第53話 一夜の夢を
俺自身は平凡な子供だった。
だけど、俺を育ててくれたじいさんは時々怖い顔をして俺に言った。
『お前は、奇妙な運を持っているな』
『運を持っている』というのならどうしてそんなに怖い顔をするのかと子供の頃は不思議だった。でも、今ならわかる。生きていると運だけではどうにもならないことがあるからだ。運にばかり頼っていたら、乗り越えられない壁がある。
『運に呑まれては身を滅ぼすぞ』
ああ、わかってるよ。
じいさんは『運』だと思っていたけれど、本当はそうじゃないんだ。
気付いたのは、ずっと後になってからのことだったけど。
どんなにカンが働いても運とやらを持っていても、避けられない災いはある。最初にそれを思い知ったのは、他でもない、じいさんが死んだ時だった。
すうっと、何か白いものが視界を横切った。
それは寝台まで移動して、一瞬ぶるりと大きく揺れた。
悪寒が背中を這い上がる。寝台に横たわる少女のまつげが確かに震えたのを見て、叫び出しそうになった。
あの身体は魔女のものではないはずだ。千年以上続く誓い、呪いの依り代として差し出された、魔女の一族の少女のはずだ。生きていても不思議はない、むしろ生きていればいいと思っていたのに、一目でわかった、わかってしまった。
あれは屍だ。魔女が目覚めるそのときまで魂を蝕まれる、可哀想な生贄。濃縮された呪いを納めるための器。彼女自身に罪は無く、魔女の意識に悪意はない。だからこそ醜悪で邪悪で恐ろしい。
奥歯を噛みしめてどうにか耐える。
逃げたい。
逃げてしまいたい。
「ノエル、真っ青だわ」
いつのまにかアリス様が隣に来ていた。
大丈夫、俺はまだ正気だ。目だけでうかがうと、王子2人とアーサー様は寝台を見詰めたまま凍り付いたように固まっていた。
もしかしたら、どうにか動けるアリス様と俺のほうがおかしいのかもしれない。
「アリス様、ここにいちゃ、ダメです」
「いいえ」
きっぱりとそう応え、アリス様はまっすぐ寝台を見据えた。その瞬間、パチリと魔女の目が開く。まるで普通に、気持ちよく目覚めた朝みたいに。
立ち尽くしていると、それは確かめるようにゆっくりと身体を起こした。
『気持ち悪い』
そう聞こえたような気がしたけれど、声ではなかったかもしれない。
魔女はゆっくり頭を振って、顔にかかる髪を払う。
『ほんとうに、暗くて気持ち悪い部屋ね。最悪』
子供っぽくそう言って、魔女は無造作に部屋を見渡した。
黒い髪、黒い瞳。誰かに似ている。
『でもいいわ』
首を巡らせ、何かを見つけて満足そうに魔女は微笑んだ。
あまりにも無邪気で、それが何故か恐ろしい。
『約束通り来てくれたのだもの』
そう言ってくるりと体勢を変えると、隠し扉の方に向いて床に足を下ろす。
まるで生きているみたいだ。
けど、違う。
寝台自体が、微かに霞がかかったみたいにゆがんで見える。いつのまにか幕の破れはなくなり、豪華な寝台はまるで新調したばかりのようにきらびやかに見えた。
『勇者さま、私をお妃にしてくれるのでしょう?』
幸せそうに、楽しそうに、嬉しそうに。
魔女は目前にいる俺とアリス様を見ていなかった。視界に入っていない、魔女の居る世界に俺たちは存在しない。ただ、まっすぐにアルバート王子を見ている。
“アルバート王子の顔はの、くだんの勇者に生き写しなんじゃよ”
じいさんの言葉はたぶん正しかった。
魔女の座っている寝台はゆらゆら霞み、その声はからっぽの頭に直接響いているみたいで温度が感じられない。同じ部屋にいるのに、彼女の周囲だけが遙か遠いところにあるみたいな、妙な感覚。
『どうぞ、はやくこちらにいらして?』
魔女の声が聞こえるたび、なんともいえない不安が大きくなる。ここにいていいのか、そもそも自分がここに存在しているのか、どんどんあやふやになっていく。何かに縋りたくて目だけを動かすと、王子たちはあいかわらず棒立ちで魔女を見詰めていた。ただ、アルバート王子の姿だけが魔女と同じようにわずか霞んで揺れている。
「……ノエル、私の声が聞こえる?」
すぐ隣で、アリス様が囁いた。
はっとして視線を戻すと、青い瞳がまっすぐに俺を映している。
「きこえ、ます」
どうにか声が出た。自分でもびっくりするくらい震えていて、可笑しくて笑い出しそうになった。くそ、しゃんとしろ、自分。
「ここがどこか、自分が誰か、わかってる?」
「はい……、はい!」
精一杯の強がりで応えると、アリス様には伝わったらしい。にっこりと、いつものように笑ってくれた。
「あなたがいてくれてよかった。魔女の夢に取り込まれないで――」
夢に取り込まれる?
意味はわからない。
「もう少しだけ、私のことを覚えていて……お願い」
もう少しだけ?
ああ、ダメだ。このままじゃダメだ、そんな予感で手を伸ばした。アリス様を捕らえておきたっかった。それなのに身体は思うように動かない。届かない。指先だけが、わずかに白い手に触れた。だけど、離れていく。
『さあ、勇者様……』
魔女がまた一歩王子に近づいたとき、アリス様が遮るように彼女の目の前に躍り出た。魔女は小さく目を見開いて、不思議そうに首を傾げる。
その瞬間、アリス様の姿が微かに歪み始めた。
寝台と同じように。
魔女と同じように。
アルバート王子と同じように。
たぶん、魔女の視界に入ったからだ。
「ごきげんよう、麗しい方」
アリス様は膝を折って略式の礼を取った。舞踏会の挨拶みたいに優雅だ。どうやら魔女は、その優雅さを気に入ったらしい。
『まあ、ごきげんよう……あなたは誰?』
驚いたというように、右頬に手を添える。その仕草は子供っぽく、白いドレスで無防備な姿は、到底魔女になんか見えない。
「私は」
と、アリス様の声がわずかに低くなった。
「私は貴女の一族の末裔、……そこに連なる者です」
『末裔? 私の一族の?』
「はい」
わずかに首を傾げて、魔女は瞬き二回ぶんくらい考えるそぶりをみせる。否、そう見せただけかもしれない。
『私の血肉を与えたものたちの末、ということかしら』
魔女が微笑んだ。自分の思いつきに満足したよ子供のように、嬉しそうに。
『つまり貴女は……、ずっと先の時代から私に話しかけている?』
「その通りです――すぐに理解していただけるとは思いませんでした」
『珍しいことではないわ。時間の隔たりも空間の隔たりも、私には意味が無いもの』
明るい声で、世間話みたいな気軽さで。
俺は働かない頭で言葉の意味を考えていた。時間も空間も、魔女には意味が無い?
『時を超えてお話できるなんて、素敵ね。でも今はダメ。お話ならまた今度』
「いいえ、今でなくては、また繰り返してしまう」
『繰り返す?』
「そう、あなたは夢を見ています。一番幸せだった夜の夢を、何度も、何度も」
『夢?』
魔女がそう首を傾げると彼女の周囲の霞が広がり、部屋の様子が変わった。
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