第13話 犬も食わない

 全国でチェーン展開しているカフェの店内。外に面した窓際の席に調査員の三上みかみは座っている。


 三上の隣には一人の女性、――坂下さかした瑠璃子るりこが神妙な面持ちで座っていた。


 そして目の前には二人の男性。


 三上の前にはスーツ姿で、真面目そうな印象のサラリーマン風の男。坂下の目の前には白いTシャツの上からブルーのシャツを羽織った大学生と思わしき男が座っていた。


「さて、それでは今回の訴えについての確認を……」

 と話し出したのは三上の目の前のサラリーマン風の男だ。彼は第一海上日動の社員で、貰った名刺によると鈴木すずき清隆きよたかという名前らしい。年は三上とそう違わないくらい――三十代前半かと思われる。


「はい。今回はこちらの坂下様より新藤様に対してセックス同意に関する訴えがございました。そして、両人のご希望により、今回は顔を合わせての話し合いの場を設けさせて頂いた次第です」


 三上が淡々と状況を説明し、大学生風の男――新藤に目線を送ると、新藤はまいったなぁと言わんばかりに頭をぽりぽりと掻いた。


「そうですね。それでは事故の状況を再度お聞かせ頂いてもよろしいでしょうか?」

 第一海上の鈴木が笑顔を作りながら坂下瑠璃子に問いかける。


「状況もなにも、この男は私と付き合っている間ずーっと同意書なんて書かなかったんです。最低の男なんです!」


 坂下はそう言うなりハンカチを口元にやりぽろぽろと涙を流し出した。


「まぁまぁ、落ち着いて下さい坂下様。セックス同意についての訴えに関しては、事故が起こった具体的な日時が必要なのです。訴えを起こされる対象の日時についてはお決まりですか?」


 鈴木が坂下をなだめながら話を進めようとする。


「具体的な日時は、……先月、八月の二十五日です。……彼と最後にセックスした日です」


 三上は彼女のカルテ――【顧客情報及び案件記載書】――に記載されていた日時と間違いがないことを頭の中で確かめる。


「左様でございますか。――新藤様、坂下様のお話に間違いはございませんか?」

 鈴木が隣にいる新藤に確認すると、新藤は黙ってうなずいた。


「……なるほど。では、今回焦点となるのはその日のセックスにおいてどういった流れでセックスの同意が行われなかったか、ということになりますが……」

 鈴木が少しだけ間をおいて未だにぐずっている坂下を見やる。


「先ほど坂下様がおっしゃっていたとおり、お二人は恋人関係にあった。しかもお聞きしたところ三年もの間お付き合いをされていたということですよね?」

 鈴木の言葉に、坂下がゆっくりとうなずいた。


「そしてその間、お二人は幾度となく性交をされていたと。ここも間違いはございませんか?」

 坂下が再度うなずく。


「では、なぜ今になって訴えを起こされるのでしょうか? もし同意を求められていたということであれば初めから訴えを起こせば良かったのではないでしょうか? つまりこれは、お二人の間で『暗黙の了解』のようなものがあったと判断することも出来ますよね?」

 鈴木がまっすぐと坂下の目を見る。坂下はその視線に耐えきれずに思わず俯いてしまった。


「鈴木さん、お待ちください」

 声を出したのは三上だ。


「たとえお二人の行為が常習的に行われていたとしても、判例の多くが訴えを起こした時点での状況で判断されることがほとんどです。ですので、これまでのことではなく今回の事故の話を進めさせてもらえればありがたいのですが」


 鈴木と三上の視線が交差し、まるで火花が散るようにお互いの目をまっすぐ見つめ合っている。


 鈴木のようなやり口は保険会社の人間にとっては常套手段だった。


 婚姻関係または恋人関係にあるカップルはいちいち同意書を書かないことはよくある話だ。

 そして保険会社の人間は少しでも賠償額の交渉を有利に進めるため、過去の事実を指摘し、訴えた側の心を揺さぶるのだ。

 しかし今回は同じく保険会社の人間である三上が同席しているため、そうはさせまいと三上が口を挟んだというわけだ。


「ふぅむ。ですがねぇ、三上さん。こちらの新藤様は今回の訴えに大変動揺されているのですよ。二人の仲になにかあったにせよ、ほんの少し前まで恋人関係にあった人から突然訴えられたとあってはそれも当然のことでしょう」


 鈴木が新藤を見やると、新藤はどこかすねたように口を尖らせた。


「坂下様。新藤様は現在、大変ショックを受けられております。元恋人からの訴えに心に嵐が吹きすさび、頭はぐちゃぐちゃに混乱し、夜も眠れない日々が続いておられます。あぁ、なんということでしょう」


 鈴木が舞台俳優のように大げさな身振りを伴って肩を落とす。あまりに演技がかったその言動に、三上は内心ため息をついた。


「騙されないでください、坂下様。これはアナタの良心に訴えるためのやり方です。どうか心を揺らさず、しっかりとご自身の意思をお持ちください」


 三上が助け舟を出すように隣の坂下に言う。


「騙すだなんて、そんな! 三上さん。アナタも保険会社の人間ならお分かりでしょう? 訴えられた人間がどれだけ傷つき、心を痛めるのかを。私たち保険会社の人間は、その痛みに寄り添うのが仕事ではありませんか」


 饒舌じょうぜつに話を続ける鈴木を見ながら、三上は正直「やり手だな」と思っていた。


 目の前にいる鈴木はかなり弁が立つ人間のようだ。おそらくこれまでもこういったやり方で幾度となく相手方をやりこめてきたのだろう。


「もちろん、そのお気持ちは分かります。ですが、訴えを起こされる方の苦しみも、同じくお分かりになりますよね?」

 三上はいたって冷静に鈴木に返す。


 一瞬、鈴木の眉が動いたような気がするが、すぐさま笑顔を浮かべた鈴木が坂下に向けてさらに質問を続ける。


「そもそも、どうして今回に限って訴えを起こそうと思われたのです? それまでは二人仲良く過ごしてきたはずでは?」


 鈴木の言葉に、坂下がまた鼻をぐずぐずと鳴らして泣き出した。


「だって……、だってまーくんが浮気したからぁ」


 欲しいおもちゃを買ってもらえずに癇癪かんしゃくを起した子供のように坂下が声を上げて泣き出した。

 そんな彼女を見て周りの男三人はどうしたものかと顔を見合わせる。


「さ、坂下様。落ち着いて下さい。ゆっくり、息を吸って……」

 三上がなだめるように坂下に声を掛ける。


「私だけって言ってたじゃん。でもまーくんが浮気したからぁ。ひぇぇん」


 坂下は大きく口を開けて泣き声を出す。近くの席にいた客たちが何事かと様子を伺ってくるので、三上はぎこちない笑顔でそれらの客に頭を下げた。


「違うよ! るりるりのことは本気だったんだよ!」


 突如として新藤が声を上げる。泣いていたはずの坂下も新藤に顔を向けた。


「で、でも、浮気したのは事実じゃん! しかも相手の女の子には同意書を書いたって聞いたわよ! だから私、悔しくて――」

「だからだよ!」


 新藤が身を乗り出して坂下に顔を近づける。


「るりるりのことは本気だったから、だから同意書も書かなかったんだ! 他のどうでもいい女だったからこそ、同意書を書かせたんだ! 僕の気持ち、分かってくれるよね!」


 新藤が坂下の手を取り両手で握りしめた。


「……まーくん」

 坂下がうるんだ瞳で新藤を見つめる。

「……るりるり」

 新藤も坂下を見つめて頷いている。


「やっぱり、……やっぱり私にはまーくんしかいないのぉ!」

「僕もだよ! るりるり!」


 テーブル越しにも関わらず、新藤と坂下が情熱的な口づけをかわす。

 三上と鈴木はぽかんとした表情でそれを見ていた。


「僕のこと、許してくれるかい?」

「もちろんよ、まーくん。ずっと愛してるわ」


 二人は手を取り合ったまま腰を上げる。


「じゃあ、そういうことなんで今回の訴えは取り下げますね!」

 坂下が笑顔でそう言い残し、二人で仲良く腕を組みながら出口のほうへと歩き出した。


 残された三上と鈴木の間にしばし沈黙が流れた。


「……煙草、いいですか?」

「ええ、どうぞ」

 鈴木がポケットから煙草を取り出したので、三上はそれを了承した。


 使い込まれた銀のジッポーライターを小気味よく鳴らしながら、鈴木がタバコに火をつける。


「……ねぇ、三上さん」

 鈴木が呟くように言うので三上は鈴木に顔を向けた。


「……私らの仕事って、一体なんなんでしょうね?」


 鈴木が窓の外を眺めながら吐き出した煙が、ふたりの心情を表すかのように複雑な文様を描きながらゆったりと空中で踊っている。


「……まったく、なんなんでしょうかね」


 三上も窓の外に目を向ける。


 汗をかいたグラスの中の氷が、ひとりでにカランと音を鳴らした。

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