第56話 わたしをつくるもの


 

 空が青いなあ、と突然思った。

 それから自分が何者で、どうしてこんなふうに飛んでいるんだっけ、と疑問に思う。

 地上を見ると、ちょうどお城の上だった。


 ふと興味が湧いて高度を下げると、バルコニーで二人の青年が話しているのが見える。もう少し近づいてみたら、ひとりが視線を上げて一瞬目が合ったような気がした。くるりと旋回して離れる瞬間、大きな窓から淡い水色のドレスの少女が顔を覗かせる。元気そうでよかった。


 よかった。

 でも、何が?

 思い出せそうなのに思い出せない。


 お城を一巡りしてみることにした。

 回廊を早足で歩いて行く美しい女性は、部下を何人もひきつれ何ごとか指示を出している。その横をすり抜けて表門のほうへ出れば訓練場だ。大勢の騎士たちの姿が見える。私は近くの木の枝で羽根を畳んだ。


 背の高い騎士が、何人もの騎士の相手をしている。

 その剣筋は迷い無く綺麗だった。


 綺麗だった。

 おかしいな、剣のことなんて知るはずないのに。

 もっと近くで見たくなって、羽根を広げる。

 できるかぎり低いところで旋回していると、件の騎士が他の騎士たちを手で制してこちらを見上げた。


「……」


 少しまぶしそうに、目を細めて。

 何故か物憂げな顔で、じっとこちらを見ている。

 私の色が珍しいのかしら?

 手にした剣に太陽の光が反射して、ぴかりと光った。


「アリス」


 と、小さな声で騎士は言った。

 アリス、

 アリス?


 ひどく懐かしい響きに目眩がして、飛び方を忘れそうになる。

 騎士はなにを思ったのか、まっすぐに私の方へ腕を伸ばした。

 ごくごくあたりまえのことみたいに、その腕にとまって羽根を休める。


「……不思議だな。お前の羽根の色は、」


 と、騎士は微かに笑った。

 懐かしい、大好きな笑顔。

 懐かしい、なつかしい?

 わからない。


「もしお前に心があるのなら」


 と、騎士は低い声で続けた。


「どうか俺の兄を、慰めて欲しい」


 その声がひどく悲しげで優しくて、身体の中心がきゅうと痛んだ。

 同時に、暖かい何かが私に流れ込んでくる。

 共鳴する。何かが内側から爆発しそう。

 私は首を傾げてみせてから、羽根を広げた。

 騎士がまた腕を伸ばしてくれたので、ひとつ跳ねてからそこを飛び立つ。




 高く、高く空へ向かう。

 お城が遠くなって、街を一望できる。

 街を囲う城壁の、いくつかある塔のひとつが気になって下降しながらゆっくりと近づくと、塔のすぐ近くの城壁に人影を見つけた。


 ああ、やっと見つけた。

 やっと?

 ええと、誰だっけ。


 考えているうちに、人影は通路の端の低い段差にのぼり、王都を見渡す。


 落ちてしまいそう。

 急に不安になった。

 ほんの一瞬浮かび上がる炎のイメージ。

 何度繰り返しても平穏な終わりを迎えられなかった、だからこそ。


 私は彼を救いたかった。

 でも、『私』って誰かしら?


 愛する子供の未来を憂いた人の傍にいた。

 迷い込んだ世界で受け入れてくれた貧しい村に、優しい人たちと共にあった。

 部屋でひとり、何度も何度も彼を救う方法を探した。

 それから……、


 人影がまたわずかに前に出る。

 少しでもバランスを崩したら本当に落ちてしまいそうだ。

 人は飛ぶことができないから、あの高さから落ちればきっと死んでしまう。

 はらはらしながらもう一度くるりと旋回すると、彼は手のひらにある何かに目を落とし、それをそっと握った。


 急いで降下する。

 ああ、私にもっと大きな身体をください。

 あの人を引き留める腕と、脚と、声。

 これで最後でもいいから、ほんのひとときでもいいから、望む形に。

 どうか。


「ダメ!」


 すぐ傍に降りて叫ぶと、重力を感じた。

 驚いた顔がこちらを向く。

 バランスを崩しかけてよろけるその人の腕を掴んで、思い切り引っ張った。

 ニコラス・オーウェン。何度エンディングを迎えても、お別れさえできなかったその人に。


 ようやく会えた。


「アリス」

「……、」

「本当に」


 震えていた。

 ぎゅうっと抱きしめられると、懐かしい匂いがした。

 死なないで、生きていて、どうか幸せに。

 今の私のたった一つの願いだから。

 一言、そう伝えたかった。

 私はもう、アリスではないかもしれない。

 それどころか、ヒトですらない。

 それなのに。


「ああ……、幻でもいいから消えないでくれ」


 不意に、温度を感じた。

 背中にまわされた手のひらの感触も、頬に落ちる涙のあたたかさも、どんどん鮮やかになっていく。私は私が誰だったかを思い出した。違う世界からやってきた異邦人でもなく、何も知らない小さな人型でもなく、魔女の血を引く母親の使い魔でもなくて、私は。


「アリス」


 掠れた声。

 

 魔女の呪いを解くための魔法。

 つぎはぎの心と身体に魔力を注ぎ込まれたお人形。

 だけど兄たちに、亡き父に、優しい人たちに余るほどの愛情を注がれて、私はアリスという娘になった。呪いを解いて消えてしまっても、それだけは残っていた。


「お兄様……、」


 そっと呼びかけると、ニコラス兄様の腕がほんの少し緩んで目が合う。

 私はまだ消えていない。

 消えたくない。


「消えちゃ駄目だ」


 子供みたいに泣きたくなった。

 お兄様の声は、あやすよう励ますように、でも怖いくらいに真剣で。


「お前のいない国なんて、今度こそ私が滅ぼしてしまうよ」


 それは新しい呪文、そして祝福の言葉だった。


 







 (傾国のアリス/了)


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傾国のアリス タイラ @murora

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