「じゃあ、最初なんだけど」
「うん」
互いに少し緊張感が生まれる中、諒は一度深呼吸すると、再び萌絵の顔を見つめる。
「昨日言ってた、幼稚園の頃から俺を見てたっていう話、順に聞かせてもらってもいいかな?」
「うん。いいよ」
真剣な顔で頷く彼女に、彼は少しずつ問い始めた。
「まず幼稚園の時なんだけど……。もしかして、俺から絆創膏を貰ったり、した?」
探り探り尋ねる諒に。
「え? 覚えてくれてたの?」
ちょっと意外そうな、しかし少し嬉しそうな顔をする萌絵。
それが少し眩しかったのか。彼は気恥ずかしそうに笑う。
「昨日妹と話してて、そんな事があったのは思い出したんだけど。でも俺が霧島さんと幼稚園で関わったのって、多分あれだけじゃない?」
「うん。そうだよ」
さらりとそう答えつつ、萌絵は少しだけ苦笑を浮かべる。
「元々別の組だったから、一緒になることもなかったし」
「だよね。それなのに、あれからずっと俺を気にしてたの?」
「え? う、うん……。だって……」
更に質問を重ねられると、その困り顔が少しずつ俯きがちになり。赤くなり。声も少し小さくなり。
「あれが、私の初恋だもん……」
最後に残ったのは、まるで囁くような、か細い声だった。
──俺が……初恋の、相手……。
予想以上に衝撃的な彼女の囁きと恥じらう表情が、またも諒の心を揺さぶり、同じ感情で満たす。
だが。また会話を途切れさせてはいけないと、彼は顔を真っ赤にしながらも、何とか話を続ける。
「そ、そっか。あれからずっと、俺のこと……そ、その。す、好きでいてくれたの?」
「う、うん……」
「でも、さ。小学校も、中学校でも。同じクラスになった事なかったよね?」
「うん」
声のトーンは多少違えど、ただ肯定し、頷くだけの萌絵。
それこそが彼女にとっての事実なのだろうが。
それでは色々と伝わっては来ない。
──どう、聞き出せばいいんだ?
異性と会話を繋ぐという不慣れさが、頭の中でどうすればよいのかと強く混乱する。
だがそれでも、諒は思考が止まりそうになるのを必死に堪えた。
「その……大きくなるにつれて、心変わりとかしなかったの?」
とりあえず心に浮かんだ疑問をぶつけると、彼女は恥ずかしそうな表情をそのままに、首を横に振った。
「だって青井君、ずっと優しかったの見てるから」
「優しい? 俺が?」
予想外の言葉に諒が目を
「小学校三年生の時、入学してきた妹さんが髪の事で馬鹿にされて泣いてたの、助けてあげてたでしょ?」
「あれは……流石に許せなかったし」
妹、
実は彼女とは、血は繋がっていない。
諒の母は結婚し子供が出来た後、横暴過ぎる夫と反りが合わずに離婚。
それはやはり他の幼い子供達には奇異に映ったのだろう。年の近い子供達から、その件でよくからかわれていたのだが。
妹を馬鹿にする相手に対し、声を荒げ、怒り、彼女を守ってきたのは彼だった。
大きくなるにつれ、
当時はこの件で諒もまた
無論。
萌絵からすれば、それは妹を助けた優しきヒーローに映った訳なのだが。
「あの頃の青井君も、本当に格好良くて、素敵だったよ?」
当時のやや直情的な行動に後ろめたさを感じていた彼だったが。彼女の優しい言葉に、少しだけ報われたような気がした。
が。同時にストレートにそう褒められては、流石の彼も限界がきたのか。思わず在らぬ方向を向いて、手をパタパタし、何とか顔を冷やそうとする。
褒められ慣れしていない戸惑いの表情に、萌絵は少しくすりとすると、敢えてそこには触れず、話を続けた。
「小学校五年生の時はね。私が借り物競争でゼッケンを借りなきゃいけなくなって。違うクラスなのにすぐ側に見えた青井君に、思わず借りに行っちゃったんだけど。覚えてない?」
「そういえば……」
そんな事はあったかと、諒が心の奥の思い出を漁ると……あった。
あれは確かに、小学五年の運動会の事。
借り物競争でクラスメイトを応援していた諒だったのだが。別のクラスの見知らぬ眼鏡を掛けた女の子が、突然自分めがけて駆け寄ってきて、
「ゼ、ゼッケン貸してください!」
と、勢いよく頭を下げられた事があった。
周囲の友達から
「お前、他のクラスの子に手を貸すのかよ!?」
などと、責めるようなきつい言葉も掛けられたが。必死そうな彼女に同情し、急ぎピン留めしたゼッケンを外して貸してあげた事を思い出す。
ただ。
その子は幼稚園のようにぽっちゃりしていた記憶もなく細身。しかも、今の彼女と違い、眼鏡を掛けていたはず。
「でもあの時の子、随分細身で眼鏡だったよ?」
あまりに女子に対し配慮が足りない、素直過ぎる疑問を返す諒だったが。
「お母さんが私の体型を心配して、小学校にあがったら一緒に朝ウォーキングさせられたの。でもお陰で、それで結構痩せたんだ。眼鏡はね。私、小学校入ってから、家で本ばかり読んでたら、それで視力落ちちゃって。ただ、中学三年頃からコンタクトにしてみたの」
機嫌を損ねる雰囲気もなく、答えにくそうな質問にも、彼女はさらりと答えてくれた。しかも、彼が知ろうとしてくれているのが余程嬉しいのか。話す表情にあるのは笑顔ばかり。
「あの時は恥ずかしくって、ゼッケンも友達から返して貰っちゃったけど。本当に、凄く嬉しかったんだよね……」
「そ、そっか……」
「中学校二年になってすぐの時はね。プリントを運んでる時に廊下で転んじゃって。ばらまいたプリントを必死に集めてたら、拾うのを手伝ってくれたんだけど……覚えてる?」
「……そんな事、あったっけ?」
「うん。私がお礼を言ったら、『気にしないで』って言って、すぐ去って行っちゃったけど……」
そう言うと今度は一転、残念そうな顔をする萌絵。
あの時は彼女にとって、諒と話せる絶好のチャンスだと強く感じただけに、自分の奥手っぷりに数日後悔したのをよく覚えている。
だが、諒の方はといえば。
その時の事を思い出そうとしても、さっぱり思い出せなかった。
多分、萌絵は嘘をついていない。
それは彼も理解している。
それでも思い出せない理由があるとすれば、ただひとつ。
──あの頃、何か色々どうでもよくなってたもんな……。
当時の嫌な自分を思い返し、諒の表情があからさまに曇る。
彼女の語った中学二年の始めと言えば。数ヶ月前、中学一年の時に、初恋の人に告白して振られた後。丁度、異性、同性問わず距離を置くようになった時期だった。
とはいえ、まったく人に関わらなかったわけではなく、無難に学校生活はこなしていたのだが。あの時期の無気力っぷりは相当なもの。
根の優しさから、無意識に行動している事も多々あったが、後でそれを尋ねられても覚えていない。そんな事も多かった。
何かと気を遣って
本当にあの時期の他の記憶は、記憶喪失になった訳ではないものの、あまりに希薄過ぎていた。
「あ……」
と。萌絵の声に我に返ると。彼に釣られるように、彼女が心配そうな顔を向けていた。
「嫌なこと、思い出させちゃった?」
様子を伺う言葉に、諒は少しだけ複雑な顔を見せてしまう。
自主的に誰かを助ける者は、それを嫌だと思ってする者はそういない。
だが彼女はそこで、嫌なことを思い出したのかと心配をした。
それはつまり……。
──やっぱり、知ってるんだよな。あの時期の事……。
自分を見続けてくれた相手だからこそ、きっと知っているであろう、彼が失恋した頃の話。
それを思い出させたと気づいたからこそ、見せたであろう憂いに。
「ごめんごめん。大丈夫だから」
諒は必死に鬱々とした心を隠し、笑ってみせた。
「本当にずっと、見てくれてたんだね」
「うん。でも……」
未だ気まずそうな萌絵は、一度気持ちを落ち着けるようにほうじ茶を少し口にした後。カップを手に持ったままテーブルに手を置き、じっとその中を見つめると。
「……やっぱり、ちょっとおかしいよね」
そう言って、憂いの残る弱々しい笑みを浮かべた。
「好きなのにずっと告白もしないで、十年も見続けてきちゃったんだよ。青井君もそんな子、怖いよね……」
萌絵は、たった少しのきっかけで、自分に対する自信を失っていた。
自分の会話が今、諒を嫌な気分にさせたと気づき。それが自分が今までしてきた行動が普通ではないと気づかせ。それが自虐的な言葉を生んでしまう。
ため息を漏らす萌絵に。
「そんな事ないよ」
諒は、首を振り静かにそう否定した。
顔を上げた彼女の瞳に映るのは、凛とした彼の顔。
「俺も、さ。人を好きだった時は、無意識にずっと目で追ってたし。その子との想い出も、ほんの些細な事ですら凄く覚えてたよ。多分、人を好きでいるってそういう事じゃないかな? だから、怖くもないし、おかしくもないよ」
素直な気持ちを語り、コーヒーを一杯口にすると。
「見ててくれてて、ありがとう」
そう言って、笑って見せた。
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